覗き見屋のドア・マンから「憎悪の説教師」へ
アブ・ハムザ服役囚の半生とは
左目の義眼と両腕に付けられた大きな鉤(かぎ)。海賊「キャプテン・フック」を彷彿とさせるイスラム過激派指導者のアブ・ハムザは、若年層のイスラム教徒に対して過激なイスラム思想を吹き込んできた。「憎悪の説教師」とも称されるアブ・ハムザの半生を探る。
アブ・ハムザの半生
1958年 | エジプト北部アレキサンドリアで、海軍将校の父と小学校校長の母との間に生まれる |
1979年 | 渡英。ブライトン大学及びブライトン技術専門学校で土木工学を学ぶ。また、ロンドンのソーホー地区でピープ・ショー(覗き見屋)のドア・マンとして生計を立てる |
1980年 | 英国人バレリー・フレミングと結婚し、英国市民権を取得。子供一人をもうける |
1982年 | 徴兵忌避を理由に、エジプト政府が同人の市民権を剥奪 |
1984年 | バレリー・フレミングと離婚 |
1984年 | ナガット・カマル・ムスタファと再婚。7人の子供をもうける |
1987年 | ロンドンのハーレー・ストリートにある診療所で、アフガニスタンで負傷した戦士の通訳として従事していた際、治療のため渡英していたアフガニスタンの過激派指導者アブドゥラ・アッザム師と出会う。同年、サウジアラビアのメッカへ巡礼 |
1989年 | アフガニスタンに渡航。南東部ナンガハール州ジャララバードでの復興事業計画に参加 |
1993年 | 地雷除去作業中の誤爆で両手と片目を喪失。治療のため英国に帰国 |
1995年 | ボスニアのイスラム教徒支援のため旧ユーゴスラビアへ渡航 |
1996年 | 英国に帰国。ルートンのモスクで説教を始める |
1997年 | ロンドンのフィンズべリー・パーク・モスクで説教を始める。英情報当局の密告者として同モスク内の情報を提供していたともされる。また、アルジェリア系武装イスラム組織(GIA)の広報などを担当 |
1998年 | フィンズべリー・パーク・モスクで自爆テロ犯を勧誘する活動を行う |
1999年 | イエメンにおける爆破テロ計画への関与の疑いで、英情報当局から事情聴取を受ける |
2002年 | 2001年9月11日に発生した米国同時多発テロから1周年の追悼日に、同事件のハイジャック犯を賞賛する声明を発表 |
2004年 | テロ計画容疑で逮捕。また息子のモハメド・ムスタファ・カマルが、テロ計画容疑などでイエメン当局に拘束される。米政府が、アブ・ハムザを「世界的なテロの世話人」と呼んで警戒心を表す |
2006年 | 殺人教唆、及び人種的憎悪扇動の罪で有罪判決を受け、7年の懲役刑に |
2007年 | 米政府が米国同時多発テロへの関与容疑などで裁判を行うため、英政府に対し同人の身柄引き渡しを要求 |
2008年 | ジャッキー・スミス前内相が米国引き渡しを承認したことに対し、英最高裁に上訴 |
2009年 | 2人の息子(ハムザ・カマル、モハメド・ムスタファ)と義理の息子(モハシン・ガイラム)が、高級車を使った悪徳商法などの容疑で逮捕される |
2010年2月 | ロンドン西部グリーンフォードにある自宅が差し押さえ処分となる |
2010年7月 | 息子の一人ヤッサー・カマルが、イスラエル大使館周辺でのデモにおける警察官に対する暴行容疑などで逮捕 |
2010年11月 | 英国パスポート剥奪に関する訴訟で英政府に勝訴 |
フィンズべリー・パーク・モスク年表
1994年 | オープニング・セレモニーにチャールズ皇太子が出席 |
1995年 | テロ組織を支援する不法資金の調達などの活動を行っていることが発覚 |
1997年 | 95年のパリ地下鉄爆破テロ計画の関係者が、同モスクに出入りしていたイスラム過激派メンバーであったことが発覚する |
1997年 | 国際テロ組織アルカイダの幹部とされるアブ・カタダが説教を行う。また金曜礼拝の主導説教師にアブ・ハムザを選任 |
1997年 | 英・仏情報当局から派遣された密告者が、アブ・ハムザが同モスク内でテロ実行犯の勧誘を行っていたと報告 |
1998年 | 英情報当局が同モスクへの警戒を強める。またアブ・ハムザが爆弾犯リチャード・レイド(本文参照)などの自爆テロ犯の勧誘を実施 |
2001年 | 同モスクに出入りしていた、アルカイダ欧州支部幹部の一人とされるアブ・ドーハがヒースロー空港で逮捕される |
