ロンドン五輪開幕まであと約1週間。あっという間にやってきて、そして過ぎ去っていくであろう今年の夏を迎える前に、ここで時計の針を一旦戻してみよう。既にご存知の方が多いと思うが、ロンドンでは過去に2度にわたり五輪が開催されており、いずれも「困ったときのロンドン頼み」で主催地となった経緯がある。果たしてどんな大会だったのか、1908年と48年の様子を振り返ってみよう。
(執筆: 小林恭子)
1度目のロンドン五輪
1908年大会
1906年にイタリアのベスビオ山が噴火し、開催予定地となっていたイタリアが五輪招聘を断念。そこでこの機会を引き取ったのがロンドンであった。本大会では当時、国力を増大させていた米国が英国をライバル視し、やがてその関係は険悪なものに。この事態を収めるために、米選手団に随行中の司教が「重要なのは勝利することよりも参加すること」と説教し、近代五輪の創始者クーベルタン卿がこれを五輪精神として広めていった。またマラソンの走行距離が42.195 キロに設定された大会でもある。メダルを最も多く獲得したのは146個の英国で、2位は47個の米国だった。大会のハイライト
マラソン 「ドランドの悲劇」で英米関係は悪化
マラソン競技のコース最終地点となった競技場に最初に到達したイタリア人選手ド ランド・ピエトリ。暑さと疲労で数回にわたって倒れ、係員に抱えられながらゴールしたピエトリ選手が勝者とされたが、米国はこれに抗議する。結局、ピエトリ選手の勝利は取り消され、米国のジョニー・ヘイズ選手が金メダルを獲得した。しかし、観衆はヘイズを勝者とは認めなかったという。閉会式にピエトリが登場すると観衆は大きな歓声を上げ、アレクサンドラ英王妃は彼に特製の記念杯を授与。この一件により、米国関係者の反英感情はますます高まった。
大会係員たちに抱えられながらゴールする
ドランド・ピエトリ選手の様子を描いたイラスト
金メダルを獲得するも、英国民たちには勝者として
受け入れてもらえなかったジョニー・ヘイズ選手
綱引き 靴が勝負の分かれ目に
米国はこの競技へのなじみが薄かったため、同代表は普通の靴を履いて参加。一方、対戦相手となった、イングランド北部リバプールの警察官たちで構成された英代表チームの一つは、警察官が履く、ごつく重い靴を使用した。1回戦の結果は、英代表の圧倒的勝利である。米側は英側の靴が不当だと抗議したが、英側は警察官が日常的に履く靴だと説明。英側は靴なしで2回戦に臨むことを申し出たが、米側は、英側がまた別の不当な手段を使うと考え、この申し出を拒否して競技場から立 ち去ってしまった。この綱引き競技は各国から複数のチームが出場を許され、金メダルをロンドン・シティ警察が、銀をリバプール市警察が、銅をロンドン警視庁のチームが獲得し、英代表の独壇場となった。
400メートル コース取りでも米英はやっぱり仲違い
上位4位までを、スコットランド出身のウィンダム・ハルズウェルと米国の3選手 が争うことに。とりわけ接戦を繰り広げたのがハルズウェルとジョン・カーペンター 選手。当時、トラックには個々の走路を区別する線が引かれていない状態だった ため、カーペンターは、追いつこうとするハルズウェルの走路に入り、抜かれな いようにした。この行為に対して、走者妨害であるとして抗議の声を上げる観衆。 全員が英国人で構成された審査スタッフは競技を無効とし、カーペンターを反則、 失格とした。米代表の統括者はこれに激怒し、2日後に実施することになった再レー スに米代表を出場させないことを決定。結局、再レースはハルズウェルが一人ぼっ ちで走ることに。
400メートルでゴールするウィンダム・ハルズウェル選手
水泳 北国育ちの英国人が世界記録を樹立
この大会の水泳競技では、5つの世界記録が出た。そのうちの3つを打ち立てたのは、イングランド北西部ランカシャー州の炭鉱労働者の息子ヘンリー・テイラーであった。地元の川で泳ぐことでトレーニングを積んだというテイラーは、クロール泳法の原型となった泳法「トラジオン・ストローク」を駆使して金メダルを獲得。またダイビングが五輪競技に初めて加わり、高所から水中にダイブする女性選手の姿は多くの観衆の耳目を集めた。ちなみに、このとき使用されたダイビング競技用のプールは、過去にルアー釣りのコンテストの会場に使われたものだった。
アーチェリー 英国から女性最高齢の金メダリスト
アーチェリー競技に女性が初参加したのは、1904年の米セント・ルイス大会から。その4年後のロンドン大会では、38人の女性選手が競い合った。女子金メダルは53歳の英国人女性シビル・ニーウォールが獲得。彼女はこれまでの五輪において、女性としては最高齢の金メダリストである。女子銀メダルは同じく英国選手のシャーロット・ドッド。ドッドは類稀なる運動神経を持ち、ウィンブルドン・テニスの女子シングルスで5回優勝した上に、ゴルフ、ホッケー、スケートでも優れた才能を見せた。兄のウィリアム・ドッドもアーチェリーの五輪選手で、金メダルを 44歳で獲得し、兄弟姉妹が五輪の同大会でメダルを受賞する最初の例となった。ちなみに本大会の最高齢の参加選手は、ライフル射撃で金メダルを得た60歳のスウェーデン人オスカー・スワーン。
