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Fri, 22 November 2024

ヴィクトリア時代に開花した英国オカルトの系譜

死の訪れ。ディケンズの処女作「ボズのスケッチ集」から死の訪れ。ディケンズの処女作「ボズのスケッチ集」から

ヴィクトリア時代は産業や科学が発達し合理性が重んじられた一方で、庶民は依然として民間伝承や迷信を信じ、また文化人たちも超自然主義に心惹かれ、降霊会や睡眠術といったものに真剣に向き合った。5月26日はアイルランド人作家ブラム・ストーカーの怪奇小説「吸血鬼ドラキュラ」が刊行され125年にあたる。これを機に、今回は当時英国で流行していたオカルト思想と、その根底に流れるゴシックの系譜を紹介していこう。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: The Hellbore Guide to Occult Britain and Northern Ireland、https://time.com、「英語世界の俗信・迷信」大修館書店、www.bramstoker.org ほか

ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」

Abraham ‘Bram’ Stoker(1845~1912年)Abraham ‘Bram’ Stoker(1845~1912年)

ストーカーの怪奇小説「吸血鬼ドラキュラ」(原題:The Dracula)は、1897年に発表され大ヒットしたが、出版社のアーチボルド・コンスタブル& カンパニー(Archibald Constable&Company)はストーカーが当初執筆したものから、前半部分を中心に101ページも削除して出版した。この理由としては、ストーカーが物語の中に実在の人物を入れ込み、フィクションとノンフィクションの境を曖昧にしたことから、読者が「吸血鬼ドラキュラ」を実際にあった話だと思い込むのを避けるためだったという。

ヴィクトリア時代の後期には国外から都市部に移民が流れ込み、移民街の拡大が犯罪率の増加原因だと考えられていた。1888~91年にロンドン東部で起きた切り裂きジャックによる連続通り魔殺人事件では、犯人捜しの際に真っ先にユダヤ人コミュニティーが疑われ、メディアや市民たちはヒステリックに反応。こうした例から、東欧からの移民増加が社会問題として扱われている時期に、ルーマニアからやってきた吸血鬼が英国で夜な夜な人々の血を吸うような物語はよろしくないと判断され、当時を思わせるリアルな箇所が削除されたといわれている。

「吸血鬼ドラキュラ」の初版本「吸血鬼ドラキュラ」の初版本

いろいろあるオカルトのジャンル

「オカルト」とはラテン語で「隠されたもの」を意味するoccultaから来る。転じて、目では見えないものを指すが、英国で初めてこの言葉が使われたのは1881年。思えば、心霊学、魔術、妖精、民間信仰など、英国にはこの国が本場だったのかと気付かされるオカルトのジャンルが数多くある。中世から綿々と地下の水脈のように続いてきたそうしたオカルトが、一気に花開いたのがヴィクトリア時代だ。ここではその代表的なものを挙げてみよう。

Horror1. 定着した吸血鬼のイメージ

観光客も訪れる廃墟、ウィットビー修道院観光客も訪れる廃墟、ウィットビー修道院

吸血鬼=ドラキュラのイメージを定着させたのはブラム・ストーカーだが、吸血鬼の伝説は欧州各地で昔から見られた。吸血鬼は生命の源でもある血を養分とすることで、永遠の命を持つ。だがその姿は女性や老人、動物などであったりとさまざまだった。ドラキュラ誕生において最もよく知られているのは、ストーカーが1890年に英北部の港町ウィットビー(Whitby)に長期滞在中、町の図書館で偶然「ドラキュラ」(Dracula)という名前に出会った逸話だろう。ストーカーはある本から、15世紀のルーマニア南部に実在したドラキュラ(ドラゴンの息子)と呼ばれる君主ヴラド3世の存在を知る。残虐な振る舞いから「串刺し王」の異名もあったというこの君主をモデルに、ストーカーは吸血鬼ドラキュラの構想を練ったといわれている。

