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Sat, 23 November 2024

設立200年
ナショナル・ギャラリーの
歴史をひもとく

ナショナル・ギャラリー

13~20世紀に描かれた欧州の絵画が2300点以上所蔵されているナショナル・ギャラリーは、英国を代表する美術館の一つ。市民に開かれた文化施設であることを目指し、200年前の設立時から入場無料をモットーに運営されてきた。多くの美術館が海外から有名絵画を借りた有料の企画展を開催するなか、ナショナル・ギャラリーはどこへ向かうのか。同館の過去・現在・未来を紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.nationalgallery.org.uk、www.britishcouncil.jp ほか

National Galleryとは

1824年にロンドンのトラファルガー広場に絵画専門の美術館としてオープン。セザンヌ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、モネ、ラファエロ、レンブラント、ターナーなど、現在は13世紀半ばから20世紀までの西欧絵画2300点以上を所蔵しているが、開館当初の展示作品数は38点に過ぎなかった。設立の始まりが王室や貴族の所蔵コレクションではなく、美術愛好家や企業家などからの寄付が中心だったことは、欧州の美術館のなかでも珍しいとされる。

「ナショナル」の名は付くが完全な国営ではなく、国からの出資は60パーセントほど。登録適用除外チャリティー(Exempt Charity) の一つで、デジタル・文化・メディア・スポーツ省の非政府部門公共機構( Non-Departmental Public Body)として運営されている。同館のコレクションは特別な企画展をのぞいて入館無料。2024年は設立200年を記念し、5月から1年にわたりさまざまなイベントが開催予定だ。

過去・現在・未来

ナショナル・ギャラリー誕生までの紆余曲折、そしてそれを経ての充実したコレクションの数々を紹介。また、同館が模索するこれからの美術館の在り方も伝える。

I. 誕生のきっかけ

18世紀後半、革命や戦争などが原因で欧州各地で王室や貴族の美術コレクションが流出し、国有化される動きが相次いだ。その結果、一般市民がそうした貴重なコレクションを目にする恩恵を享受できるようになった。例えば、バイエルン王室のコレクションは独ミュンヘンの美術館、アルテ・ピナコテークに所蔵され、伊フィレンツェではメディチ家のコレクションがウフィツィ美術館に。そしてルーブル美術館が旧フランス王室のコレクションから設立されるなどだ。

しかし、王室や貴族が安定した力を維持していた英国では、幸か不幸かほかの欧州諸国と異なり、英国王室のコレクションは国王の所有物のまま。政府は何とか自国でも美術館を設立し、芸術をもっと身近に国民に浸透させ、将来の英国芸術の発展につなげることはできないかと模索し、ナショナル・ギャラリーの設立を企画する。

1824年のナショナル・ギャラリー1824年、パル・マル100番地に誕生した当時のナショナル・ギャラリー

II. 話し合いばかりでらちの明かない日々

1777年、政府はある英国貴族が放出した貴重なコレクションの購入を議会で検討。しかし、高額な購入費用や議会の意見がまとまらないなどの理由でその機会を逸したのを皮切りに、ロンドンに持ち込まれた仏オルレアン公の絵画150点、ポーランドの独立廃止によって流出したポーランド国王のコレクション(トリビア②参照)も次々と見送るなど、計画は遅々として進まない。業を煮やした一部の貴族や美術鑑定家たちは1805年に英国美術促進協会(British Institute)を設立し、この状況に対処しようとした。

会員たちはロンドン中心部にパル・マル・ピクチャー・ギャラリー(Pall Mall Picture Gallery)を作って展覧会に自分たちのコレクションを貸し出し、当時活躍した芸術家の作品の販売展示会と交互に開催。ただしこの協会は、実践的な芸術家ではなく貴族の愛好家のみを会員として認めていたことから、その保守的な傾向のため奨励し支援するはずだった芸術家との軋轢を招いたという。このギャラリーはナショナル・ギャラリーとは別の道を進み、1867年まで存続した。

