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Tue, 19 November 2024
〜シティを歩けば世界がみえる 特別編〜

時を超え、海を越え、空を越えグリニッジの魅力、
再発見!

ロンドン南東部にある世界遺産の海港都市、グリニッジ。15世紀後半、ヘンリー7世が旧来の宮殿ベラ・コートを増改築し、壮麗なグリニッジ宮殿に建て替えたことから、新たな歴史が始まります。王立海軍が生まれ、やがて王立天文台や海軍病院や大学も建ち、グリニッジは航海術や経度の研究で人類の発展に大きく貢献しました。さらに、この地には5125年後の世界についてもストーリーが存在します。グリニッジは、中世発・未来行きタイムマシンの発着所。では早速、乗ってみましょう。

シティ公認ガイド 寅七

シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫

プロローグ海洋帝国の発展はグリニッジ宮殿から始まった

ヘンリー8世とメアリー1世、そしてエリザベス1世もグリニッジ宮殿で生まれました。欧州の辺境に位置する小国が世界のひのき舞台に駆け上がる基盤を築いたのはこの3人です。ヘンリー8世は銃弾が貫通しない甲冑の製作所を宮殿内に作り、馬上やり試合ではいつも30キロを超える甲冑を着用して破格の強さを見せました。また、近隣のデットフォードとウーリッジに造船所を建設、大砲を搭載した戦艦を製造して王立海軍を作りました。そして海上の戦闘法を移乗攻撃から砲撃戦にいち早く変え、積極的に海外進出に打って出ます。スペイン無敵艦隊を破った艦隊も、クック船長が乗ったエンデバー号も、チャールズ・ダーウィンの乗ったビーグル号も、皆ここで造船されました。海洋帝国の発展は常にグリニッジと共にあったのです。

ヘンリー8世の後方にグリニッジ宮殿グヘンリー8世の後方にグリニッジ宮殿
旧グリニッジ宮殿の模型旧グリニッジ宮殿の模型
グリニッジで作られた甲冑グリニッジで作られた甲冑
3メートル近い馬上やりのレプリカ3メートル近い馬上やりのレプリカ
記念プレートヘンリー8世、メアリー1世、エリザベス1世が誕生した場所の記念プレート

Episode 1クイーンズ・ハウスはルネサンス建築様式の幕開け

ロンドンの街並みでは円柱、柱廊、破風(ペディメント)を有した古代ローマ・ギリシャの神殿風の建物をよく見かけます。これは「建築は丈夫で実用性があり、美しくあるべき」というイタリア建築家アンドレア・パラーディオの建築スタイルを、17世紀初頭に建築家イニゴ・ジョーンズが英国に輸入したことに由来します。シンプルで上品、控えめな美しさ、それでいて堅牢。ジョーンズの代表的な作品であるこのクイーンズ・ハウスは、もともと17世紀前半にジェームズ1世のお妃のために建てられたものです。ここには英国随一の美しいチューリップ階段や大理石のホール、フランシス・ドレイク卿の子孫から14億円相当で買い取った、スペイン無敵艦隊を破った直後のエリザベス1世を描いた「アルマダの肖像画」があります。また、ルネサンス建築様式の優美なデザインもほれぼれする美しさです。

優美なクイーンズ・ハウス優美なクイーンズ・ハウス
美しいチューリップ階段美しいチューリップ階段
大理石を敷き詰めたホール大理石を敷き詰めたホール
有名な 「アルマダの肖像画 」有名な 「アルマダの肖像画 」
女王の寝室の天井画女王の寝室の天井画

Episode 2清教徒革命後に登場した建築家クリストファー・レン

グリニッジ宮殿は清教徒革命(1642~1649年)で破壊され、その後の再建は進みませんでした。でも1688年の名誉革命で即位したウィリアム3世とメアリー2世が、海軍療養所(その後、海軍大学)を建てるように建築家のクリストファー・レンに命じます。レンは当時、ロンドン大火で焼失した聖ポール大聖堂の再建に努めていましたが、弟子のニコラス・ホークスムアと共に建築に着手。当初は敷地の真ん中に巨大なドームの建築を試みますが、それではクイーンズ・ハウスからのテムズ川の眺めが遮られるとメアリー2世からたしなめられ、現在の線対称の建物に変わりました。外観はまるで聖ポール大聖堂のドームの双子が出来たようで、ウィリアム棟にはジェームズ・ソーンヒル卿が描いたペインテッド・ホール、メアリー棟にはパステル・カラーの装飾が美しい礼拝堂があります。

