2009年、当時まだロイヤル・オペラ・ハウスの若手歌手育成コースで学んでいた小柄な日本人女性が、当代を代表するソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコの代役として同劇場の舞台を踏み堂々たる演技を見せたニュースは、英国内外のオペラ・ファンを驚かせた。それから5年半。
一歩一歩着実にプロとしての経験を積み、今ではバイエルン国立歌劇場の専属歌手としてドイツを拠点にしつつ、世界各国で活躍する中村恵理さんが9月、ロイヤル・オペラ・ハウスに戻ってくる。「心のホーム」であるというこの劇場での思い出や、これまでの軌跡について語っていただいた。
(本誌編集部: 村上 祥子)
Profile
中村 恵理(なかむら えり)
兵庫県出身。大阪音楽大学音楽学部声楽学科卒業。同大学大学院音楽研究科オペラ研究室修了。新国立劇場オペラ研修所第5期修了。オランダ留学を経て2008年から2年間、英国ロイヤル・オペラ・ハウスの若手歌手育成コースであるジェット・パーカー・ヤング・アーティスツ・プログラムで学ぶ。研修期間中に、アンナ・ネトレプコの代役として「カプレーティ家とモンテッキ家」に出演。09年にはカーディフ国際声楽コンクールにてオーケストラ、歌曲両部門においてファイナルに進出した。10年にドイツ・バイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約。ドイツを拠点にしつつ、英国や日本を含む、世界各国で活躍中。
大阪音楽大学大学院修了後は、新国立劇場オペラ研究所を経てオランダ留学、そして英国のロイヤル・オペラ・ハウスで研修を積まれました。各場所で教育の違いは感じましたか。
もちろんカリキュラムは異なるのですが、それ以前に自分自身の意識が個々に違っていたのではないかと思います。まず上京したとき、それまで私は外国人に出会ったことがなかったんですね。新国立劇場では、外国人からレッスンを受けるのに慣れることができた、しかも東京で日本語で生活しながらできた点が大きかったと思います。第2ステップとしてオランダに行ったときには、海外での生活に慣れることを学びました。また、良かったなと今となれば思えるのが、人に見られている中で舞台上を自然に歩く、ということを目的としたレッスン、いわゆるマイムが非常に多かったことですね。オランダでは声を磨くというよりは、パッケージとして舞台にのる人ということにフォーカスした研修ができたのではないかと思います。そしてその後、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスに来て、いよいよプロとして舞台に立つにはどうしたら良いかということに真剣に取り組むようになりました。
2009年には研修期間中にもかかわらず、アンナ・ネトレプコの代役としてシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」を基にした「カプレーティ家とモンテッキ家」にジュリエット役で出演されました。代役となった経緯は?
各研修生が(ロイヤル・オペラ・ハウスと)契約するときに、来年はこの役を勉強するようにと、それぞれの声に合った役を与えられます。研修期間中にはその役を課題として勉強すると同時に、小さい役をステージで歌って実経験を積むということがなされるのですが、その役というのが私の場合は「カプレーティ家とモンテッキ家」だったわけです。その後、実際の舞台で来年誰が歌うかを劇場側が一般の方々に発表するときに、あのネトレプコさんが歌う役を私が勉強するのだと知りました。ですから代役というよりは、アンダースタディーとして勉強していたわけですね。ただ、ネトレプコさんは当時ご出産されたころで、時々お稽古をお休みになられることもあったので、そのときには私が代わりに立つという機会がありました。実際に歌いなさいと言われたのは、キャンセルが決まった前日です。
舞台を観た方々からは、本番中は特に緊張した様子もなく、堂々と歌われていた姿が印象的だったという声が聞かれました。実際のところはどうだったのでしょう。
今考えても過去トップ3に入る緊張度でしたね。この役はアカペラ、しかもアリア(ソロ)で始まります。花嫁衣裳のベールをかぶっているのですが、ベールを上げた瞬間、2000人超のお客様、4000の目が自分に刺さるわけです。その瞬間は今思い返しても身震いがしますね。このベールを上げたからには、最後まで終えなければならないと思いました。
共演者や観客の反応は?
