刊行100周年「クマのプーさん」を生んだ英国
1926年10月14日に刊行された「クマのプーさん」が、今年で100周年を迎える。また、物語を生んだA・A・ミルン没後70年、愛らしい挿絵を描いたE・H・シェパードの没後50年にも当たる。ヴィクトリア朝の英国で子ども時代を過ごし、第1次世界大戦を経験した2人はどのような時代を生き、どのようにして「クマのプーさん」を生み出したのか。その歩みをたどる。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)
参考: 参考: 「クマのプーさん」誕生物語 A・A・ミルンとE・H・シェパードの生涯とその世界/ジェームズ・キャンベル著ほか
1ヴィクトリア朝の子ども時代
アラン・アレクサンダー・ミルンは1882年1月18日、ロンドン北部キルバーンに生まれた。父ジョン・ヴァイン・ミルンはヘンリー・ハウス・スクールという私立校の校長で、ミルンはこの学校で学んだ。当時はまだ公立の中等教育制度が整備されておらず、一般の子どもたちは初等教育を終えると、早くから働き始めることが多く、その先の教育を受ける機会は限られていた。一方で、上流階級の男子は学費も高く格式のあるパブリック・スクールなどに進むことが主流だった。だが19世紀末になると、一般的な中産階級の子どもたちに高い教育を受けさせるための小規模な学校が増えており、ミルンの父が校長を務めたのは、そうした新しいタイプの学校だった。教師の1人には、後にSF作家となる若き日のH・G・ウェルズがおり、幼いミルンはウェルズから理科を教わった。
内省的で静けさを好んだといわれるA・A・ミルン
挿絵を手掛けたアーネスト・ハワード・シェパードはミルンより3歳年上で、1879年12月10日、ロンドン北部のセント・ジョンズ・ウッドに生まれ、リージェンツ・パークの西側や、ブルームズベリーのゴードン・スクエアにある邸宅で育った。父ヘンリー・ダンキン・シェパードは不動産開発で成功した建築家、母ジェシー・ハリエットは水彩画家ウィリアム・リーの娘だった。また、母の祖父ヘンリー・メイヒューは風刺漫画雑誌「パンチ」の創刊者の一人でもあり、家には寄稿者など多くのゲストが訪れた。アーネストは読書や絵画、音楽といった文化的、かつ当時としてはずいぶん自由な空気の中で幼少期を過ごした。
ミルンとは対照的に、朗らかで人当たりのよかったE・H・シェパード(写真左はじ)
2読み書きと出版文化
1880年には5~10歳の子どもの就学が義務化された。その後、義務教育の対象年齢は段階的に引き上げられ、子どもたちが学校で読み書きを学ぶ環境が少しずつ整っていった。印刷技術の発達や出版物の低価格化も進み、19世紀後半の英国では、新聞や雑誌、小説など、さまざまな読み物が人々の暮らしに入り込んでいった。子ども向けの出版物もその一つだった。
それまでの児童書には、子どもに道徳や知識を教えることを目的としたものが多かったが、19世紀半ば以降は、子どもが物語そのものを楽しむ作品が増えていく。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」(1865年)、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「宝島」(1883年)、ラドヤード・キプリングの「ジャングル・ブック」(1894年)など、ナンセンス、冒険、動物や異国を題材にした作品が次々と登場した。20世紀に入ると、ビアトリクス・ポターの「ピーターラビットのおはなし」(1902年)やケネス・グレアムの「たのしい川べ」(1908年)など、現在も読み継がれる名作が次々と生まれている。