聖メアリー教会の敷地内に並ぶ墓石群聖メアリー教会の敷地内に並ぶ墓石群

またストーカーは、聖メアリー教会、廃墟となっていたウィットビー修道院など、北海や切り立つ壁に囲まれた寒々しいウィットビーの風景にもインスピレーションを得た。なお、ウィットビーではドラキュラの誕生地であることを祝い、1994年から毎年2回、ウィットビー修道院でウィットビー・ゴス・ウィークエンドという音楽フェスティバルが開催されている。

Spirit and Ghost2. コナン・ドイルとスピリチュアリズム

「シャーロック・ホームズ」シリーズで知られるアーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle 1859~1930年)は、心霊術を信じ、降霊会に参加したり英国スピリチュアリスト協会(SAGB)に入会したりと、スピリチュアリズム(心霊主義)とは深い関係があった。ドイルと心霊主義の最初の出会いは1880年。英中部バーミンガムで行われた「死は全ての終わりか」という、心霊主義に関する講演を聞いたことに始まる。当時20歳だったドイルは講演内容に不信感をもったものの、しかしやがて一定数の科学者が心霊術を認めていることを知り、自らテレパシーの実験を開始するに至った。ヴィクトリア時代は、科学者や文化人が、心霊現象は科学的に説明できることなのかを真摯に研究した時代でもあったのだ。

霊が写り込んだコナン・ドイルの肖像写真霊が写り込んだコナン・ドイルの肖像写真

この時代英国では霊媒師やヒーラーが続々と出現し始め、スピリチュアリスト・チャーチが数多く建てられ、霊媒師のデモンストレーションなどが定期的に行われるようになっていた。やがて霊的な活動を行うグループや組織が各地で結成されていき、降霊会などを通してスピリチュアリズムを普及させていった。なかでも1872年に創設されたSAGBは、現在もロンドン中心部メイフェアで活動しており、霊視をはじめ、ヒーリング、瞑想、前世療法、催眠療法などさまざまなセッションが実施されている。

Secret Society and Tarot3. 秘密結社「黄金の夜明け団」

ウェイト版タロットの「運命の輪」ウェイト版タロットの「運命の輪」

黄金の夜明け団(Hermetic Order of the Golden Dawn)は1887年にウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザース、ウィリアム・ロバート・ウッドマンの3人のフリーメイソン・メンバーによって創設されたオカルト的秘密結社。ユダヤ教の神秘主義思想カバラを中心とする西洋秘儀を重視し、近代西洋魔術の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった。「黄金の暁教団」や「ゴールデン・ドーン」などとも呼ばれる。詩人のW・B・イェーツをはじめ、小説家のアーサー・マッケンやアルジャノン・ブラックウッド、詩人ウィリアム・シャープ、物理学者ウィリアム・クルックス、オスカー・ワイルド夫人のコンスタンスなど著名な知識人たちが参加した。メンバーのアーサー・エドワード・ウェイトは、黄金の夜明け団の教義に基づいたタロット・カードを作成したが、これはウェイト版タロットの名で、現在最も普及しているタロット・カードだ。

教団の衣装を着たアレイスター・クローリー教団の衣装を着たアレイスター・クローリー

また、1898年にはケンブリッジ大学に在学中だった若きオカルティスト、アレイスター・クローリーも入団。1900年に黄金の夜明け団が分裂した後は、自身の魔術結社「銀の星」(A∴A∴)や「東方聖堂騎士団」(OTO)の英国支部を開設した。クローリーはスキャンダラスな異端の人として名を残したが、トート・タロットの作成者としても知られている。ウェイト版とは若干解釈が異なるものの、現在でもタロット愛好者からの評価は高い。

