「知」にまつわる三つの言葉が俎上(そじょう)にのせられている。「知識」のなかに「知恵」が埋もれ、「情報」のなかに「知識」を見失うーー。エリオットに従って三概念の優位を整理すれば、「知恵(wisdom)」>「知識(knowledge)」>「情報(information)」と、このようになる。
最も低い列に置かれた「情報」とは、週刊誌やテレビなど、日常の次元に溢れるものである。芸能人の色恋沙汰からサッカーの試合結果、果ては海の彼方の戦争の状況など、今や情報は世界を回り、社会に氾濫している。外からの情報が遮断され独裁者によって管理される、そのような国もないわけではないが、それはむしろ「古典的」な病の姿であって、現代に広範な問題となるのは、玉石混交する情報の洪水に人が溺れ、何を選択すべきか分らなくなってしまうことである。
「知識」とは、たとえば大学で得られる次元のものだ。専門書を読み重ねれば、この手のものは脳内に溜め込まれることになるが、そこから、人が生きる上での「指針」と呼べるところまで昇華できるかどうかは確かでない。
「知恵」とは、賢者が思索の果てに到達した「道」となるものである。もっとも、ソクラテスのような大哲学者の思想でなくとも、種族(集団)が代々積み上げてきたもののなかにも、このような「知恵」はあり得る。自然のなかに暮らす辺境の少数民族は、この手の「知恵」を掟のように守って生きている。生活規範であると同時に、宗教とも死生観とも重なり合う生きた哲学になっているのだ。
エリオットの嘆きは、いかにも現代の嘆きである。この言葉の出典は1934年に出た「The Rock」という本だが、その時点で、彼は21世紀を生きる私たちの問題意識を先取りしていた。科学技術が発達し、既に20世紀型の情報社会が出来上がっていて、しかし人間が少しも賢くならぬことを嘆じたのだったろうが、前年にはドイツにヒトラー政権が誕生、その後のヨーロッパの悲劇を思えば、悲観主義者の妄言と片づけるわけにはいくまい。情報ばかりが氾濫して知恵を見極めぬようなら、姿かたちを変えたヒトラーのような怪物がいつまた出現しないとも限らないのだ。
情報化時代と言われて久しいが、真の知恵にまで到達するのはたやすいことではない。ここは、エリオットがつけた優位の順を常に逆に意識するようだと、何かが見えてくるかもしれない。つまり、情報<知識<知恵。情報のなかの何が知識となり、知識のなかの何が知恵を開くのか。この逆進性のベクトルでものを考え生きることを、現代人のあるべき姿として、エリオットは教えてくれている気がする。
< 前 | 次 > |
---|