狭苦しいナショナル・ギャラリーの様子1857年の風刺雑誌「パンチ」に描かれた、絵画の修復や展示場所の清掃で混乱を極める狭苦しいナショナル・ギャラリーの様子

lll. ついにコレクションを購入

1823年、死去したばかりの銀行家で美術後援家だったジョン・ジュリアス・アンガースタイン(John Julius Angerstein)の美術コレクションが市場に出回っていた。コレクションにはラファエロやウィリアム・ホガースの「当世風結婚」(Marriage A la Mode)シリーズなど、38点の貴重な絵画が含まれていた。後にナショナル・ギャラリーの設立メンバーの1人となる美術愛好家の貴族ジョージ・ボーモント(George Beaumont)は、政府がそのコレクションを購入することと、展示のための適切な建物を見つけるという2つの条件を満たすなら、自分の持つ16点の絵画をナショナル・ギャラリーに寄贈すると発表。ちょうどオーストリアからの予期せぬ戦時債務の返済もあり、政府はついに重い腰を上げアンガースタインのコレクションを5万7000ポンド(現在の日本円で約6億3000万円相当)で購入した。

こうしてナショナル・ギャラリーは1824年5月10日、パル・マル100番地にあったアンガースタインの旧邸内に開館した。7月には理事会も設立。その後も数々の紆余曲折と試行錯誤を重ねながら何年にもわたってコレクションを増やし、今あるナショナル・ギャラリーの姿まで到達することなる。

セバスティアーノ・デル・ピオンボの「ラザロの復活」最初にナショナル・ギャラリーの所蔵作品になり、
「NG1」の所蔵番号を持つセバスティアーノ・デル・ピオンボの
「ラザロの復活」(1517~19年)

IV. 代表的なコレクションの数々

「岩窟の聖母」 レオナルド・ダ・ヴィンチThe Virgin of the Rocks / Leonardo da Vinci

「岩窟の聖母」レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci, The Virgin with the Infant Saint John the Baptist adoring the Christ Child accompanied by an Angel ('The Virgin of the Rocks'), about 1491/2-9 and 1506-8
Oil on poplar, thinned and cradled, 189.5 x 120 cm, © The National Gallery, London

盛期ルネサンスを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチによる作品。ダ・ヴィンチは異なる2種類のバージョンを描いており、もう1枚はパリのルーヴル美術館が所蔵している。伊ミラノの聖フランチェスコ・グランデ教会内礼拝堂の祭壇画として1483~86年ごろに制作された。以前はダ・ヴィンチの弟子が描いた箇所がある程度存在すると考えられていたが、ナショナル・ギャラリーが実施した修復作業の過程で、ほとんどの箇所がダ・ヴィンチの手によるものであることが分かった。1880年にナショナル・ギャラリーが購入した。

「アルノルフィーニ夫妻像」ヤン・ファン・エイク Arnolfini Portrait / Jan van Eyck

「アルノルフィーニ夫妻像」ヤン・ファン・エイクJan van Eyck, Portrait of Giovanni(?)
Arnolfini and his Wife (The Arnolfini Portrait) 1434,
Oil on oak, 82.2 x 60 cm, © The National Gallery, London

15世紀フランドルの代表的な画家、ヤン・ファン・エイクが1434年に制作した細密画。裕福なイタリアの商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ夫妻を描いたとされるが、背景の壁面中央には「ヤン・ファン・エイクここにあり」と銘があり、さらにその下の丸い凸面鏡にはファン・エイクの自画像と思われる人物が小さく映りこんでいる。新設されて間もないナショナル・ギャラリーが1842年に600ポンド(現在の日本円で約690万円)で購入したといわれる。現在も当時の額縁のまま展示されている。

「大使たち」ハンス・ホルバイン(子) The Ambassadors / Hans Holbein the Younger

「大使たち」ハンス・ホルバイン(子)Hans Holbein the Younger,
Jean de Dinteville and Georges de Selve ('The Ambassadors') 1533,
Oil on oak, 207 x 209.5 cm, © The National Gallery, London

