Hanacell

ドイツマルクの登場

 
1948年6月20日
帝国マルク、レンテンマルクからドイツマルクへ。西側占領国の通貨改正法により、人々はいまやほぼ無価値に等しくなった古い紙幣を握り締め、通貨交換所の前に列をなした。
 

焦土と化したドイツ

ナチスドイツが無条件降伏をしたのは1945年5月8日。ユダヤ人600万、ソ連邦2000万人ほか、計5500万人もの命を奪ったナチス犯罪と戦争によって、敗戦国ドイツは焦土と化し、800年来自領だった東方の土地をポーランドとソ連に明け渡すことになった。

4分の3に縮んだ国土には米英仏ソの4占領軍が入り、ナチ要人に対するニュルンベルク裁判と、社会からのナチズム一掃が始まる。が実のところ、庶民の関心は寝る所と食べ物を見つけ、物々交換に使える品物を手に入れることだった。帝国マルクはただの紙切れになり、タバコが通貨代わりともいえる闇経済が出現していたからである。

この時代に最も辛酸をなめたのは、プロイセンやシレジアなど旧ドイツ領から追放されてきた難民だろう。家も財産も失った彼ら流民の数は、戦後1年目に560万、5年後には1100万人に達する。自治体が発行する食券がなければ、飢え死する者が続出したに違いない。

共産勢力へ対抗

さて、米国はドイツ経済がすぐ強力になると困る反面、共産勢力に対抗する必要上、このままではもっと困ると考えた。そこで1947年1月、民主主義と経済復興を促すマーシャルプランを発表し、通貨改正、つまり新マルクを登場させる。

この頃の占領4国はまだ共同で統治委員会を開いているので、改正は全国一斉に行う手はずであった。ところが、ソ連には印刷技術と紙がない。そこで米国は英国と内々に手を結び、新ドイツ通貨を米本土で印刷することにした。

第1号のドイツマルクが刷り上ったのは47年10月。米英が単独で中央銀行(Die Bank deutscher Länder)を設立したのは48年3月。ソ連が腹を立てて統治委員会から抜けたのはその直後。こうして米国はまんまと東西冷戦に先手を打ち、104億マルク分の新札をBird Dogという荷札でカモフラージュし、ブレーメン港に陸揚げさせたのだった。

混乱なく進んだマルク交換

かくして1948年6月19日、西側陣営は住民に初めて通貨改正を公表し、その翌日に通貨交換を始める。焼け跡世代にとって、この出来事はよほど印象的だったらしい。「誰でも40マルクをもらえた」とする神話まで生まれたが、現実はそう甘くない。帝国マルクからドイツマルクへの交換レートは、賃金と年金、家賃と不動産価格で1:1。しかし現金は10:1、銀行預金では100:6.5だった。

つまり、現金40マルクを手にするには400帝国マルクが必要だったのである。それでも交換はなんの混乱もなく終了し、翌朝には商品が忽然と店頭に現われて、物々交換は跡形もなく消えうせる。戦前はナチス帝国を13年も続けさせ、戦後はこうして復興を推し進めていくドイツ人の組織力!皮肉の一つも言いたくなるではないか。

ここで、当時の住民は米ソ間ばかりか西側3区間の移動さえ難しかったことに注目してもらいたい。占領側は住民管理のため、住民の側は住民票のある土地でしか食券と住宅割り当てがもらえなかったからだ。ゆえにソ連区の住民が新通貨のために西へ行くことはなかったが、西で無効になった帝国マルクが東へ大量に密輸されてきたため、ソ連もわずか3日後の6月23日に1:1の通貨改革を実施せざるをえなくなる。

面目を潰されたソ連はその翌日、ソ連地区に囲まれた西ベルリンへの電力と交通を遮断する報復に出た。外部からの供給がなければ、人口220万人の陸の孤島は生きていけない。ゆえに西側は英ガトウ空港、米テンペルホーフ空港、仏テーゲル空港へと物資を空輸するルフトブリュッケ(空の架け橋)作戦を開始し、6月26日から閉鎖が解除された49年5月12日までに、食料49万トン、石炭140万トンを運び込んだ。

その結果、ソ連の思惑とは裏腹に西側の連帯意識は強まり、東西冷戦は後戻りできなくなる。ドイツ人のマルクへの愛着は、こうした歴史から生まれたのである。

17 August 2007 Nr. 676

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 17:24  
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