Hanacell

自立への第一歩 - アデナウアーがじゅうたんの上に!

1949年9月21日
政党の結成、新憲法の制定、総選挙を経て、ついに西ドイツが誕生。初代大統領にテオドール・ホイス、初代首相にはコンラード・アデナウアーが就任し、新内閣はボンの米英仏占領委員会へ報告に訪れた。

求む、中高年パワー

敗戦直後にドイツの速やかな再建を予想した者はいなかったそうだ。ナチスによって、国の体制がそれほどまでに破壊されていたということだろう。一方では、指導する側の米英仏とソ連が対立を深めるばかりだった。戦後数年にしてドイツが東西に分裂しつつあることは、誰の目にも明らかだったのである。そのため、西側統治3国は、まもなく西に生まれるであろう暫定国家の体制づくりに着手する。

米英仏が国づくりの要職に選んだ人材は、ワイマール共和制時代(1919-1933)に活躍した中高年だった。理由は簡単、“ホワイト・リスト”に記載された「ナチスに関係しなかった白い人物」が、若いエリート層にほとんどいなかったからだ。つまり戦後のドイツは、老人パワーに再登場いただかなければ、動きようがなかったというわけである。

トップも老人

コンラード・アデナウアーもそんなご老体だった。何せ生まれは1876年。ヒトラーの政権樹立時すでに57歳だった彼は、ナチス幹部との握手を拒んでケルンの市長職を追われ、2度逮捕され、ケルンの強制収容所から病院送りになっている。

そんな彼が敗戦後、真っ先にしたことは、キリスト教思想を基盤にする政党を結成することだった。人々は自由な政治活動によほど餓えていたらしい。同様の政党が全国各地で生まれ、キリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)として連合。ナチス時代に弾圧されていた社会民主党(SPD)も活動を再開し、自由民主党(FDP)も設立された。

そして1948年6月1日、米英仏とベネルクス3国は「西ドイツの建国」を正式に決定し、西側占領地区の州首相たちに憲法制定を委託。9月には草案審決のための評議会がボンに招集され、72歳のアデナウアーが議長のポストに就いた。このときは周囲もご当人も、老人だから名誉職にうってつけだと考えていたそうだ。

基本法から建国へ

未来の西ドイツ憲法には、暫定的な性格を強調するため、あえて「基本法」という名前が付けられた。「ドイツが分裂している間は統一への過渡期ゆえ、正式な憲法は統一が成ったあとで」と制定委員会が考えたからである。モデルはワイマール憲法だった。ただし、世界で最も自由と言われたその憲法が、無責任な不信任決議によってナチスの台頭を招いた過去から、基本法では「総理に対する不信任表明には、議員過半数の賛成で後任候補が選ばれていること」という条件を付け、議会と政府の権限を強化、大統領のそれを制限するなどの変更がなされる。

こうして基本法草案は評議会を通過し、バイエルン州でひと悶着あったものの、全州の賛成を得て49年5月23日、ついに制定。ここに西ドイツが誕生し たのである。

アデナウアーの決意

さあ国が動き出した。総選挙でCDU/CSUがSPDに僅差で勝利したのは8月。FDPとの連立政権が生まれ、テオドール・ホイス(FDP)が初代大統領、アデナウアーが初代首相に就任したのは9月。そして、内閣がボンの米英仏占領委員会に報告に赴いた9月 21日、その事件は起こった。

迎える3占領国の最高司令官たちが立つのはじゅうたんの上。部屋に入ってきたアデナウアー首相以下ドイツ人閣僚はじゅうたんの手前で止められ、むき出しの床に立たされた。プリミティブな力関係の図である。米英仏は、占領国の地位をまだ手放すつもりはない。議事進行を担当するフランスの司令官が、あいさつのために一歩前に足を進めた。するとアデナウアーも一歩踏み出し、何とじゅうたんの上に。「私たちも同等です」との思いを込めた老首相の、この気概!彼の一歩は、西ドイツの自立の第一歩として、国民の心に深く刻まれたのである。

ちなみに、東西が統一されても基本法のままなのはなぜかと思われるだろう。表向きの説明は「東ドイツが西ドイツに吸収されて自動的に基本法の効力下に入ったので、新憲法は不要」というもの。その実は、「一度ふたを開けたら諸問題で収拾がつかなくなるので、だれも手をつけたがらなかったから」とか。さもありなん。

21 September 2007 Nr. 681

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:34  
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