ミルンとシェパードも、こうした出版文化の中でそれぞれの道を歩んだ。ミルンは名門ウェストミンスター・スクール、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、1906年から風刺雑誌「パンチ」に随筆やユーモア詩などの寄稿を始める。一方、シェパードは叔父が校長を務めるセント・ポールズ・スクールで絵の才能を認められ、へザリー美術学校を経てロイヤル・アカデミー・スクールへ進み、やがて挿絵画家として活動を始める。07年に「パンチ」に挿絵が採用されたことから、文章を書くミルンと絵を描くシェパードは、やがて同じ雑誌を舞台に交わることになる。
3第1次世界大戦とその後
1914年に第1次世界大戦が始まると、2人の人生は大きく揺さぶられる。当時のミルンは、結婚してまだ1年ほど。「パンチ」の副編集長で文筆家としての地位を築き、ロンドンで比較的恵まれた生活を送っていた。もともと平和主義者だったミルンは戦争には反対していた。しかしこれは「戦争を終わらせるための戦争」なのだと考え、英国のために戦うことを選んだ。
戦場での経験は、ミルンの人生観を大きく変えることになる。ソンムの戦いにも参加し、1916年には「塹壕熱」により英国へ戻された。戦後も戦争の記憶は消えず、後にミルンは自身の戦争体験を振り返り、戦争を「精神的、道徳的な堕落」とまで表現している。
シェパードもまた、戦争が始まると陸軍に志願した。すでに画家として仕事を得ていたが、1915年から18年まで前線に赴き、砲兵将校としてフランスやイタリアで戦った。それでもシェパードは戦地で絵を描くことをやめず、戦場や兵士たちの姿を数多くスケッチしている。
こうして戦争は、それまでの2人の平和な生活を大きく変えた。戦争の恐怖を経験したミルンが後に描くことになるのは、戦争とは無縁の穏やかな童話の世界だった。そこには、失われた幼年時代への郷愁や、戦争を経験した大人に向けた平和への願いを読み取ることもできる。戦後、「パンチ」の仕事に戻ったシェパードは、1920年代にミルンの子ども向け作品の挿絵を手掛けることになる。ミルンの詩集「クリストファー・ロビンのうた」では、同僚だったE・V・ルーカスの推薦を受けてシェパードが挿絵を担当。ここから2人の協働が始まり、1926年の「クマのプーさん」へとつながっていく。
風刺漫画雑誌パンチとは
1841年に創刊された「パンチ」(Punch)は、政治や社会を題材にした風刺記事や漫画を掲した英国の週刊誌。正式名称は「Punch, or The London Charivari」で、フランスの風刺雑誌「ル・シャリヴァリ」に倣ったものだった。文章だけでなく、社会や政治を風刺する挿絵を多く掲載し、19世紀の英国を代表するユーモア誌へと成長した。現在の意味で使われる「カートゥーン」という言葉の定着にも大きな役割を果たしたとされる。
創刊者の1人であるジャーナリストのヘンリー・メイヒューは、実はシェパードの母方の祖父でもあった。ミルンは1906年から「パンチ」に文章を寄稿し、シェパードも1907年に最初の挿絵が採用されている。2人は後に「パンチ」で仕事をする同僚となり、「クマのプーさん」へとつながる協働の土台がここで築かれた。
「パンチ」は1992年まで150年以上にわたり発行された
4クリストファー・ロビンと2人の仕事
第1次世界大戦後、再び文筆家として活動を始めたミルンは、戯曲や小説だけでなく、子どものための詩を書くようになる。そのきっかけの一つとなったのが、1920年8月21日に生まれた一人息子、クリストファー・ミルンだった。 24年に刊行された詩集「クリストファー・ロビンのうた」には、後に「プー」となるクリストファー・ロビンのテディ・ベアが、すでに「テディ・ベア」という詩に登場している。さらに「かいだんをはんぶんおりたところ」や「おやすみとおいのり」の挿絵にも、このクマが描かれた。挿絵を手掛けたのは、ミルンと「パンチ」で仕事をしていたシェパードである。

