タブロイド紙の編集長から米TV の司会者に
ピアース・モーガンの成功の理由
昨年末に終了した、米CNNの看板トーク番組「ラリー・キング・ライブ」の後番組のホスト役に抜擢された、英国人で「デーリー・ミラー」紙の元編集長、ピアース・モーガン。同紙を解雇された過去を持つ彼が、一体どのようにして、米国の人気テレビ番組の司会を務めるところまで上り詰めたのか。モーガンの人気の秘密を探ってみた。
ピアース・モーガンとは
左派系大衆紙「デーリー・ミラー」の元編集長で、今年1月から米CNNの新トーク番組「ピアース・モーガン・トゥナイト」の司会者、ジャーナリスト。熱心な ツイッター利用者(@piersmorgan)でもある。1965年、英南部サリー州ギルフォード生まれの46歳。幼少時に父を亡くし、再婚した母と3人の兄弟とともに育つ。新聞記者の養成コースで人気を集めるハーロー・カレッジでジャーナリズムを勉強した後、ロンドンにおける地元紙の記者となる。大衆紙「サン」に転職し、「ニュズ・オブ・ザ・ワールド」紙、「デーリー・ミラー」紙の編集長を歴任。2004年に「ミラー」紙を解雇されてからは、月刊誌「GQ」でコラムを執筆するほか、テレビ界に本格的に進出した。著名人との食事に関する逸話などが盛り込まれた「ザ・インサイダー」(2005年)など著書多数。2010年には「デーリー・テレグラフ」紙の記者と再婚した。先妻との間に3人の息子をもうけている。クリケットが大好き。サッカーではアーセナルのファン。波瀾万丈のジグザグ人生
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28歳で大衆紙の編集長に
モーガンの人生は、メディア王といわれるルパート・マードックにその存在を知られたことで本格的に始まった。ロンドンの地元紙の記者をしていたところ、マードック傘下の大衆紙「サン」に引き抜かれ、ゴシップ欄を担当するようになる。同欄を通じて幅広い人脈を築き上げたモーガンは、今度は日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」の編集長に28歳で抜擢された。ニューズ社のライバルとなるミラー・グループが発行する大衆紙「デーリー・ミラー」の編集長に鞍替えした後は、同紙の編集長としてダイアナ元皇太子妃やブレア首相(当時)を含む著名人と頻繁に食事をともにし、人脈を一層拡大させたという。
不祥事からのカムバック
2004年に「ミラー」紙は英兵らによるイラク人拘束者への虐待写真を1面に掲載した。頭部に袋を被らされた数人のイラク人拘束者に英兵が放尿するという衝撃的な場面を写したその写真が偽物である疑惑が発生し、やがて本物ではないとする見方が確定すると、モーガンは編集室から護衛付きで追い出され、解雇処分となる。 この一件によってモーガンの評判は地に落ちた。さらには、2005年に編集長時代の日記を基にした自著「ザ・インサイダー」が出版されると、「有名人好きの実態のない男」というイメージも強化されてしまった。
しかし、モーガンはやがて著名人たちから思いがけない一言を引き出す人物としても知られるようになる。2008年には雑誌「GQ」のインタビューで、自由民主党のニック・クレッグ党首から「30人ほどの女性と寝た」という言葉を引き出した。また2010年にはブラウン首相(当時)をテレビ番組内でインタビューし、首相が生後 まもなく亡くなった子供を思って涙する場面を作った。
人懐っこさと真剣さ
モーガンの魅力は、下世話な話題への飽きることのない関心と、失礼と思われるような話題を相手に振っても決して嫌な気持ちを与えない、天然のソフトさであろう。今年1月から米CNNで始まった「ピアース・モーガン・トゥナイト」で、モーガンはコンドリーザ・ライス元米国務長官に「あなたを誘惑するにはどうしたらいいですか」と尋ねている。ライスはこの質問に嬉々として応じた。彼独特の人懐っこさや童顔の笑顔が、モーガンを「何だか憎めない奴」にしているのかもしれない。
Daily Mirror
「デーリー・ミラー。1903年創刊の大衆紙。英国で「元祖新聞王」と呼ばれるノースクリフ卿が、女性が作る女性のための新聞として創刊した。1904年に全員が女性だった編集陣は解雇され、男性編集長ハミルトン・ファイフェの下で写真を中心にした紙面に変えて再出発。1940年代末から1960年代半ばには、500万部の発行部数を誇った。その後はゴシップを前面に出したライバル紙「サン」の攻勢に押され、同紙の後塵を拝している。左派系として位置付けられており、労働党を一貫して支持。現編集長は、ピアース・モーガンの後を継いだリチャード・ウォレス。(小林恭子)
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