Fairly4. コティングリー妖精事件

ジョン・アトキンソン・グリムショーによる妖精ジョン・アトキンソン・グリムショーによる妖精

妖精とは欧州、特に英国の伝承に登場する自然の精霊のこと。人間の形だけでなく、動物や昆虫の形をしているものがおり、いたずら好きで人間に害を与えることもある。一方で、キリスト教において妖精は天使の一種であるともされており、人間と神の中間的な存在といわれている。19世紀にはジョン・アトキンソン・グリムショーなど多くの妖精画を描く画家が輩出した。

フランシス・グリフィスと遊ぶ妖精たちの偽写真フランシス・グリフィスと遊ぶ妖精たちの偽写真

1920年、エルシー・ライト(16)といとこのフランシス・グリフィス(9)という二人の少女が妖精の姿をカメラに収めたというニュースで、英国では妖精の実在にまつわる大論争が巻き起こった。エルシーが撮影した写真には、踊る妖精や楽しそうに遊ぶ妖精の姿が映っていた。心霊主義を信じるコナン・ドイルは専門家とその写真を調べ、偽物の可能性はないと太鼓判を押し雑誌に発表。新聞や雑誌などのメディアが注目し、写真が撮られた英北部ヨークシャーの村、コティングリー(Cottingley)に多くの人々が押し寄せた。しかし半世紀近く経った1966年に、「デーリー・エクスプレス」紙上でエルシーがそれらが偽造写真であることを告白。妖精の絵を描き、それを切り抜いて写真に撮ったものだったと語った。しかし後年、5枚のうちの1枚は本物だとするなど、長い妖精論争はいまだに決着が付いていない。

Science Fiction5. 透明人間の誕生

「透明人間」初版本「透明人間」初版本

近代SF小説の始まりはフランスのジュール・ヴェルヌによる「月世界旅行」といわれているが、英国ではその30年後にあたる1895年にH・G・ウェルズが「タイムマシン」を発表した。ヴェルヌ作品が当時の最新科学を礼賛したもので、科学小説の趣を呈していたのに比べ、ウェルズは将来の世界を冒険ファンタジーとして捉え、現代SFの特徴ともいえるユートピアやアンチ・ユートピアを描き出したと評価されている。

そのウェルズがストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」と同じ1897年に発表したのが「透明人間」(The Invisible Man)だ。物質が透明になる薬を発明し有頂天になった科学者が、その薬を飲むことで自らの体を透明にする。さまざまないたずらや悪事を働き楽しんでいたものの元に戻る方法が見つからないというストーリーで、科学は魔術を超えると思い込み、科学こそが全てにおいて万能だと信じていた人間の末路を描いたダークな作品だ。その後ウェルズは、科学というおもちゃをもて遊んだことで人類が滅亡へと向かう「宇宙戦争」(The War of the Worlds)や原爆を予見した「解放された世界」(The World Set Free)などを発表し、空想の世界を描きながら文明批評をするという道を選んだ。

Neo-Paganism6. 民間信仰で残る古代宗教

今も行われる春を祝う植物神「グリーンマン」の祭典今も行われる春を祝う植物神「グリーンマン」の祭典

ヴィクトリア時代の後期は、昔ならオカルト現象としか考えられなかったことがらが、電信、写真、映画の発明で次々と具現化し、科学と魔術の境が不確かになった時期。科学と魔術が肩を並べ、その影響で古代ケルト族が信仰したドルイド教などから派生した民間信仰にも改めて光が当たった。ドルイド教では木に精霊が宿っていると考え、いけにえを捧げ占いを行うなどしていたが、これが行き過ぎた科学を嫌う自然崇拝者たちに再発見された。やがて自然を基盤に精神世界を取り戻そうというネオ・ペイガニズムや、欧州古代の多神教的信仰、特に女神崇拝を復活させた新宗教ウィッカ(Wicca)などにも発展した。

木でできた巨大な人型の檻の中に、生贄に捧げる家畜や人間を閉じ込めて焼き殺す「ウィッカーマン」の儀式の図木でできた巨大な人型の檻の中に、生贄に捧げる家畜や人間を閉じ込めて焼き殺す「ウィッカーマン」の儀式の図

 

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