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Fri, 20 December 2024

第30回-テープレコーダーかカメラを。

北朝鮮の指導者、金正日総書記の健康状態に重大な異変が生じている。

最初に報じたのは、韓国メディアだった。英国では、9月7日の「インディペンデント」紙が「Where is Korea's Kim Jong Il?」という見出しを掲げ、「金総書記が3週間以上も行方不明」と報じた。その後は、米当局筋が総書記の脳出血を確認したこともあって、ニュースは世界中を駆けめぐっている。この原稿が活字になるころには、事態はさらに進展しているかもしれない。

私は一度だけ、北朝鮮を訪れたことがある。2000年4月のことだ。日朝政府による国交正常化交渉も断続的に開かれていた時期で、まだ拉致問題も沸騰していない。その第9回交渉が平壌で開かれることになり、日本代表団に同行したのである。

平壌では45階建てのツインタワー「平壌高麗ホテル」に滞在した。当時は北朝鮮の電力事情が極度に悪化しており、外国人向けのこのホテルも相当な節電を強いられていたようだ。何台もあるエレベーターは1基しか動かず、屋上の回転展望レストランも動くのは一部時間帯だけ。客もいなかった。日本代表団のほかは、北欧の技術者くらいで、巨大な建物内に人影がほとんどないのだ。

夜8時には街灯が消えた。真っ暗な通りから見上げると、周囲のビル群は灯りが皆無で、高層ホテルの窓も灯りは数えるほどしかない。平壌は人口が200万人超。その大都市で、ビル群が真っ黒な影となって夜の闇に屹立する光景は、震えが出そうなほど異様だった。

小さな、そして妙に忘れ難い出来事もいくつかある。

私は滞在中、独裁政党・朝鮮労働党の日刊紙「労働新聞」と、国際ニュースを英訳した新聞をもらっていた。その紙が藁半紙なのである。とくに英訳ニュース版は、インクが紙の上に滲み出し、ガリ版印刷のようだ。「紙」がないのである。

平壌郊外の観光地・妙香山へバンで行く途中は、草木がほとんどない荒れ地が延々と続いていた。赤茶けた土、泥色の川。作物の無い畑の横には列車の来ない鉄路が走り、貨車を幾人もの人が手で押している。そんな光景がいつまでも続くのだ。そもそも、到着するまでの数時間、対向車はほとんど来なかった。街中でも車は滅多に来ない。信号機はあっても、赤も青も光っていない。

北朝鮮代表団との焼き肉パーティーが河原で開かれたとき、肉はアヒルだった。脂が多く、激しい煙が出る。国家のメンツもかかっているはずの宴席で、まともな肉も出せない。日本外務省の担当者は「援助をもらうため貧しさをアピールしているのでは」と話していたが、いずれにしても社会は痛んでいた。

私には四六時中、ガイド兼監視役の男性が付いていた。30代半ばで、妻と2人の子供がいるという。北朝鮮ではエリートであり、豊かな階層のはずだ。「家に電話がある。日本に行ったことがある」のが自慢で、口を開けば「共和国は貧しいけれど、人民は日本人と違って気持ちが汚れてない」と繰り返す。でも、日本へ戻る日が近づいたある朝、私の予感の通り、彼はこう言ってきた。

「高田先生、先生のテープレコーダーかカメラを私にずっと使わせてくれませんか」

私は断り、「テープレコーダーやカメラを北朝鮮国民が自由に使うためには、開かれた国になり、経済を活発にすべきだ」と教科書みたいな答えを返した。ホテルの玄関脇での立ち話。早朝の空は抜けるほど青く、黙ってしまった彼の背後には、車の通らぬ広い道路が続いている。

彼は、その朝も濃紺の背広姿だった。左襟に金日成のバッジ。いつだったか、冗談で「売ってくれ」と頼んだとき、「撃たれても売れない」と真顔で言われた。そして「バッジが欲しいなら案内します」という彼の案内で国営百貨店に行き、私は2000円で北朝鮮国旗のバッジを土産用に50個も買った。言い訳かもしれないが、私は最初、「30個」と言ったのに、店員が1個ずつ丁寧に包装する様子を見ていたら、もっと欲しくなったのだ。しばらくして、ケースの中は空っぽになった。

その様子を彼がどんな思いで見ていたのかは分からない。でも、それがあったから、彼は「テープレコーダーかカメラを」と言ったのかもしれないと、今になって思う。

 

高田 昌幸:北海道新聞ロンドン駐在記者。1960年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。
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