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Wed, 06 November 2024
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生誕 200周年

荒野を愛し、「嵐が丘」を
世に生み出した女流作家
エミリー・ブロンテ Emily Brontë 1818-1848

「最後のロマン主義作家」といわれ、英文学史上にその名を深く刻んだエミリー・ブロンテ。小説「嵐が丘」(原題「ワザリング・ハイツ(Wuthering Heights)」)を書き上げ、姉シャーロット、妹アンと共に「ブロンテ姉妹」の一人として文壇に名を成したエミリーが誕生して、今年で200年を迎える。たった1作、しかし、比類なき傑作を遺してわずか30歳の若さで世を去った、この女性作家の生涯に迫る。(文: 丸城魔亜矢)

家族以外、友達も恋人もいなかった
エミリー・ブロンテの生涯

エミリー・ブロンテ

英国の詩人で文芸評論家のエドマンド・ブランデンにより、「リア王」「白鯨」と並び英文学の三大悲劇の一つに挙げられる「嵐が丘」。作者であるエミリー・ジェーン・ブロンテは、1818年、ブロンテ家の第5子として、英北部ヨークシャーのソーントンで生まれた。1820年、父パトリックが助任司祭として転任した近隣の田舎町ハワースに一家で移り住んで後、エミリーは、その生涯のほとんどを父親の牧師館で過ごした。

エミリーがハワースを離れたのは、6歳と17歳のときに計9カ月暮らした寄宿学校時代、24歳から25歳にかけて生徒兼教師としてブリュッセルで過ごした9カ月、そして音楽教師として英北部ハリファックス近郊に勤めたわずかな期間だけ。滅多に他人と口をきかない内気な性格で、音楽教師の職も6カ月しか続かなかった。

1847年、エミリーは「嵐が丘」を当初エリス・ベルという男性名で発表した。姉のシャーロットは、作者が女性であることを公表することを勧め、ロンドンの出版社を訪れることを提案したが、エミリーはそれを拒んだという。そしてその翌年、1848年、結核のためこの世を去った。生涯、家族以外には友達も持たず、恋愛を経験することもなかったという。

1847年、エリス・ベルの名でトマス・コートリー・ニュービー社より出版された「Wuthering Heights」(「嵐が丘」)の初版本。当時は女性作家への偏見が根強かったため、男性名のペンネームを使用した。後にシャーロットが、作者の本名を公表した

姉妹そろって文才に恵まれた、ブロンテ姉妹

詩人のアルフレッド・テニスンや文豪チャールズ・ディケンズなどが活躍し、文学の世界において全盛期を迎えていたビクトリア朝の大英帝国。その時代に流星の如く登場したシャーロット(1816~1855)、エミリー(1818~1848)、アン(1820~1849)のブロンテ3姉妹は、父パトリック・ブロンテが牧師を務めるヨークシャーの田舎町、ハワースの牧師館で、兄のブランウェルも加え、幼いころから文章を書くことを遊びにして育った。

1846年、成人した姉妹は「カラー、エリス、アクトン・ベル詩集」を男性名で自費出版したが、当時はわずか2部しか売れず、19世紀末に英国の詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンらが評価するまで顧みられることはなかった。

しかし、翌1847年10月、カラー・ベルという男性名を使って出版されたシャーロットの「ジェーン・エア」が大好評を博し、同年、エミリーの「嵐が丘」とアンの「アグネス・グレイ」も刊行された。

出版の喜びもつかの間、1848年にはブランウェル、エミリー、そして翌1849年にはアンと、兄弟姉妹は相次いでこの世を去る。残されたシャーロットは失意の中も執筆を続け、「シャーリー」「ヴィレット」を出版したが、「エマ」(1860年未完成原稿発表)を執筆中、38歳のときに妊娠中毒症でこの世を去った。

ブロンテ姉妹兄ブランウェルが描いたブロンテ姉妹の肖像。左からアン、エミリー、シャーロット。
最初はブランウェルも描かれていたが、彼自身の手によって消されている

エミリーの死後、評価された小説「嵐が丘」

ジプシーの孤児ヒースクリフが陰惨な復讐劇をくり広げる「嵐が丘」は、牧師館の内気な娘が書いたとは到底思えない愛憎の物語だ。英小説家サマセット・モームは、エッセイ集「世界の十大小説」(1954年)に「嵐が丘」を入れ、同作品を讃えている。とは言え、出版当初の「嵐が丘」は評価が分かれ、2つの家族の3代にわたる愛憎劇を、2人の語り部が交互に語る複雑な構成は、特に不評を買う原因となった。「嵐が丘」が文学的に高く評価され始めたのは、エミリーの死後であった。