1533年、ドイツ出身のホルバインがヘンリー8世の命を受けて制作。ジャン・ド・ダントヴィルとジョルジュ・ド・セルヴという2人のフランス大使の肖像画で、緻密に描き込まれた天文学や数学、音楽の道具は2人の学識の広さを示す。また、壊れた楽器や地球儀は、宗教界の不和や現世のむなしさを象徴するともいわれる。この年ヘンリー8世はアン・ブーリンと再婚し教皇との関係が悪化。大使たちは宗教改革を穏便に済ませるようヘンリー8世の説得に訪れていた。しかし翌34年、国王はイングランド国教会の首長となり、カトリック教会から分離した。

「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号、1838年」J・M・W・ターナー The Fighting Temeraire, tugged to her last berth to be broken up, 1838 J.M.W.Turner

戦艦テメレール号Joseph Mallord William Turner,
The Fighting Temeraire tugged to her last berth to be broken up,
1838 1839, Oil on canvas, 90.7 x 121.6 cm, © The National Gallery, London

1805年のトラファルガーの戦いで活躍した帆船の一つ「テメレール」号が、引退後にヴィクトリア女王の即位を祝う祝砲を打ち、解体のために黒い蒸気船にテムズ川を曳航されている様子を描いた作品。移ろいゆく時代や新しい産業の始まり、ひいては老いていく自身などを象徴し、J・M・W・ターナーがどんなに大金を積まれても手放さなかったお気に入りの1作でもある。ターナーは自分の作品を国に遺贈することを決めており、死後の1856年に本作をはじめとした多くの作品がナショナル・ギャラリーに収蔵。97年にテート・ブリテンが設立されたときにほとんどのターナー作品が移動するも、この作品はナショナル・ギャラリーに残された。2020年から新20ポンド札が発行されているが、ターナーの肖像画と共に本作品も描かれている。

V. 館内について

現在トラファルガー広場に面した入り口は、正面階段を上がるポーティコ・エントランス(Portico Entrance)と、右側にあるバリアフリーのゲッティ・エントランス(Getty Entrance)の2カ所。ポーティコ・エントランスは46室を数えるメイン・ギャラリーに直結しており、ゲッティ・エントランスを入ると、カフェやレストラン、ギフト・ショップがあり、左奥へ進むとセインズベリー・ウィングに展示していた初期ルネサンスの作品の数々を観ることができる。セインズベリー・ウィングはスーパーマーケット・チェーンを持つ富豪兄弟からの寄付で1985年に増設された部分だが、現在はナショナル・ギャラリーの設立200周年に合わせた大規模な改装の真っ最中だ。完成のあかつきには、毎年600万人といわれる訪問者を受け入れる広々としたエントランスや、学習センターがお目見えするという。

VI. これからのナショナル・ギャラリー

2023年に行われたシンポジウムで、ナショナル・ギャラリーの館長ガブリエレ・フィナルディ氏(Gabriele Finaldi)は、「ナショナル・ギャラリーは『ナショナル』と名前に付くものの、『国家』ではなく、そこにいる『人々』を意味する。人々に開かれた美術館なのだから、国民一人ひとりが美術館に対して所有意識を持ってほしい」と語った。

同館では約4400万ポンド(約80億円)の年間予算のうち政府負担は60パーセントほど。あとは企画展などの入場料収入や協賛金収入で賄われている。パンデミック前は入場者の70パーセントが観光客で、いまだに入場者数は完全に戻っていないという。そこで、むしろ地元の観客に無料のコレクション展示に複数回通ってもらうことで、未来の観客育成につなげる、という方向にかじをきった。200年前に開館した当時の「芸術をもっと身近に国民に浸透させ、将来の英国芸術の発展につなげたい」という原点に回帰したともいえる。今回、「National Treasures」の名で同館のコレクションを巡回展示させる(トリビア⑥参照)のも、学習センターの創設も、国全体へ向けたサービスを意識したものだろう。これからの変化に期待したい。

