日本政府、東京電力の削減
東日本大震災による福島第1原発の惨状は、いまだ解決の糸口すらつかめていない。福島第1原発はもちろん、震災前の事故で停止していた新潟の柏崎刈羽原発も地元の反対が強く再稼働できない状態にある。福島、茨城県にある火力発電所も大きな被害を受けている。
日本政府と東京電力は、夏場に電力使用量が供給量を上回り、各種発電所の緊急ブレーキがかかることによって発電所が全面的に機能停止し、大規模停電が起こることを危惧している。この事態を避けるため、ペナルティー付きで電力使用量のピーク引き下げを求める方針だ。大口需要者は25%、中小企業など小口は20%、家庭は15~20%の削減である(4月8日現在の数値。今後、東京電力の状況で変化し得る)。このため、自動車業界では輪番で休業日を設けるとか、銀行も近隣店同士で順番に営業するとか、東京のオフィスでは夏場に冷房を使わないとか、さらには工場の九州移転、オフィスの大阪への移転などといった動きがある。
しかし、こうした一律の削減目標は一見平等に見えるが、対策の施しようのない弱者には厳しいものであり、一種の悪平等ではないか。例えば、病院、保育園、幼稚園、学校、老人ホームといった社会的な施設の電力消費の実態を無視した20%の一律削減は、非常に逆進性の強いものになる。また一日中家にいる引退者の世帯と、独身または子供のいない共働き世帯で日中は不在という家庭では、全く節電の意味が異なる。電力供給量を調整することは技術的には確かに難しいが、世帯調査と組み合わせてペナルティーのかけ方を変えることはできるはずである。
大口需要者との調整
何より、大口需要者はもともとどの程度電気を使うかを時間帯まで決めて電力会社と契約しているのであり、電力会社もその使用量を随時監視している。そしてその需要者ごとに電圧を変える変電設備も電力会社が管理し、自家発電分との調整をきめ細かく行っているのである。こうした電力の調整こそが、戦後の電力不足時における日本経済を支えた。当時の政治家や官僚たちは、どのように電力を配分すれば最も効率良く生産を行えるのかを考えた。そうした姿勢こそが、日本の戦後復興の鍵となったのである。そのノウハウをなぜ今に生かさないのだろうか。
日本では、英国や米国と異なり、エネルギーの価格が非常に高い。日本はエネルギーを自給できない国だからこそ、その分配は必ずしも価格メカニズムだけではなく、国や電力会社が関わりながら大口需要者と調整してきたのだ。それが一律削減などというのでは、官僚や東京電力の仕事のサボタージュだとしか思えない。調整をしないのなら、官僚や大電力会社が存在する意味がないのだ。
もちろん、東京電力も、火力発電所の稼働やガス発電所の新設などの手は打っている。ただそれでも供給不足は解消できず、このままでは需要の調整は不可避である。そのときこそ大口需要者との間で操業時間をどのように変更し、ピークをいかに平準化できるかを調整すべきで、そのための調整を摩擦として嫌がるのでは、日本が高度成長期に培った傾斜生産のノウハウが泣く。
菅政権、この非民主的な政権
そしてそのツケは社会的に弱い立場の人に行く。民主党の菅政権は、その看板とは異なり、最も非「民主」的な政策を行おうとしている。政治家は、まずは自らの電力使用量をどう削減するか模範を示すべきだ。国会議事堂や議員会館の節電策を聞いたことがない。政治家はこうしたときこそ自ら節電を率先すべきであるし、公務員も不眠不休で意味ある働きをすべきだ。関東大震災のときは、大日本帝国憲法の下で議会の議決を経ることなく、勅令で政府がリーダーシップを取った。民主主義の下では政府が独裁を取ることは許されないが、それでも非常時と常時とでは議論のスピードが当然違って然るべきだ。日本の民主主義の成熟がここでも問われている。
政治は、その上で大口需要家との調整を東京電力にさせ、一方で、不要不急な電力使用を止めるよう説得すべきだ。石原都知事の言うように、自動販売機の稼働やパチンコ店の営業は全部やめるべきだとは思わないが、病院もパチンコも一律20%削減というのが愚策であることは明らかである。そうした調整こそ政治過程であり、一律削減なら小学生でも考えつくことのできる案と言える。英国ならそんなことはしないと思うが、いかがだろうか。
(2011年4月19日脱稿)
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