アーチェリー競技を始めとする各種競技で
多彩な才能をいかんなく発揮した
シャーロット・ドッド選手
シビル・ニーウォール選手
2度目のロンドン五輪
1948年大会
第二次大戦後に開始された初の五輪大会。大戦前後に高まった国際関係の緊張に配慮したため、1940年(東京で開催予定)、1944年(ロンドンで開催予定)の両大会は実現しなかった。「緊縮財政の五輪」と呼ばれたが、これは大戦を経て開催国の財務状態が悪化した状態で開催されたから。競技場や関連施設は既に建築されていたものを再利用することになり、改装作業も最低限に留められ、選手村も設置されなかった。外国の選手は軍用基地や大学の寮などに宿泊するよう求められたという。メダルを最も多く獲得したのは84個の米国で、英国は23個で12位だった。大会のハイライト
1万メートル 人間機関車ザトペックが席巻
「人間機関車」との異名を持つ、チェコスロバキア代表の26歳の陸軍将校、エミール・ザトペック。彼は軍用ブーツで、400メートルを速く走り、100メートルをゆっくり走るという行程を繰り返すトレーニングを続けたという。妻を背負いながらの走行も練習したという説もある。五輪本番では後半の4000メートルでほかの選手をすべて抜き、世界新記録を12秒更新するタイムでゴール。その数日後には5000メートルで銀メダルを獲得した。「戦争の暗い日々の後で、五輪の再開はまるで太陽がまた姿を見せたようだ」とザトペックは語ったと伝えられている。
陸上 「空飛ぶ主婦」をダンスでお祝い
女性選手の比率が全体の10% に過ぎなかった本大会のスターとなったの が、オランダ代表のフランシナ・ブランカース=クン選手であった。女子200メートル、女子100メートル、女子80メートル・ハードル、女子4× 100メートルリレーにて金メダルを獲得。この偉業を祝うため、在英のオラ ンダ人学生たちはダンスを披露したという。女性選手が参加できる競技数 は最多で4つまでと定められるなど、まだ女性に対する偏見が強かった当時 に、妻や母としての顔も持ちながら競技生活を続けるブランカース=クンには「空飛ぶ主婦」というニックネームが付けられた。
「人間機関車」の異名で知られた
エミール・ザトペック選手
オランダのロッテルダムに立つ
フランシナ・ブランカース=クン選手の銅像
体操 大活躍のフィンランド選手たち
個人としては最多のメダルを受賞したのがフィンランドの体操選手ベイッコ・フーテネン。3つの金メダルに加え、銀と銅を一つずつ獲得した。フィンランド選手団は本大会で圧倒的な強さを見せており、あん馬種目ではトップの 3人全員がフィンランド人。得点が同点になったため、フーテネンはほかの 同国人選手2人と金メダルを分け合った。
マラソン 疲労困憊のベルギー選手に大歓声
マラソン競技で観衆の心を大きくつかんだのが、ベルギー人選手のエティエンヌ・ガイイであった。第二次大戦の落下傘兵であったガイイにとって、ロンドン五輪は初マラソンの機会となった。当初からスピードを上げ、2番手を大きく引き離したガイイは、ウェンブリー・スタジアムにトップで入ってきた。相当の疲労感を見せながら走るガイイに観衆は歓声を送ったが、アルゼンチン選手に追い越され、さらには倒れてしまったところで、英国代表トム・リチャーズにも抜かれてしまう。しかし、極度の疲労とともに3番手で ゴールインしたガイイを観客はスタンディング・オベーションで迎えたという。スタジアムからそのまま病院に運ばれたガイイは、表彰式に出席するこ とさえできなかった。
ウェンブリー・スタジアムのトラック内で力走するエティエンヌ・ガイイ選手
サッカー 開催国の英国はメダルなしに
前大会となるベルリン五輪(1936年)からロンドン五輪開催までの12年間で、英国におけるサッカーはプロ化されたスポーツとして大きく成長してい た。そのサッカーは、1908年のロンドン大会で正式な競技となったが、当時の五輪はアマチュア選手だけに参加資格を認めていた。五輪憲章からアマ チュア規定が削除されたのは1970年代で、国際オリンピック委員会がプロ参加を容認したのは1980年代である。本大会の優勝国は、決戦でユーゴスラビアのチームに3対1で勝ったスウェーデン。そして5対3で英国チームを破って銅メダルを獲得したのは、英クラブの一つ、マンチェスター・ユナイテッドを指導していたマット・バズビーが指導したデンマーク代表だった。サッカーの母国であり、開催国でもあった英国代表は、メダルに手が届かなかった。
サッカーの決勝で、PKを決めるスウェーデン代表