National Galleryにまつわるトリビア

1. 現在の建物は3カ所目

1824年にパル・マル100番地で開館したナショナル・ギャラリーには多くの入場者が足を運んだ。しかし国を代表する美術館としては規模が小さすぎるという声があった上、地盤沈下が原因で10年後の34年に105番地に移転した。しかしこの場所も道路施設の施工のため立ち退きが前提であり、32年には現在の場所であるトラファルガー広場に建設が始まった。元王室の厩舎跡地だったが、ロンドン東部から徒歩でやってくる貧しい人々、ロンドン西部から馬車でくる裕福な人々、その双方に便利な場所はと配慮して選ばれたという。政府には、誰もが優れた芸術に接することができるようにという考えがもともとの根底にあった。

2. ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー

スイス系の英国人画家で画商でもあったフランシス・ブルジョワ(Francis Bourgeois)は、行き場のなくなったポーランド国王のコレクション購入を英国政府に打診して断られた。膨大な絵画コレクションが手元に残ったブルジョワは、後にロンドン南部にある母校ダリッジ・カレッジにコレクションを遺贈。また、近くに絵画を収容するための恒久的な建物を建設する費用も遺した。やがて著名建築家ジョン・ソーン(John Soane)によって完成したのがダリッジ・ピクチャー・ギャラリー(Dulwich Picture Gallery)だ。同ギャラリーは英国で最初の公立美術館として、ナショナル・ギャラリーよりも早い1814年に開館した。

3. サフラジェットの被害に

19世紀後半に盛り上がった女性参政権運動では、長い間自分たちを抑圧してきた制度に怒りの矛先を向けた人々もいた。抗議活動に暴力が加わり、多くの放火や破壊行為が発生。ナショナル・ギャラリーでも1914年にヴェラスケスの「鏡のヴィーナス」(Venus at her Mirror)が、肉切り包丁を持ちこんだサフラジェット、メアリー・リチャードソンに切りつけられ被害を受けた。この作品は時を経て2023年にも、環境運動団体「ストップ・ザ・オイル」に保護ガラスを割られている。

鏡のヴィーナスNG2057, Diego Velázquez
The Toilet of Venus ('The Rokeby Venus') 1647-51,
(c) National Gallery, London

4. 第二次世界大戦中の避難

第二次世界大戦中にドイツ軍からの激しい空襲を受けたロンドン。ナショナル・ギャラリーの所蔵品をどう守るかで政府は頭を悩ませた。安全な同盟国カナダに運んではという案が出たが、当時の首相ウィンストン・チャーチルは貴重な作品を海外に出すことを拒み、ウェールズへ運べと指示。かくして所蔵品は1941~45年の間ウェールズの鉱山に保管されることになった。しかし毎月1枚だけロンドンに作品を持ち込んで展示する「今月の1枚」という試みで、戦中の市民たちを鼓舞したという。

5. 主な所蔵アーティスト

13~15世紀
ドウッチオ、ウッチェロ、ファン・エイク、リッピ、マンテーニャ、ボッティチェリ、デューラー、メムリンク、ベリーニ

16世紀
ダ・ヴィンチ、クラナッハ、ミケランジェロ、ラファエロ、ホルバイン、ブリューゲル、ブロンズィーノ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ

17世紀
カラヴァッジオ、ルーベンス、プッサン、ファン・ダイク、ヴェラスケス、クロード、レンブラント、カイプ、フェルメール

18~20世紀
カナレット、ゴヤ、ターナー、コンスタブル、アングル、ドガ、セザンヌ、モネ、ファン・ゴッホ

6. NG200とは

設立200年を記念したプロジェクト。5月10日当日にはイベント「Big Birthday Weekend」が開催され(予約チケットはすでに満席)、ライブ・ミュージックやDJを楽しみながら作品鑑賞ができる。また、特別巡回エキシビション「National Treasure」も開催。これは同館所蔵の人気作品12点を英国各地の美術館に貸し出し、国内の人々が等しく名画を楽しめるようにするもの。コンスタブル、モネ、ターナーなどの絵画がそれぞれブリストル、ニューカッスル、ヨークなどを巡回。「ナショナル」の名に恥じないイベントになりそうだ。

 

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