「プー」という名前自体も、実はこの詩集にすでに登場している。クリストファー・ロビンがロンドンの公園で白鳥にえさをやる際、「プー」と呼びかけたことから、その白鳥に「プー」という名前を付いたのだという。詩集の「かがみ」にはこの白鳥が登場し、序文には名前が生まれた経緯も記されている。その後、白鳥はこの名前をテディ・ベアに譲ることになる。やがて、このクマには「ウィニー」というもう一つ別の名前が加わった。これは、ロンドン動物園で当時人気を集めていた雌のアメリカクロクマ、ウィニーに由来する。こうして、クリストファー・ロビンのテディ・ベアは、最終的に「ウィニー・ザ・プー」と呼ばれるようになった。
「クリストファー・ロビンのうた」は英国で大反響を呼び、初版は発行日当日に売り切れ、1924年末までに4万部以上を売り上げたという。米国でも同様の人気で、子どものために書かれた詩集でありながら、自分が読みたくて購入する大人が多いことも明らかになった。25年のクリスマスには、プーが登場する物語の一編が新聞に掲載され、翌年には1冊の本としてまとめられることになる。
5森と絵が生まれるまで
1925年、ミルン一家はロンドンを離れ、英南部イースト・サセックスのコッチフォード・ファームに移り住んだ。家の近くには広大なアッシュダウン・フォレストが広がっていた。ミルンとクリストファー・ロビンはこの森を歩くことを好み、その風景や2人で過ごした時間が、物語の舞台となる「100エーカーの森」のイメージにつながっていく。26年の夏、シェパード一家がミルン一家を訪ね、ミルンはシェパードにアッシュダウン・フォレストを案内した。
シェパードは森を歩きながらスケッチをするだけでなく、写真も参考にしながら挿絵を描いた。クリストファー・ロビンの姿についても、本人をそのまま描いたわけではない。細かった脚はシェパードの息子グレアムの脚を参考にし、長かった髪もグレアムくらいの短さに整えて描いたという。プーのモデルとなったクマについても、クリストファー・ロビンのテディ・ベアだけがモデルだったわけではない。シェパードは、クリストファー・ロビンのクマが少しむっつりした表情をしていることから、自分の息子グレアムが持っていたテディ・ベア「グローラー」に目を向けた。こうして二つのテディ・ベアを参考にしながら、現在知られているプーの姿が出来あがっていった。
ミルンが生み出した物語に、実際の森の風景や子どもたち、ぬいぐるみをもとにしたシェパードの挿絵が命を吹き込み、「100エーカーの森」の世界が少しずつ形になっていった。
サザビーのオークションに出品された、シェパード直筆の、100エーカーの森の地図
61926年、「クマのプーさん」誕生
こうして1926年、「クマのプーさん」が1冊の本として完成する。10月14日にロンドンで刊行され、米国では21日に発売された。前作「クリストファー・ロビンのうた」の大きな反響を受け、英国で用意された初版は3万5000部。子どものための本としては異例ともいえる部数だった。米国でも人気は急速に広がり、発売から10週間で15万部を売り上げたという。
この本の特徴は、ミルンの文章とシェパードの挿絵が、当時の主流のレイアウトのように別々に収められているのではなく、文章と絵が同じページに配置され、互いを補い合うように作られていることだった。現在では珍しくないスタイルだが、当時としては新しい試みだったという。シェパードの繊細な線で描かれた動物たちや森の風景は、ミルンの文章と一体となって物語の世界を作り上げた。また、2人の仕事には出版の仕組みにも新しい試みがあった。ミルンは、それまで一般的だった一括払いではなく、売り上げに応じて著者と画家に収入が入る印税方式を取り入れることを提案したとされる。印税の配分はミルン80パーセント、シェパード20パーセントとなった。この配分は、後に2人の遺族の間で問題となることになる。
翌27年には詩集「クマのプーさんとぼく」、28年には続編の物語「プー横丁にたった家」も刊行される。ミルンが息子との日々から生み出した物語と、シェパードが現実の森や人物、ぬいぐるみをもとに描いた挿絵。その組み合わせから生まれた4冊は、その後、翻訳や映画、商品へと姿を変えながら、世界中へ広がっていくことになった。
「クマのプーさん」の最初のページ。頭をぶつけながら階段を下りてくるプーさんが描かれている
1926年に米国で刊行された、ミルンとシェパードのサイン入りの1冊
100エーカーの森
「クマのプーさん」に登場する「100エーカーの森」(Hundred Acre Wood)のモデルとなったのが、英南部イースト・サセックスに広がるアッシュダウン・フォレストだ。ミルン一家が暮らしたコッチフォード・ファームからほど近く、ミルンと息子クリストファー・ロビンが一緒に歩いた森の風景が、物語の舞台となった。現在も「100エーカーの森」として知られ、世界各地からファンが訪れる。森には、物語のエピソードを思わせるスポットがいくつも残っている。プーと仲間たちが「プー棒投げ」(Poohsticks)で遊んだ場所として知られるプー棒投げ橋もその一つだ。約6500エーカーに及ぶ広大な森は、物語の舞台であるだけでなく、希少な動植物が生息する貴重な自然環境でもある。2026年の100周年を記念し、アッシュダウン・フォレストでは新たなウォーキング・ルートも設定された。物語の世界をたどりながら、ミルンが息子と歩いた実際の森を散策することができる。
