気ままにロンドン博物館シティ誕生と発展の歴史、再発見!
2024年にウェスト・スミスフィールドへの移転が決定しているロンドン博物館(Museum of London)は、世界最大級の市立博物館として約600万点の収蔵品を誇ります。常設の展示品はその0.5パーセントに満たないのですが、時系列的に展示室が区切られていますのでふらりと散歩するだけでロンドンの歴史を時代ごとに体感できます。
最近、同博物館では市民の生活を大きく変えた新型コロナウイルスに関する資料の収集を始めたそうですが、そもそもロンドンのシティがどう誕生し、どう発展してきたのか、頭の中を整理したいですね。今回、寅七はシティを先史時代から振り返り、そのダイナミックな歴史をご紹介していきます。今後のシティの未来を占うヒントになればと思います。
それでは、さっそくわれわれのタイムマシンで45万年前の世界に降り立ってみましょう。
シティ公認ガイド 寅七
『シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫
ロンドン博物館 Museum of London
www.museumoflondon.org.uk/museum-london
新型コロナウイルス感染拡大の影響で現在クローズ中。2021年中に移転工事を開始する予定。
Episode 1変動に次ぐ変動、45万年前から適者生存の法則
45万年前のアングリア氷期でブリテン島は氷床に沈み、ほとんどの生物は姿を消しました。その後、大地が大きく変化します。氷河作用と地層の褶曲(しゅうきょく)によりテムズ川もライン川もセーヌ川も1本の大きな川となって大西洋に注ぎ、これがチャンネル川となり後のドーバー海峡を形成します。博物館に展示された気温グラフが示すように約10万年ごとに氷期・間氷期が訪れ、生き物は極寒と酷暑に対応しながら生き延びました。テムズの水辺はマンモスやオーロックス、カバ、ヘラジカなどの生き物の宝庫であると同時に生命の興亡が展開される場所でした。そして約1万2000年前に終わった最後の氷期で旧人類が滅びると新人類の時代がやって来ます。欧州大陸からブリテン島に移住していた新人類の狩猟民チェダーマンは集団生活で知恵を出し合い、コミュニケーションや道具の改善で氷期を生き抜き、英国人最古の祖先になります。
Episode 2移民に次ぐ移民、青銅器時代から海外貿易した英国人
狩猟民の次に渡来したのが西アジアのアナトリア地方を起源とする農耕民です。今から約5500年前にテムズ川近くで農耕生活していた思われる女性(ロンドン近郊シェパートン発掘)の復元像があります。寒冷期の巨大動物の狩猟に使われた打製石器と異なり、温暖期の小動物の狩猟には矢じりが使われ、農具用に磨製石器が出土しています。やがて4500年前くらいから青銅器を使う白い肌のビーカー人が欧州大陸からドーバー海峡を渡ってきます。大酒飲みだったのか、ビーカーに似た陶器をたくさん作り、コーンウォールなどから錫や銅を掘り出して青銅器も作りました。錫をギリシャ・エーゲ文明に向け輸出し、逆に地金を輸入して黄金の肩掛けや黄金のカップも作りました。ところが2800年前ごろ、鉄器や戦闘用馬車を携えて欧州大陸からケルト系の複数の民族がブリテン島を襲ってきます。
Episode 3商売に次ぐ商売、ローマ人が教えた互恵の精神
ケルト人は複数の部族国家に分かれていましたが、その最大の貿易相手は古代ローマでした。貿易港が英東部コルチェスターにあり、反ローマ勢力の部族がそこを占領するとローマ帝国は西暦43年、英国に侵攻開始。当時のテムズ川の上げ潮の限界域だった場所にロンディニウムを作ってそこを軍事拠点にしました。ここから全国に通じるローマ街道を作り、陸運と海運の拠点にしたのです。西暦60年のケルト・イケニ族の反乱以後、ローマ帝国ブリタニア地方官のクラシキアヌスは、商業(Commerce)とは互い(Com)に恵み(Mercy)を分かち合うものとして「互恵の精神」を強調。英国は鉛や錫、羊毛や牡蠣を輸出し、ローマから陶器やワイン、加工品を輸入しました。ここに父なるテムズ(貿易)と豊穣の女神(商業)が互恵の精神で結ばれ、ロンディニウム、つまりロンドンが欧州の貿易・商業センターに転じていきます。
Episode 4侵略に次ぐ侵略、戦争も自由もカネ次第
ローマ帝国にとってブリテン島は辺境の地でした。軍事力が衰えてくるとフォエドゥス(傭兵契約)をゲルマン人と結び、侵略を試みる敵を牽制します。でもついに西暦410年、東西分離後のローマ帝国は英国からの撤退、ブレグジットを決断し、その後ブリテン島は傭兵として移住したゲルマン人と土着のケルト人の争いの場に転じます。9世紀後半、西サクソン王国のアルフレッド大王が国内統一してロンドンのシティを奪還しますが、その後もヴァイキングの来襲などが続き、最後はフランスのノルマン公国が1066年にイングランドを征服します。翌年、イングランド王に就いたウィリアム征服王がシティに商業活動の自由や既得権益を認めますが、これにはカラクリがありました。歴代の西サクソン王は来襲する外敵に宥和のために支払う金をシティから土地税として徴収していましたが、ウィリアム征服王はその振込先を自分に変えたのです。まさに戦争も自由もカネ次第。
Episode 5マネーに次ぐマネー、それでも信仰心は忘れずに
サクソン人の職人気質に加え、王家の勅許状という権威の支援を受け、職人組合=リヴァリ・カンパニーが発展してシティは大きく繁栄します。1189年にシティ市長が誕生したのも、1215年のロンドン憲章やマグナ・カルタでシティに自治権が認められたのも、戦争資金に窮した王家をシティが救ったからです。また、ローマ人の英国撤退後もローマ教皇はロンドンを「メトロポリス・キウィタス」、つまり司教座の置かれる母なる都市として重要視し、604年には聖ポール大聖堂を建てました。シティ商人は地獄に落ちないよう敬虔なキリスト教徒であることを示すために多額のお布施を欠かせません。そう広くはないシティに所狭しと128もの教会があったとは、よほど後ろめたい何かがあったからでしょう。シティの都市化とは王家からも教会からもお金をせびられる「セビラレゼーション」でした。
Episode 6災難に次ぐ災難、それでも適者生存の法則は続く
17世紀のスチュアート朝は絶対王政を敷いて放漫財政に走りました。シティは清教徒のオリバー・クロムウェルを支援し政治改革を期待。クロムウェルは1649年にチャールズ1世を処刑し共和制に変えました。でもその息子のリチャードの政治が拙く、1660年に再び王政復古に戻ります。そしてペストやロンドン大火の災難が続きました。
しかし1688年の名誉革命で議会制と私有財産制が認知され、1694年設立のイングランド銀行とシティは海外進出を積極的に支援。膨大な植民地を入手し、産業革命が起きます。金融資本は新産業に再投資され、連鎖的に発展。互恵の精神、自由活動、マネー主義、議会制、私有財産制を合言葉に才能に秀でた世界的な役者がシティという舞台で演じ続けます。この世は舞台、人は皆役者、演目は「氷河時代から続く適者生存の法則」です。