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夏目漱石と英国ビール

1900年、英語教師であった夏目漱石は、明治政府より英語研究を命じられて英国に向かいました。漱石33歳、軍医としてドイツに留学した森鷗外が帰国してから12年後のことです。公私ともに充実した留学生活を送った鷗外に対し、漱石はロンドンの下宿に籠り、衣食費を削ってあがなった本を読み漁るのみで、街に出て楽しむことはしませんでした。そしてついにはノイローゼを患い、日本に呼び戻されます。この2人の文豪のあまりにも対照的な留学の顛末を、当時の街の様子とビールという視点から紐解いてみましょう。

漱石が留学した英国はヴィクトリア女王の治世の下、黄金時代を築いていました。テムズ川に架かる巨大なタワーブリッジや地下を走る鉄道、そして工場や自動車から吐き出される排煙による大気汚染は、外国からやって来た者の目を驚かせたことでしょう。

大英博物館前のMuseum Tavern。カール・マルクスはここで『資本論』を書き上げた
大英博物館前のMuseum Tavern。
カール・マルクスはここで『資本論』を書き上げた

ビールはエールという種類のものが飲まれており、常温で微炭酸のエールを静かに会話しながら飲むのが英国流です。英国北部バートン生まれのペールエールとアイルランドのギネス社のスタウトが人気で、当時、このエールを提供するパブは男たちの社交場でした。公共の場(パブリック)として発展したパブは、ヴィクトリア女王の時代に行われた身分の細分化に伴い、いくつもの部屋に分けられました。労働者と上流階級では入り口も部屋も違うという具合です。パブには当時を代表する文化人、思想家も頻繁に出入りし、そこで生まれた文学作品も多くあります。留学中の漱石も、パブでエールをすすりながら文学論議を交わしたのでしょうか? いいえ、漱石はパブを敬遠していました。というよりも、アルコールが飲めず、パブに行けなかったのです。留学中の日記にも「とある料理屋でたった1杯だけ飲んだが、大変真っ赤になって、顔がほてって街中を歩くことができず、ずいぶん困った」という記載があります。そう言えば、帰国後すぐに書かれた『吾輩は猫である』では、ビールを舐めた「吾輩」は酩酊し、水がめで溺れて死んでいますし、『坊ちゃん』では、主人公に「酒なんか飲む奴は馬鹿だ」と言わせていますから、漱石は相当な下戸だったのでしょう。英国人の仲間意識が強く、よそ者を受け入れない気風も漱石を下宿に引きこもらせました。

一方、ドイツにいた森鷗外はアルコールに強く、酒場でビールを楽しみ、多くのドイツ人と交流しました。ドイツは普仏戦争を経て世界の舞台に出てきたばかりで、酒場では平民でも貴族でも同じ長テーブルを囲う大らかな気風が残っていました。質実剛健だがアルコールが入ると羽目を外してしまう人間臭さも、日本人の気質に合ったのでしょう。ドイツに溶け込んだ鷗外はコッホなどの著名な医師から教えを受け、実りの多い留学生活を送りました。

もし漱石がビールを飲んで愉快な気分になることができていたら、パブで様々な人種と知り合いになっていたら・・・・・・生きることの憂鬱を描いた漱石作品は生まれてこなかったかもしれません。

最終更新 Donnerstag, 12 Januar 2012 10:22  
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