「ブレグジット」に向かう英国でUKIPは生き残れるか
2月23日、イングランド西部ストーク=オン=トレント・セントラル選挙区で下院の補欠選挙がありました。労働党が圧倒的に強い地域ですが、欧州連合(EU)加盟の是非をめぐる国民投票(昨年6月)では69%が離脱(ブレグジット)を選択しています。そこで今回、立候補したのが、英国のEUからの脱退を長年スローガンとしてきた英国独立党(UKIP)の党首ポール・ナットル氏でした。UKIPの命運をかけて選挙戦に臨みましたが、労働党候補者が7853票、ナットル氏が5233票で当選はかなわず。ブレグジットが決まった現在、「UKIPはその使命を果たしてしまった」という見方を裏付ける選挙結果となりました。
選挙戦では次々と不運なニュースがUKIPを襲いました。ナットル氏が選挙区に住んでいないという疑惑に加え、「ヒルズボロの悲劇」(1989年、イングランド中部にあるヒルズボロ・スタジアムで行われていたサッカーの試合で群衆事故が発生し、100人近くのサッカー・ファンが亡くなった事件)で「友人を亡くした」という過去の発言の間違いを指摘され、犠牲者の家族を含め多くの人から批判が集中。実際には「亡くなった人を知っている」ということだったのですが、大きな失点となりました。
UKIPは、EUについての国民の不満、不安感をすくい上げ、国民投票を実現させるまでの機運を作りました。特にカリスマ党首ナイジェル・ファラージ氏の活躍が大きかったようです。しかし、国民投票後にUKIPは混迷に見舞われます。ファラージ氏が「自分の役目は終わった」として辞任後、いったんは新党首となった女性がすぐに辞任。新たな党首選が始まりました。最終的には黒縁メガネが印象的なナットル氏が就任しましたが、以前からあった「何ごともまともに決められない政党」というイメージが広がってしまったのです。
UKIPの発祥は20数年前にさかのぼります。EUの創設を決めたマーストリヒト条約締結に向けての協議がまとまった1991年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授が「反連邦主義同盟」を立ち上げました。条約が発効した93年、UKIPに改名。欧州議会や地方議会では議席を得ますが、国政選挙では議席を獲得しないままに年月が過ぎました。
2006年に党首となったファラージ氏はEUからの脱退に加えて、移民流入の抑制、減税など保守党が出すような政策をアピール。09年に党首を辞任後、翌年復帰したファラージ氏はUKIPの支持層が白人、教育程度が高くない、労働者階級が中心であることを意識し、地方議会の議席獲得により力を入れるようになります。2014年、UKIPは地方議会で163議席を獲得。前回よりも128議席の増加という驚異的な成長を見せました。同年の欧州議会選挙では英国に割り当てられた議席数73の中で最多数を獲得し、保守党を抜いて第1党に。2015年の総選挙では得票率では13%(約390万票)となったものの、1票でも多ければその候補者が勝つ選挙の仕組みのため、獲得議席数は1つのみという結果に終わりました。ファラージ氏も立候補したものの、落選してしまいました。
国民投票以前、「EUからの脱退」「移民流入の減少」は政治的にはタブーで、主要政党でこの点を掲げた政党は皆無。移民に対して否定的なコメントは「人種差別的」と捉える雰囲気のあった英社会で、UKIPは「変人、狂人、隠れ人種差別主義者の政党」と呼ばれたこともありました。今でもこうしたイメージは完全には消えていません。ファラージ氏が選挙戦で各地を回ったときに市民から卵を投げつけられた場面をテレビや新聞で見た人も多いのではないでしょうか。今回のストーク=オン=トレント・セントラル選挙でも、当選した労働党議員は「憎悪と偏見はこの地にふさわしくない」と述べています。
ナットル氏は2020年の総選挙に出馬する意思があるようです。労働党の支持者層をどれほど動かせるのか、どうやって国会議員を出せるほどのまともな政党として認識してもらえるのか、長い戦いが始まっています。