「ドイツ民主共和国の国民、友人、同士諸君。建国40年目の地方選挙は、統一名簿の候補者に素晴らしい結果をもたらしました」と、エゴン・クレンツ選挙管理委員会委員長は1989年5月7日夜のニュース番組Aktuelle Kameraで報告した。
SEDの正統性を証明するための選挙
1980年代後半、東ドイツの国民は、ソ連のゴルバチョフ共産党書記長が進めるペレストロイカ(世直し改革)とグラスノスチ(情報公開)に強い共感を示したが、特権と腐敗におぼれたエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長と支配政党SED(ドイツ社会主義統一党)は、現実を見ることさえできなくなっていたようだ。87年4月、クルト・ハーガー政治局長は西ドイツ・シュテルン誌のインタビュアーに対して、「隣の家が内装を張り替えたから、我が家もそうすべきだと思うのですか?」とまで言う。
産業は疲弊し、都会では洗濯物を外に干すこともできないほどに環境汚染が進み、いたるところに諜報機関シュタージの監視の目が光っている。国民が無力感と同時に怒りを覚えるのは当然である。しかし、「我が社会主義路線に改正は要らない」と力説するSEDは、在住外国人に参政権を与えてお茶を濁し、89年5月7日に地方選挙を行って現体制の正統性をアピールすることにする。そのためには前回の選挙同様、高い支持率を得なければならない。集計の不正はこうしてプログラムされた。
一党独裁国家のパフォーマンス
ここで東ドイツの選挙制度について触れておこう。東ドイツは中央集権化を図って1952年に15の地域(東ベルリン+ 14県=Bezirk)に再編され、行政の各段階に 人民代表機関(議会)を置いていた。国会にあたるのは人民議会で、改選は5年ごと。県議会、郡議会、市町村議会への選出は地方選挙としてまとまり、同じく5年ごとである。
しかし、選挙そのものが一党独裁国家のパフォーマンスだった。SED以外に存在するドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ自由民主党(LDPD)、ドイツ国民民主党(NDPD)、ドイツ民主農民党(DBD)、自由ドイツ労働組合連盟(FDGB)などは飾り物的な衛星政党であり、全体をまとめる「ドイツ民主共和国国民戦線(Nationale Front der DDR)」が中央選挙管理委員会を組織して、候補者の統一名簿(Einheitsliste)を作る。各党の候補者数と比率は、必ずSEDが最大勢力になるよう一定に保たれていた。
そして有権者は、その名簿全体に対して賛否を表明することしかできない。賛成の場合はそのまま無記名で投票箱へ入れ、反対の場合はその欄に印をつける必要があるため、カーテン・ボックスに入らなければならない。これでは誰が反対者かは一目瞭然。しかし選挙を棄権することも、選挙委員会が自宅までチェックに来るので難しい。その結果、投票率は常に99%に近く、賛成票もほぼ同数だった。
不正への抗議~民主革命へ
しかし、今回はそんな高い数字が出るはずはないと、一般市民も反対派も、そして政治の当事者でさえもが思っていたそうだ。今までの選挙とは異なることが起きていたからだ。教会に庇護された反体制活動グループやエコロジー・グループなどが共同戦線を張り、投票所で開票に立ち会ったのである。
例えば東ベルリン・ヴァイセンゼー地区では、68の投票所のうち、67カ所で各々3人の市民が開票を見守った。開票が終ったのは夜7時半。有効票のうち90%が賛成、10%が反対だった。一方、SED党員だった当時の東ベルリン・トゥレプトウ区長ギュンター・ポラウケ氏は、20年後にtaz紙でこう振り返る。
「投票率99%、支持率95%ぐらいだろうと予想していたら、集計を2度やり直しても支持率は90%止まり。選挙管理委員会に報告したらよく考えろと言われ、翌日ま で悩んで結局は95%でごまかしたのです」
ところが選挙当日の深夜に、エゴン・クレンツ選挙管理委員長がテレビで行った報告は「投票率98.77%、うち反対票は1.15%」。最終投票率は後に98.85%へと引 き上げられ、ホーネッカー国家主席は「これで、我が地方政治は市民から承認されました」と言う。
東ベルリンの市民団体がこの結果に意義を申し立てたのは5月12日。彼らは以後、毎月7日にアレキサンダー・プラッツで抗議デモを始める。国民の大量脱出、ライプツィヒ市民の月曜デモ、ホーネッカーの失脚、ベルリンの壁崩壊へと続く東ドイツ民主革命の第一歩は、こうして踏み出された。
17 Juni 2011 Nr. 872