ナチス時代の強制労働施設を訪ねて

3 Januar 2020 Nr.1113
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中心部から165番バスに乗って、ひたすら南東方面に揺られること30分、S バーンのシェーネヴァイデ駅を過ぎると、バスのアナウンスは「ナチス強制労働情報センター」のバス停を告げた。

ベルリン東部のトレプトウ地区にあるナチス強制労働情報センター
ベルリン東部のトレプトウ地区にあるナチス強制労働情報センター

大通りを左折し、住宅街に入ったかと思うと、バスはすぐ停留所に止まった。もう暗くなろうかとしている冬の空の下に、寒々しいバラックの風景が奥へと広がっている。シェーネヴァイデには何度も来ているが、ナチス時代の強制労働の収容所がこんな街中にあったのかと驚いた。

20世紀初頭、シュプレー川に面したシェーネヴァイデはベルリン最大の工業地帯の1つであり、AEGをはじめとする大企業の工場が連ねていた。この場所に強制労働者の収容施設を造ることが計画されたのは、第二次世界大戦中の1942年のこと。独ソ戦が始まり、武器製造のための労働力確保が急務とされていた。その指揮を取ったのはベルリン建設総督にして、軍需相も務めていたアルベルト・シュペーア。43年7月に建設が始まったといわれている。

入口近くのバラック2に常設展示がある。内部は思いのほかきれいで、常駐のスタッフも1人いる。第2アドヴェントの夕方だったが、私のほかにも訪問者が数人いた。

「GBI Camp 75/76」と呼ばれたこの強制労働施設に、記録上最初の労働者が集められてきたのは44年5月から。イタリアからの強制労働者、さらにフランスやソ連、ポーランド、オランダ、ベーメン・メーレン保護領(現チェコ)などの占領地域から連行されてきた400人以上がここに収容された。

バラック2にある常設展示から
バラック2にある常設展示から

大戦末期の44年夏、ナチス・ドイツ領内において農業労働者の2人に1人、従業員の4人に1人は強制労働者だったという。この施設が街中にあったことからもうかがえるように、彼らの存在はドイツ人の日常生活の視野にあり、同じ工場で顔を合わせるのも普通だった。しかし、当然ながら環境は劣悪で、特に武器製造のような仕事では危険が伴った。「ドイツ人は週給44マルク、ロシア人はわずか5マルクだった」と書かれた展示が目に入る。強制労働は、人種差別を根底に持つ搾取行為だった。

その隣のバラックでは、「ガリツィアのホロコーストと強制労働」という特別展が行われていた。現在のポーランドとウクライナにまたがるガリツィア地方には、戦前まで50万人ほどのユダヤ人が住んでいたが、ナチス・ドイツの侵攻によりほぼ絶滅した。2010年、ドイツの平和運動団体「行動・償いの印・平和奉仕」のグループがポーランドを訪れた際、ガリツィア・ボリスラフ出身のユダヤ人生存者、ヨゼフ・リップマンさん(1931〜)と出会う。この展示では、リップマンさんの視点からガリツィア地方での凄惨なホロコーストや強制労働の実態が語られるのみならず、ドイツ人のバイツ夫妻のように強制労働の名を借りてユダヤ人を助けようとした人がいたことも示されていた。

中心部からは外れるものの、決して辺ぴな場所ではない。強制労働や人種差別が、今も私たちの生活からそう遠く離れた問題ではないことを暗示しているかのようバラック2にある常設展示から だった。

インフォメーション

ナチス強制労働情報センター
Dokumentationszentrum NS-Zwangsarbeit

ナチス時代の強制労働をテーマにしたドイツで唯一の歴史記念館。東独時代はワクチン研究所として使われていたという。2006年から情報センターとして一般に公開している。ドイツ政府が強制労働者への補償を決定したのは、ようやく2000年になってからだった。今回ご紹介した特別展は2月2日まで開催。入場無料。

オープン:火曜〜日曜10:00〜18:00
住所:Britzerstr. 5, 12439 Berlin
電話番号:030-63902880
URL: www.ns-zwangsarbeit.de

行動・償いの印・平和奉仕
Aktion Sühnezeichen Friedensdienste

1958年に西ドイツの福音派の教会会議により設立された平和運動団体。ナチズムとの対話から始まり、現在は特に国際奉仕活動による和解プログラムにより知られる。毎年夏、東ヨーロッパ地域の破壊されたユダヤ人墓地を修復するサマーキャンプを行っており、ヨゼフ・リップマンさんとの交流はこの過程で生まれたという。

URL: www.asf-ev.de