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ナワリヌイ暗殺未遂事件とメルケル政権の苦悩

ドイツとロシアの関係に大きな影を落とす事件が、また発生した。プーチン政権の声高な批判者として知られるロシアの政治活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏が、8月20日に、シベリアのトムスクからモスクワに戻る飛行機の中で意識不明の重体に陥ったのだ。

今年2月にモスクワで撮影された、ナワリヌイ氏(左)と妻のユリア・ナワリヌイ氏(右)今年2月にモスクワで撮影された、ナワリヌイ氏(左)と妻のユリア・ナワリヌイ氏(右)

家族がドイツへの移送を希望

旅客機はオムスク空港に緊急着陸し、ナワリヌイ氏は病院に担ぎ込まれた。彼の家族は「ナワリヌイ氏はシベリアで始終尾行されていた。彼は飛行機に搭乗する前に毒を盛られたに違いない」と指摘したが、オムスクの病院は「毒物は見つからなかった。新陳代謝障害ではないか」と発表。

ナワリヌイ氏の妻は、ヤカ・ビジリ氏に電話で救援を要請した。ビジリ氏はスロベニア人の映画プロデューサーでリベラルな政治活動家でもある。また、同氏はベルリンに本部を持つ「平和のための映画(シネマ・フォー・ピース)」財団の責任者で、2018年にロシアの政治活動家ピョートル・ウェルシロフ氏がやはり毒物を盛られた時にも救援活動を行った。

ビジリ氏は看護施設を備えた特殊な小型ジェット機をオムスク空港に送り、ナワリヌイ氏をドイツに搬送してベルリンのシャリテー大学病院に収容させた。この病院の医師たちはウェルシロフ氏が毒を盛られた時にも治療に当たっており、毒物に関する救急医療の経験が豊富だ。

「神経剤が使われた疑い」

シャリテー病院は8月24日に声明を発表し、「ナワリヌイ氏の症状は、コリンエステラーゼ阻害剤による疑いが強い。毒物そのものは検出されていないが、複数の独立した検査機関が、被害者の身体にコリンエステラーゼ阻害剤が作用しているという見解に達した」と述べた。コリンエステラーゼ阻害剤は神経剤の一種で、VXやサリンなどの毒物はその例だ。

メルケル政権のシュテフェン・ザイバート報道官は同日「シャリテー病院の医師団は、ナワリヌイ氏が毒を盛られた疑いを強めている。ナワリヌイ氏がロシア政府に反対する勢力として重要な地位にあることを考えると、ロシア当局はこの事件を徹底的に解明しその過程と結果を公表するべきだ。ナワリヌイ氏を襲った者たちを逮捕し、法的責任を追及しなくてはならない。われわれはナワリヌイ氏が治癒することを願う。厳しい運命に襲われたナワリヌイ氏の家族に対しても、われわれは心から連帯を示す」という声明を出している。

ドイツ連邦刑事局(BKA)やベルリン警察は、ナワリヌイ氏がさらに襲われる危険があるとして、シャリテー病院に厳重な警戒態勢を敷いている。

ドイツの政界や論壇では、犯行の手口などから何者かが反プーチン派の急先鋒であるナワリヌイ氏を暗殺しようとしたという疑いを強めている。連邦議会外務委員会のノルベルト・レットゲン委員長は「再び起きた殺人未遂事件は、ロシア政府とプーチン大統領の真の顔を曝した」と批判した。キリスト教民主同盟(CDU)で国際問題を担当するローデリヒ・キーゼベッター議員は、ロシアの外交官の追放や、ロシア政府への追加的な制裁措置を実施するべきだと主張している。また緑の党のオミード・ノリプーリ議員は、「欧州連合(EU)はロシア政府に事件の徹底究明を求める共同声明を出すべきだ」と求めている。

ロシア側は毒物説を疑問視

ロシア政府の報道官は「ナワリヌイ氏が毒を盛られたという証拠は、まだ見つかっていない。なぜドイツの医師たちがこれほど早い時点で毒殺未遂という結論に至ったのか、理解できない」と述べている。

ナワリヌイ氏を誰が誰の命令で暗殺しようとしたのかは、過去の事件同様に闇に包まれたまま終わるに違いない。ロシアには、犯罪者、マフィア関係者、元秘密警察や元軍関係者など、体制側の「空気」を読んで政府批判者の殺害を試みる人々がいる。実行者は、誰の指示で動いたかについて、証拠を残さない。

ドイツでは昨年ベルリンでチェチェン人の亡命者がロシア人に拳銃で射殺される事件が発生したばかり。被害者はコーカサス地方でロシア軍と戦った抵抗勢力のメンバーだった。ドイツの捜査当局は、ロシア軍の諜報機関が殺害を命じたとみている。ロシア政府はこの時にも、ドイツ側の捜査に積極的に協力しなかった。ナワリヌイ氏暗殺未遂事件の解明も難航するだろう。

EU・ロシア間の「新冷戦」がさらに深刻に

この事件はメルケル政権にとって大きな頭痛の種だ。欧州だけでなく中東の安全保障は、ロシア政府の協力なしには確保できない。例えば、現在ベラルーシでは多くの市民が選挙結果をめぐって政府に対する抗議デモを繰り広げているが、同国政府による武力鎮圧を避けるには、プーチン大統領の圧力が重要である。

だが近年ロシア政府はクリミア半島の併合やウクライナ内戦への介入に見られるように強権的な態度を強めているほか、体制批判が暴力によって封じられる状況を放置している。ドイツ在住のあるロシア人は「ロシアの大手新聞や放送局は翼賛化されており、リベラルな大手メディアはない」と断言する。ドイツをはじめEU加盟国は、言論や思想の自由が踏みにじられる事態を見過ごすべきではない。この事件で、ドイツ・EUとロシアの間の「新冷戦」は一段と深刻になるだろう。

黒・緑連立政権が誕生か?

来年の連邦議会選挙のシナリオで最も可能性が高いと見られているのが、CDU・CSUと緑の党の連立政権である。公共放送局ARDが8月6日に発表した調査によると、CDU・CSUへの支持率は38%、緑の党は18%なので過半数を確保できる可能性が強い。

2015年の難民危機以降、CDU・CSUへの支持率は下がる一方だったが、コロナ危機からは回復した。イタリアやフランス、スペイン、英国とは対照的に、メルケル政権がパンデミックの第1波で死者数を比較的低い水準に抑えることに成功したからである。

コロナ対策の巧拙は政局に大きな影響を与える。ゼーダー氏も完全無欠ではない。8月中旬には、バイエルン州保健当局で帰国者に対するPCR検査の結果通知が大幅に遅れるなど、混乱が生じている。「ゼーダー首相」が来年本当に誕生するかどうかは未知数だ。

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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