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Fri, 20 December 2024

第10回 そうやって人は忘れていく。

イングランド北西部のアイリッシュ海沿いに、バロー・イン・ファーネス(Barrow-in-Furness)という小さな街がある。ロンドンから列車を乗り換え、約5時間。最後は各駅停車に揺られ、海と湿原が混じり合った茫洋とした地域にたどり着く。

昨年初夏の数日間、この街で過ごした。湖水地方の間近にあって、人口数万人というけれど、人影は少なく、いかにも活気がない。パブを兼ねたB&Bで荷物を解いた初日、「夕食でも」と街を歩いてみたら、レストランもほとんどない。

「日本人なのに、ここが『Mikasa』の街だってこと、知らなかったの?」

B&Bのパブの夜。年配の女性オーナーがそう口を開いた。世間から忘れられたような、この田舎町で、日本の固有名詞が飛び出すとは思いもしなかった。

「ミカサよ。知ってるでしょ? 日本の軍艦。この街の造船所で造られたの。ほかにもう1隻、日本向けに造ったはずだったけど、それは何という名前の軍艦だったかしらね……」

ミカサと名の付く軍艦といえば、日露戦争時、東郷平八郎が乗った戦艦「三笠」しかない。日本海でロシア帝国の艦隊を敗北に追い込み、世界を驚かせた日本。その海戦に参戦した海軍の旗艦「三笠」である。

しんとした街にあって、パブの中だけが騒々しい。喧噪が静まれば、波の音も聞こえてきそうな夜。常連客の男たちも遠巻きに加わり、三笠の話は続いた。

日本人にとって、日露戦争はあまりに遠い日の出来事である。でも、私には、日露戦争に関わる、おぼろげな記憶がある。

郷里・高知で小学校に通う前の、4歳か5歳ころだったと思う。祖父の兄が、近所に住んでいた。元々は畳職人だったらしく、使わなくなった作業場が私の遊び場だった。

当時、70代か80代だった祖父の兄。そのしわくちゃの顔が、あるとき、「ロシアのパンほどまずいものはない」みたいなことを言い出したのである。

「おんちゃんはほら、日露戦争に行っちょったろうが。けどあの戦争いうたら、のんびりしたもんよ。パンと握り飯を兵隊同士で交換しよった」

話によると、丘を挟んで戦闘になった後、昼時にラッパが鳴ったのだという。その音で「撃ち方やめ」になり、ほどなく、ロシア兵が黒パンを日本側へ投げてきた。若い日本兵がおそるおそる歩み出て、取りに行く。無事に取って戻ると、今度は日本兵がロシア側に握り飯を投げ返した、と。今の中国が、その場所だったらしい。

本当にそんなのんびりした戦闘があったのかどうか、もう確かめようがないが、「パンと握り飯」の話、そして「昼の合図のラッパ」の話は今も耳から離れない。

それから約40年後。今度は私の父が徴兵で中国に駆り出された。父は北京近郊で終戦を迎えたらしいが、「戦争が終わって(中国共産党の)八路軍に追われながら、逃げ帰った」という話は、数え切れないほど聞いた。父は5人兄妹の下から2番目で、兄は南方で戦死している。ほかの兄弟は戦争の混乱時に病死したらしい。だから、終戦の年の末、父が生きて高知に戻ったとき、「あればあ、母さんが泣いたことは見たことない」と父が言うほど、祖母は泣いたという。

子供のころ、彼岸はいつも墓参りに付き合わされ、そして墓石の前でそんな話を聞いていた。

バロー・イン・ファーネスのパブは、壁に何枚かのモノクロ写真を飾っていた。英国が世界の工場だった19世紀後半から20世紀初頭の、この街の写真だ。造船所やレンガ倉庫で、男たちが働き、肩を組んで笑っている。この中に「三笠」に関わった男たちは、いるのだろうか。

日露戦争を経験した祖父の兄は、ほかにもロシアの話をしてくれた。シベリアの冬の話もあったと思う。冬、雪、しもやけ……。そんな言葉があった気がする。でも、今となっては、きちんと思い出せない。馬の後ろについて、凍った原野を移動した、という話。それは祖父の兄だったか、それとも別のところで聞いた話だったか。それももう、きちんと思い出せない。

たぶん、そうやって、人や社会は大事な何かを忘れていくのだ。

 

高田 昌幸:北海道新聞ロンドン駐在記者。1960年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。
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