2002年 | 同モスク内で軍事訓練が行われていたことが発覚 |
2003年 | 猛毒リシンによる地下鉄テロ未遂事件に関する調査などを受け閉鎖に |
2004年 | ロシアの北オセチア共和国で発生した「ベスラン学校占拠事件」の首謀者の一人であるカマル・ラバット・ボウラルハ容疑者が同モスクに出入りしていたことが発覚 |
2005年 | 「ノース・ロンドン・セントラル・モスク」に改名され、運営を再開 |
英・欧州は人権保護を重視
イスラム過激派指導者アブ・ハムザ・アルマスリ服役囚は、5日、自身の英国パスポートを剥奪するとの試みに関して英政府を相手取って起こした訴訟に勝訴した。英特別移民上訴委員会(SIAC)は、人権保護などの理由から、出身国であるエジプトの市民権を既に剥奪されている同人が「無国籍者」になることを避けるために、パスポート剥奪に向けた動きを止めたのである。
英内務省は、同判決に遺憾の意を示しつつも、2008年7月に承認された米国へのアブ・ハムザの身柄引き渡し措置には影響がないとの考えを表明。米政府は、欧米諸国に対する国際的なジハード計画の策謀や、1999年米オレゴン州ジハード戦士訓練キャンプ設置の関与疑惑などで同人を起訴する意向である。一方の欧州人権裁判所は本年7月、アブ・ハムザの身柄引き渡しに関し、米コロラド州フィレンツェの刑務所における拘留期間などの詳細説明が不十分であるとして、訴訟を延期している。
「憎悪の説教師」誕生の経緯
「憎悪の説教師」と称されるアブ・ハムザの過激化は、主に3段階に分けられる。第1段階(79〜80年代前半)は、西欧文化を敵視する思想基盤が構築された時期。79年のイラン革命の影響や、ロンドンのソーホー地区にあるピープ・ショー(覗き見屋)でドア・マンとして働いた経験から生じた西洋的価値観に対する嫌悪感などがあったと考えられる。また第2段階(87〜95年頃)では、実際にアフガニスタンと旧ユーゴスラビアに渡航し、イスラム義勇兵として戦線に参加することで、独自のイスラム思想を成熟させたと見られる。特に93年、アフガニスタンにおける地雷除去作業中の誤爆で両手と片目を失った過酷な経験から、独自の過激思想を形成した可能性が高い。第3段階(97年以降)では、ロンドンのフィンズべリー・パーク・モスク(現ノース・ロンドン・セントラル・モスク)などで説教を行いながらジハード的思想を本格的に広め始めた。
左目の義眼と両腕に付けられた大きな鉤から、「キャプテン・フック」とも呼ばれた同人への注目は自ずと高まり、やがてメディアへの露出も増えていった。彼から影響を受けたとされる人物には、2001年9月米国同時多発テロのザカリアス・ムサウイ容疑者や、同年12月米国航空機爆破未遂事件の爆弾犯リチャード・レイド容疑者、及び05年7月ロンドン同時爆破テロ犯などがいる。
塀の中のアブ・ハムザ
06年2月7日に謀殺の教唆、及び人種的憎悪の扇動などで7年の禁固刑を科せられたアブ・ハムザは、現在もロンドンのベルマーシュ刑務所(別称「英国のグアンタナモ収容所」)に服役中である。07年、同人の妻ナガット・ムスタファは、夫が同刑務所内で虐待を受けていると主張。一方の刑務所当局は、同所内の服役囚の中で金曜礼拝に参加する者は数年前まで20人程度であったにも関わらず、今では150人を超えるとし、刑務所内のイスラム化に危機感を募らせている。現在、独房にいるアブ・ハムザは、水道管をマイク代わりにして説教活動を行いその影響力を拡大しているとされることから、英国内に更なるテロリストを生み出す可能性が懸念される。
ベルマーシュ刑務所
1991年4月2日開所。中央刑事裁判所とロンドン南東部治安判事裁判所及びエセックス刑事法院と治安判事裁判所の所管の地域刑務所であると共に、逃亡した際に一般社会に大きな危害をさらす恐れがあると見なされた囚人の拘留所でもある。2001年の反テロリズム、犯罪及び安全保障法の規定に基づき、01年から02年の間、罪状も裁判もなくして多くのテロ容疑者が拘留された。01年には偽証罪で実刑判決を受けたベストセラー作家ジェフリー・アーチャーが服役し、後に同刑務所生活を綴った「獄中記」が出版されている。(吉田智賀子)
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