「嵐が丘」あらすじ
舞台は、ヨークシャーのヒースの生い茂る荒地にある館「嵐が丘」。館の主人に拾われた孤児ヒースクリフは、同館の娘キャサリン・アーンショーと共に育てられる。2人は強く惹かれ合いながら成長するが、キャサリンの兄ヒンドリーは、父親のヒースクリフに対する愛情に嫉妬し、ヒースクリフを虐待する。やがて、キャサリンと近隣の富豪リントン家のエドガーとの結婚話を知ったヒースクリフは突然姿を消し、3年後、エドガーと結婚したキャサリンの前に再び姿を現す。キャサリンは驚きのあまり錯乱死し、ヒースクリフは自分とキャサリンを引き離したアーンショー家とリントン家に復讐を開始。ヒースクリフは両家の財産を手に入れ、ヒンドリーの息子ヘアトンを使用人のように育てる。しかし1802年のある晩、ヒースクリフは自宅で不可解な死を遂げ……。

ヒースの荒野紫に生い茂るヒースもハワースの荒野の見どころの一つ

エミリー・ブロンテってどんな人?

ほとんど家庭教育のみで育ち、生涯結婚もしなかったエミリーは、「嵐が丘」をその類まれなる想像力一つで書き上げたといっても過言ではない。軍隊のような秩序を好むと同時に、空想を愛したとされる内気なエミリーの素顔が分かる、5つのエピソードを紹介する。

幼いころから空想好き

シャーロットとアン、兄ブランウェルと共に、エミリーも幼いころから物語を書き始めた。とりわけ、アンとの合作「ゴンダル」は、架空の島を舞台にした詩と散文による壮大な作品で、本作の執筆に没頭したエミリーは、成人してからもその筆を置かず、1840年代の初期まで書き続けたという。

エミリー自筆の詩エミリー自筆の詩

作品を他人に見られることを嫌う

偶然、机に置き忘れられていたエミリーの詩を読んで感銘を受けたシャーロットは、3姉妹で詩集を発表することを強く推したが、エミリーは作品を他人に見せることを嫌い、自分の原稿を盗み読みしたシャーロットに激怒したという。詩集の出版にも乗り気ではなかったが、家計を助けるという理由で、エミリーは仕方なく出版に応じた。男性名で自費出版された「カラー、エリス、アクトン・ベル詩集」には、エミリーの詩が21編、アンの詩が21編、そしてシャーロットの詩が20編収められた。

ブロンテ博物館姉妹が暮らした当時が再現された、ブロンテ博物館の内部

獰猛(どうもう)な犬を手なずけた

エミリーの生きた19世紀前半のイングランドは、 馬が移動の手段だった時代であり、動物は人々にとって身近な存在だった。ブロンテ家も、鷹のネロや、ガチョウのビクトリアとアデレードなど、様々なペットと暮らしていた。エミリーはアイリッシュ・テリアのグラスパーを始め、何頭かの犬を熱愛すると同時に、厳しくしつけた。なかでも獰猛な性格で知られたマスティフ犬の「キーパー」がお気に入りで、キーパーが村の犬とケンカをした際、果敢にもエミリーが止めに入ったという逸話がある。

エミリーの愛犬エミリーの愛犬、アイリッシュ・テリアのグラスパー

風の吹きすさぶ荒野を愛する

ほとんど学校に通わず、家族以外に友達を持たなかったエミリーの遊び場は、生涯、自宅の裏に広がる荒野だった。外では内気なエミリーだが、家族と過ごすときと荒野を歩くときだけは生き生きとしていたという。エミリーに教育を施したのは、姉のシャーロットと、1821年の母マリアの死以降、ブロンテ家の一員として共に暮らしていた伯母エリザベスだった。また、牧師である父親からは、幅広い読書と、公共政策や文学評論などについて手ほどきを受けた。