共演者も指揮者も劇場全体が本当に良くサポートしてくださいました。ずっと舞台袖で見守ってくださった人たちもいましたし、コーラスの方たちは「頑張って」と書かれた寄せ書きを持ってきてくださいました。ロメオ役のエレナ・ガランチャさんはずっと耳元でささやいてくださったり、「大丈夫だから」と言ってくださったり。指揮者はずっと微笑んでくださいましたし。皆さんの力だったと、今でも本当にそう思っています。お客様も、「この子本当にできるんだろうか」と私以上に緊張されていたと思うんです(笑)。最初のアリアが終わったときから温かい拍手をいただいて。最後まで歌い切ってよく頑張った、という意味もあったと思うのですが、あんなに大きな拍手、あんなに印象に残るカーテン・コール――今でもキャリア最良の日はと聞かれたら、あの日のカーテン・コールと答えますね。
世界で活躍する上で母国語が日本語であるということがデメリットになることもあるかと思います。
もちろん言葉のハンデはあります。ただオペラは、感情と言葉を音楽にのせているので、言語は重要ではありますが一つのツール。基本的なニュアンスは既に音楽に書かれているので、自分の言葉をどのように音楽にのせて伝えたいか、やはり音楽がキーワードになってくると思うんですね。声の質、表現力、表現に耐えうるだけのテクニックや感性が、言葉と共存しているわけです。演劇ですと、言葉のテンポや何をどう言うかが役者にかかっているのですが、オペラは音楽という制約があるので、指揮者のテンポで表現しなければならないという、全員がもつ決まりがあるんですね。その中での表現力を磨いていくことが、演劇人との違いだと思います。
オペラ歌手としてのご自身の強みは何だと思われますか。
どうでしょうか。自分で言えるものはないのですが、海外の方によく言われるのが、日本人としてはそれほど小さくはないのですが「そんなに小さいのによくそれほど大きくて素晴らしい声が出るね。どこからその声が出てくるんだ」と。恐らく、伝えたいと思う気持ちが声にのっている、「伝わる声」なのではないでしょうか。通る声とは言われますが、聞こえるだけではだめで、心に伝わるように、と思っています。
ご自身の強みを生かせると感じられる役、お好きな役はありますか。
喜劇も悲劇も好きなんですが、マネージャーは私は死ぬのがうまいと言いますね(笑)。ジュリエットのように脆くてナイーブ、ちょっとシャイで――私自身はシャイではないのですが(笑)――といった脆弱性を持った役は非常に合っていると。皆さん、「トゥーランドット」のリュー役、また今回演じる「リゴレット」のジルダ役もそうですが、自分を犠牲にして生きる悲劇性の高いものがお好みのようです。逆に苦手なのはセックス・アピールをしなければならない役。やれと言われればもちろんやりますし、やってみたいと思ってもいますが、欧米の皆さんとは如何せん出てくるものが違うので、逆にこないと言いますか(笑)。
今回は「リゴレット」にジルダ役で出演されます。中村さんが出演される回は、誰もが無料で観られるBP ビッグ・スクリーンで上映されるということで、これまでオペラを観たことのない人たちも多く訪れることと思います。
私は映像向けではないので、できれば遠巻きに観ていただきたいのですが(笑)、オペラに行きたいけれど経済的に難しいとか、ちょっと観てみたいとか、「ちょっとの興味」のある方にとっての楽しみになるのであればうれしいです。ただ、できることならばちょっとの贅沢で、劇場にお越しいただきたい。生の空気感というのでしょうか。音楽が実際に空気を震わせているところをぜひ体験していただきたいといつも考えています。高尚なものを楽しむ感覚ではなく、ちょっとおめかししてバーやテラスも含めた雰囲気を楽しむために、一度足を運んでいただければ。17日のビッグ・スクリーン上映の後、21日も演じますので、スクリーンも観て、劇場でも観ていただければと思います(笑)。
ロイヤル・オペラ・ハウスにおける出演予定
Rigoletto
2014年9月17日(水)19:30 及び9月21日(日)14:00
Royal Opera House, Bow Street, London WC2E 9DD
Tel: 020 7304 4000 | www.roh.org.uk
*なお、17日の公演は、BP Big Screensの一環としてトラファルガー広場に設置された巨大スクリーンで上映される予定。無料。19:00からトークあり。