Hanacell

経済の奇跡 ── “カブトムシ”で復興

1950~1958年
戦後の焼け野原から這い上がり、経済復興の原動力となったのは、戦前にヒトラーが「全ドイツ人に国民車を」と企画したフォルクスワーゲン「ビートル」であった。

5年で人口2割増

敗戦後、西側の3区は急激な人口増加に直面した。帰還兵や東欧ユダヤ系流民のほか、オーデル・ナイセ川以東の旧領地から追放されたドイツ系難民が、毎年数百万人単位で入ってきたからだ。さらに、二つのドイツが誕生すると、今度は東ドイツから西ドイツへの亡命が始まって、戦前に4200万人前後だった西側地域の人口は、1950年代初頭に5000万人 以上に膨れ上がってしまう。

5年余りで人口が20%も増え、そのほとんどが難民という状況は非常事態である。そのため西ドイツ政府は、1952年に負担調整法を導入し、主に土地家屋を持つ先住民から賦課金を徴収。難民が旧領地で戦中および戦後に失った個人資産(推定2996億マルク)を、部分的にそれで補償する措置をとった。新住民がスムーズに融合できなければ政情不安もありえたことを考えると、この措置は戦後のヨーロッパの平和に大きな貢献をしたと言えるかもしれない。

ドイツ工業の底力

経済復興と雇用の創出に決定的な役割を果たしたのは工業である。ドイツは確かに戦争で焼け野原になっていたが、産業立国としての基盤は失われていなかった。国民経済は1850年以来、大恐慌による急落と二つの大戦中の低迷期を除いて常に拡大しており、開戦前のナチス政権下では急上昇さえしている。伝統の手工業、自動車産業、化学工業、機械技術には、2度目の敗戦でも再興できる底力があったのだ。

かくして1948年、西の被占領地区に新マルクが登場し、後の西ドイツ蔵相ルードヴィヒ・エアハルト(63年に首相)によって社会市場経済システムが実行されると、「経済の奇跡(Wirtschaftswunder)」と呼ばれる高度経済成長が始まる。そのシンボルになったのは、ヒトラーが企画したカブトムシ「VWKäfer 」(日本名:ビートル)だった。

ビートルの誕生

「全ドイツ人に国民車(Volkswagen)を」と夢見るヒトラーの依頼を受けて、当時のダイムラー・ベンツ社の設計主任フェルディナンド・ポルシェがこの車を設計したのは、1934年1月。しかし価格の折り合いが付かず、実際に第2号モデル30台が製造されたのは37年だった。

VWのロゴが入った会社が設立され、「平野にある未開地で、国境から遠いが原料地に近い」条件にかなう、人口わずか1000人の村ヴォルフスブルク(Wolfsburg)が生産地に選ばれる。確かにそこは、ドイツ(当時)のほぼ中央にあって隣国から遠く、小さいので地図にも載っていない。事実、最初に進駐してきた米軍は、この町を見過ごしてしまったそうだ。

操業は敗戦直後に再開されている。北西部を占領区にした英国軍が、45年8月に普通乗用車2万台を注文してきたからだ。しかも納期は1年後。VWの従業員6033人は不可能だと思った。「カブトムシ」は確かにナチスのプロパガンダ商品だったが、これまでに生産されたのはわずか630台。戦争勃発で国民車どころではなくなり、量産したことがなかったの である。

生活を楽しむ消費社会へ

しかし何ごとも貫徹するのがドイツ人。驚異的な組織力を発揮して同年12月27日から大晦日までに54台を組み立て、翌年に1万20台、47年には凍結による休止期間があったにもかかわらず9000台を達成。こうしてVWは経済成長のシンボルになり、ライバル各社とともに世界へと打って出たのだった。

この時代を示す代表的なシーンを紹介しよう。一つは、仕事を終えた土曜日の午後、公共広場に設けられた水道ポンプの周りに愛車で乗りつけ、洗車の順番を待ちながらサッカー談議に余念がない男性たち。もう一つは、店が用意した木の買い物ボックスを抱えて商品棚をまわる女性たちの姿だ。49年6月にアウグスブルク(Augsburg)で誕生した初のアメリカ式スーパーマーケットは瞬く間に全国に波及し、アメリカン・モダンライフへの憧れを作り上げる。

そして敗戦から10年──。西ドイツは、クルマ、テレビ、外国旅行を楽しむ消費社会を迎えるのである。

19 Oktober 2007 Nr. 685

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:33  
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