ハワースの荒野ハワースの荒野

医者を拒否する頑固者

エミリーは、内向的な性格とは裏腹に、ストイックで頑固だったと言われている。画家だった兄ブランウェルの葬儀に出席してひいた風邪がもとで結核を患った際、2階の寝室に行く力もないほど衰弱していたにもかかわらず、医者にかかることを頑なに拒み、1848年12月19日、後に自分が英文学史上に名を残すことも知らないまま、ダイニング・ルームのソファで息を引き取った。享年30歳。早すぎる死だった。

これを知れば、「嵐が丘」がもっと楽しめる

「嵐が丘」の世界をもっと探求したい方には映画がお勧め。また、姉妹を育んだ、当時と変わらぬ風が吹き抜けるハワースを訪れて「嵐が丘」の世界を体感するのも良いだろう。ブロンテ・カントリーとして知られるハワース一帯にはブロンテ一家にまつわる数々の名所がある。

何度も映画化されている「嵐が丘」

「嵐が丘」は、過去に何度も映画化されている。原作は読んだことがないが、映画は観た、という人も多いのではないだろうか。初めて映画化されたのは1939年の米ハリウッド作品。ローレンス・オリビエとマール・オベロン主演で、原作のような復讐劇ではなく、キャサリンとヒースクリフの情熱的なラブ・ストーリーとして描かれている。1992年に、ジュリエット・ビノシュ、レイフ・ファインズ主演で製作された英作品は、坂本龍一が音楽を担当した。1998年に英民放局ITVによりテレビ向けに製作されたロバート・カバナー、オーラ・ブラディ主演の作品は、原作に忠実で人気が高い。

いずれのバージョンにも、同じ場面が登場し、名セリフがあるので、見比べてみるのも面白い。例えば、キャサリンが家政婦エレンにエドガーとの結婚の話をしていて、それをヒースクリフに立ち聞きされる場面のキャサリンの決めゼリフ。俳優たちがここぞと演技を競い合う名場面だ。日本でも1988年に松田優作と田中裕子主演で、舞台を鎌倉時代の日本に設定して製作されている。ヒースクリフは「鬼丸」という名で登場。音楽は現代作曲家の武満徹が担当した。

ブロンテ姉妹の生家ヨークシャーの小さな町ソーントンにあるブロンテ姉妹の生家。
ハワースに移り住む前に一家が暮らしていた場所

「嵐が丘」の舞台、 ブロンテ・カントリー、ハワース

ブロンテ姉妹の故郷ハワースには、ブロンテ一家が暮らした牧師館が残っている。牧師館は、現在はブロンテ博物館となっており、当時の家具やブロンテ姉妹に関する展示物を見ることができる。この博物館では、2016年から、ブロンテ姉妹兄弟の生誕200年を記念する5年越しのイベント「ブロンテ200」が開催中。3年目の今年は、エミリー・ブロンテの生誕を祝い、「エミリー2018」と題して、エミリーや「嵐が丘」 にちなんだ講演や展示が行われている。

また、ハワースの町には、エミリーの兄ブランウェルが酒浸りとなって通ったというパブ「ブラック・ブル」や、アンを除くブロンテ一家が眠る教会などが点在する。

そして、ハワースに足を延ばしたら、ぜひ挑戦してみたいのが荒野のハイキング。「嵐が丘」の原題「Wuthering Heights」の「Wuther」とは、ハワース地方の言葉で「風が轟々と吹き荒れる様」を示す言葉だが、荒野を歩きエミリーの人生に思いを馳せたり、姉妹が遊んだ橋や、「嵐が丘」の舞台になったとされる廃墟「トップ・ウィズンズ」などを探索するのも良いだろう。

ブロンテ博物館ブロンテ博物館

The Brontë Parsonage Museum
4月〜10月: 10:00-17:30 / 11月〜3月: 10:00-17:00
入場料: £8.50(発行日より12カ月間有効)
Church Street, Haworth, West Yorkshire BD22 8DR
Tel: 0153 564 2323
アクセス: Kings Cross駅からKeighley駅まで約3時間。同駅からバスまたは蒸気機関車(夏季、週末、祝日のみ運行)でハワースへ。街の中心部に博物館がある。
http://www.bronte.org.uk

 

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