海軍療養所の最初の設計図海軍療養所の最初の設計図
中央のクイーンズ・ハウスの視界を遮らない現在の建物中央のクイーンズ・ハウスの視界を遮らない現在の建物
ウィリアム棟のドームには風向計ウィリアム棟のドームには風向計
ウィリアム棟のペインテッド・ホールウィリアム棟のペインテッド・ホール
ドームの内側の天井画ドームの内側の天井画

Episode 3海が宇宙とつながる海事博物館と王立天文台

人は航海に出ると陸上物標を用いて海図を確認(地文航法)したり、天体観測により自分の船の位置を確認(天文航法)していました。夜空に輝く満天の星は水先案内人であり、海は宇宙とつながっていたのです。海事博物館は航海に必要な測量器具をはじめとした、海事に関する展示物であふれています。例えばジェームズ・クック船長が太平洋の測量調査で使ったクロノメーターは、その正確さが実証されたことから正確な時刻の測定が可能になり、グリニッジ標準時や国際子午線会議での本初子午線の設定につながりました。また、チューダー朝期の戦艦の模型や、世界初の近代的な地図帳であるオルテリウスの「世界の舞台」、トラファルガー海戦で銃撃された際の左肩口に弾痕が残るネルソン提督の軍服、英画家J・M・W・ターナーの傑作画「トラファルガー海戦」など、海洋史を彩る数々の秘蔵品は感動的です。

海事博物館正面口海事博物館正面口
航海に使われた測量器具航海に使われた測量器具
クック船長が使ったクロノメータークック船長が使ったクロノメーター
世界初の近代地図帳「世界の舞台」世界初の近代地図帳「世界の舞台」(オルテリウス編、1570年)
ネルソン提督の軍服左肩に弾痕が残る ネルソン提督の軍服

Episode 4本初子午線を基に全国地図と世界標準時が作られた

17世紀後半、チャールズ2世は建築家クリストファー・レンに王立天文台の建設を命じます。天文学者でもあったレンはグリニッジ宮殿跡近くに古城を見つけました。でも建設予算はわずか500ポンド(現在の金額で約7万4000ポンド。およそ1000万円)。その古城を中古の資材で覆って化粧替えします。もともと南北の方角を向いていない古城は天体観測には適さず、八角形の塔は応接室となり、観測は主に裏手の小部屋で行われました。初代天文台長のフラムスティード、2代目のハーレー、3代目のブラッドリーは観測部屋を次々に増築し、各人の観測器が置かれた場所に子午線が引かれました。ブラッドリーの子午線を基に全国地図が作られ、7代目のエアリー天文台長の引いた子午線が国際子午線会議で本初子午線に定められました。午後1時に落下する報時球は1833年から、玄関門の時計は1852年からグリニッジ標準時刻を告げています。

17世紀前半の古城17世紀前半の古城(ヴェンツェスラウス・ホラー作、1637年)
王立天文台は1675年に設立王立天文台は1675年に設立
過去の子午線の位置過去の子午線の位置(かつて黒いドア部分に観測器が置かれた)
報時球は午後1時に落下する報時球は午後1時に落下する
グリニッジ標準時を示すゲート時計グリニッジ標準時を示すゲート時計

Episode 5本初子午線と5125年後の世界

王立天文台の南側に天文学センターやプラネタリウムがあり、宇宙に関する展示物を見学できます。ナンビアで見つかった45億年前の隕石もその一つ。思えば現在のグリニッジ子午線は1884年の国際子午線会議で定められたものですが、20世紀後半に米国が打ち上げた人工衛星の測定(GPS=全方位測量システム)によれば東側に約102.5メートルほどのところにあるべきだそうです。ただし、大陸プレートの移動により英国は年間約2センチずつ東に動いており、約5125年後にGPSの測定とグリニッジ子午線の両者が一致するとか。その時、世界はどうなっているのでしょうね。グリニッジでは本初子午線上の道路や家の塀、テニス・コートにマークが付され、本初子午線の通る街であることがアピールされています。本初子午線の引かれたテニス・コートで東西対決したいですが、斜めに引かれているので難しいでしょうか。

天文学センター天文学センターで宇宙を学ぼう
45億年前の隕石天文学センターでは45億年前の隕石に触れられる
本初子午線上にある日時計本初子午線上にある日時計
家の塀の本初子午線マーク家の塀の本初子午線マーク
テニス・コートの本初子午線マークテニス・コートの本初子午線マーク
 

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