物語通りの姿で佇むプー棒投げ橋
7本から商品へ
1930年、米国の出版・商品化業者スティーヴン・スレシンジャーが、ミルンから米国とカナダにおける商品化などの独占的な権利を取得した。スレシンジャーはプーさんをぬいぐるみや玩具などへ展開し、プーさんは「物語のキャラクター」から、さまざまな商品に姿を変える存在となっていった。ミルンはスレシンジャーの事業からロイヤリティーを受け取る契約を結んでいた。こうしたキャラクターの商品化は今では珍しくないが、当時はまだ新しいビジネスモデルだった。スレシンジャーはプーさんをぬいぐるみだけでなく、レコードやボードゲームなどにも展開し、本のキャラクターをさまざまな形で楽しむライセンス・ビジネスの先駆けとなった。
一方、作品の人気が高まるにつれ、クリストファー・ロビン本人も「クマのプーさん」の世界から切り離せない存在になっていった。ミルンの妻ダフネは、夫の秘書のような役割を担い、クリストファー・ロビンとともに雑誌の取材を受けたり、ミルンの詩に曲をつけたものを歌わせてレコードにしたりした。こうしてクリストファー・ロビン本人も、作品の人気とともに世間に知られるようになっていった。
プーさんグッズの販売は1930年代から始まっていた
8ディズニーのプーさん
A・A・ミルンが1956年に亡くなると、プーさんの権利は遺族や複数の受益者によって管理されることになった。61年、ミルンの未亡人ダフネとミルン側の信託は、映画や海外での商品化などの契約をウォルト・ディズニー・プロダクションズと結んだ。同時期には、スレシンジャー側もディズニーと契約している。ディズニーは66年に初のプーさんのアニメーション作品「プーさんとはちみつ」を公開し、その後も作品を次々と映像化。映画のプーさんは、シェパードの挿絵とは異なる姿で動き始めた。線画だったプーさんたちは色彩豊かなアニメーションとなり、後にはぬいぐるみや衣料品、文房具など、さまざまな商品にも姿を変えていく。原作のプーさんとディズニー版のプーさんは同じキャラクターでありながら、二つの異なるイメージとして世界に広がることになった。
2001年には、ミルン側の受益者が保有していた将来の印税など の権利をディズニーが買い取り、その額は約3億5000万ドル(約 430億円)報じられた。こうして、プーさんをめぐる権利はさらに ディズニーのもとに集約されていった。
クリストファー・ロビン(写真左)と母親のダフネ(同右)
9「クリストファー・ロビン」という人生
世界中に知られるようになった「クリストファー・ロビン」という名前を、実際に背負って生きたのがミルンの一人息子、クリストファー・ロビン・ミルンだった。幼いころには、自分が有名になったことを楽しんだ時期もあったという。しかし9歳で寄宿学校に入ると、父親の本の登場人物として知られていたため、同級生からからかわれ、いじめの対象となった。後年、自伝「The Enchanted Places」(1974年)などで、父親の名声と自分の幼少期との複雑な関係を振り返っている。
成人後のクリストファーは、ケンブリッジ大学を卒業し、1948年に従姉妹のレスリーと結婚。51年には英南西部デヴォンのダートマスに移り、妻とともに書店を開いた。自分が相続した将来の印税の持ち分を売却し、その資金を娘クレアのための信託基金に充てたという。
56年、ミルンの死去から数カ月後に生まれた娘クレアには、脳性まひがあった。クリストファーは娘のために特別な食器や家具を自ら考案したほか、小さなハタネズミを家に連れて帰り、クレアを楽しませたことも伝えられている。96年4月20日、クリストファーは75歳で亡くなった。その後、クレアは祖父ミルンの著作権印税の売却による資金を受け取り、99年、母とともに「クレア・ミルン・トラスト」を設立。2002年から助成を始め、現在もデヴォンとコーンウォールで障害のある人々を支援している。クレアは12年に56歳で亡くなったが、トラストはその後も活動を続けている。
ミルンが残した「プーさん」4冊
1924年
邦題:「クリストファー・ロビンのうた」
原題:When We Were Very Young
詩集。テディ・ベアが初登場
1926年
邦題:「クマのプーさん」
原題:Winnie-the-Pooh
10編からなる最初の物語集
1927年
邦題:「クマのプーさんとぼく」
原題:Now We Are Six
詩集。プーたちも登場
1928年
邦題:「プー横丁にたった家」
原題:The House at Pooh Corner
10編からなる2冊目の物語集



パン柄トートバック販売中
ロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワー
2026年8月19日、バーナム首相はクリスマスまでに路上生活者を路上から救うキャンペーンを開始した
メモリアルのシートが張られたグレンフェル・タワー
かつての悪名高いスラムが落ち着いたエリアに
インパクト大の無機質なフォルム
まるで一つの町のような迫力の520戸
鮮やかな赤は、1954年のオリジナル・カラーを2014年に復元したもの
近隣の住民からは「戦艦」と呼ばれる公営住宅
ノッティング・ヒル・ゲートに近く立地もよい
外観はクリーム色に塗られるはずが、自治体の資金不足で図らずもブルータリズム風になったという逸話も
向かい合わせの長屋のようなスタイル

1086 2014
Corallian Classic Cuvée NV
Sparkling Rosé Twenty Twenty
Blanc de Blancs 2018 マグナム
Brut Reserve NV
2020 Classic Cuvée
Bloomsbury NV
2010 Seyval Blanc Cuvée Koizumi Yakumo






自然に触れ合うことが上流階級の間で流行しはじめた




自動車の普及が、ピクニックをより身近なレジャーへと広げた
洗うだけで簡単に食べられる果物や野菜が便利
多くの人が楽しむ公園だからこそ、周囲への気配りを忘れずに
ピクニックの思い出と一緒に、ゴミも持ち帰りたい





16世紀の大学の様子を描いた銅版画








まだ髪の黒かった18歳のホックニー
紡績工場が立ち並ぶブラッドフォードの街並み
1964年、ロサンゼルスにスタジオを構えたホックニー
丸眼鏡が生涯のトレードマークに
「とても大きな水しぶき」(1967年)
「クラーク夫妻とパーシー」(1970-71年)
「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(1972年)
「ウォーター近郊の大きな木々」(2007年)
「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)
「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)
「Spring Cannot Be Cancelled David Hockney in Normandie」
















観客席は4670席
ローマのバロック様式をイメージしたステージ・デザイン
第1幕のクライマックス、「テ・デウム」のシーンで使われるコスチューム
出番を静かに待つ仮面たち。大聖堂を舞台にした第1幕のフィナーレに登場する
⓮ 暗くなればなるほど盛り上がる会場
米バンドのジ・オフスプリングが登場
⓯ コンパクトな旧市街
⓰ ワインの直売所 ⓱ 食堂「キルヒェンヴィルト・ルスト」(右写真)
白アスパラガス(シュパーゲル)の旬は4~6月中旬
⓲ 屋根の上の住人、コウノトリ
1877年、ロンドンの貝売り。牡蠣やツブ貝などの貝類は、安くて栄養のある庶民の味として人気を集めた
戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々。荒廃した都市では、移動販売や簡易食堂が人々の空腹を満たす貴重な存在だった
ポーランドに残る伝統的なミルク・バー。共産主義時代、安価な大衆食堂は欠かせない食の場だった
英国 

スペイン 
ハンガリー
フランス
ドイツ

オーストリア
オランダ
ベルギー
ポーランド
エイヴォン川から見るウォーリック城
スコットランドのアバディーンシャーにあるクレイギーヴァー城(Craigievar Castle)。ピンク色のメルヘンな外壁はディズニーの作品作りにも影響を与えたといわれている
英北部ヨークにあるクリフォーズ・タワー(Clifford's Tower)は、1068年に木造の天守閣が造られ、13世紀に現在の石造りのものになった
現在のイングランド東部のノリッジ城(Norwich Castle)の天守閣は1094〜1121年に建造。近年の調査で、アングロサクソン人の墓の上にベイリーが造られたことが分かった
ウェールズのケルフィリー城(Caerphilly Castle)は、エドワード1世ではなく同地一体の領主であったノルマン人のギルバート・ド・クレアによって築城された














11ベッドルーム、12バスルームで300万ポンド(約6億4000万円)で売られている城の広告
ロンドン東部ハックニー区長選挙でゾーイ・ガーベット氏が当選し、同氏の両親と喜びを分かち合う、ポランスキー党首(写真中央左)
ポランスキー党首(写真左)、与党労働党のスターマー党首(同中央)、リフォームUKのファラージ党首(同右)。5月7日の地方選で議席が大変動した
ザック・ポランスキー党首

スコットランド緑の党(Scottish Greens)
新しくスコットランド議会議員となったメンバーたち
ウェールズ緑の党(Wales Green Party)
党首のアンソニー・スローター氏
ドイツ
オーストリア
フランス
デンマーク
ノルウェー






