英国流「イラク戦争」の終焉か
「チルコット委員会」とは
2009年7月に設置された「チルコット委員会」の公聴会に、今年に入ってからブレア前首相及びブラウン首相等が証人として出席し、イラク侵攻の正当性等について証言した。イラク戦争の総括的検証を目的とした同委員会をもって、英国はイラク戦争に終止符を打てるのだろうか。各メディアの報道が総選挙一色に染まる中、今年夏にも調査報告が発表されると伝えられている、同委員会の動きに注目する。
「チルコット委員会」における5つの主要論点
- 1. 英・米両政府の関係に関する論点
- 2. 英国のイラク侵攻に関する論点
- 3. イラク侵攻における情報取り扱いに関する論点
- 4. 英軍に関する論点
- 5. イラク国家再建に関する論点
公聴会の席上でイラク参戦の正当性を主張するブレア氏 Picture by: PA/PA Wire/Press Association Images
02年の時点で、ブレア前首相はブッシュ前米大統領との間で、イラク侵攻における英軍の役割及び参戦等に関する確約を交わしていたか否か等
ブレア前首相は、イラク侵攻は国際法に反する行為である旨の忠告を受けていたか否か。また、既に決議された国連決議だけでは正当性は不十分とし、イラク侵攻へ反対姿勢を取っていた前法務長官のゴールドスミス上院議員が、侵攻直前に「合法」との決断を下した判断能力及びその背景等
「45分の脅威(本文参照)」等における情報局秘密情報部(通称「MI6」)の情報の取り扱い方法、及び情報の信憑性に関する調査能力等
政府は、イラク開戦前の英軍派遣準備を遅らせる等、英軍の行動に何らかの支障をきたす事態を生じさせたか否か。また、派遣準備を故意に遅らせることにより、不必要で予算がかさむ緊急作戦に頼らざるを得なかったか否か等
イラク侵攻後のイラク国家再建に伴う、英国が負担することとなる長期的な多額の資金やその見通し等の十分な検討を行ったか否か等
イラクにおける英軍配置地図
イラク年表
1920年 | 英国の委任統治領に |
1932年 | 英国より独立 |
1958年 | 軍クーデターにより王政廃止 |
1968年 | アラブ社会主義「バース党」によるクーデターで、バース政権発足 |
1979年 | サダム・フセイン政権発足 |
1980年 | イラク・イラン戦争勃発 |
1990年 | イラクがクウェートに侵攻 |
1991年 | 湾岸戦争勃発(米軍率いる英軍等多国籍軍による「イラク侵略」) |
2003年 | イラク戦争勃発(別称「第二次湾岸戦争」、米・英軍率いる多国籍軍による「イラク侵略」) |
2009年 | 英軍、及び米軍戦闘部隊の撤退始まる |
2010年 | イラク国民議会選挙実施により新政権発足予定 |
2011年 | 米軍全面撤退予定 |
イラク駐留英軍撤退とその評価
2009年4月、英軍戦闘部隊がイラク南部バスラから撤退したことを契機に、英政府は、事実上、イラク戦争に終止符を打つ予定だった。03年3月のイラク侵攻以降、英国は179人の兵力を失ったが、ブラウン首相は、今般の英軍撤退はイラクにおける治安の安定を象徴するものであるとし、「イラクはサクセス・ストーリーの一つとなった」と賞賛した。
一方で、イラク侵攻の合法性や占領政策に疑問を持つ声が、この頃より英国内で再び目立ち始めるようになる。かかる世論や野党の突き上げにより、ブラウン政権は、09年7月の英軍全面撤退後、イラク戦争を総括的に検証する目的で、「イラク独立調査委員会(通称「チルコット委員会」)」を設置するに至った。
イラク侵攻と政治スキャンダル
英国のイラク戦争に関する独立調査委員会の設置は、これで4回目となる。03年3月、1回目となる下院外務委員会等による喚問では、イラクの大量破壊兵器保有に関する情報の信憑性や、イラク侵攻の合法性等が検証された。その結果、当初、イラクにおける英政府の情報入手能力は限られており、英政府は米政府からの情報に頼らざるを得なかったとし、また、「結論付けるには時期尚早」としながらも、英国に対するイラクの脅威は確かに存在したと結論付け、政府の主張を大筋認めた。
しかし、03年5月、BBCは「イラクは45分以内に大量破壊兵器の実戦配備が可能である」とした報告書の内容(通称「45分の脅威」、02年9月英政府発表)が、イラクの脅威を誇張したものであったと報じ、先の外務委員会の結論に疑義を呈した。むろん政府側は、BBCの報道を全面否定すると共に、「45分の脅威」の情報源は国防省顧問デビッド・ケリー博士(当時)であると発表。これを受け、同年7月、外務委員会から証人として召喚されたケリー博士が、喚問数日後に遺体で発見される事態となり、政治スキャンダルへと発展した。
イラク戦争の最終章に向けて
04年1月、ケリー博士の死に関する真相究明を目的とした2回目の「ハットン委員会」は、「45分の脅威」の誇張はBBCによる「誤報」であったとし、ケリー博士の死を自殺と見なし、政府の責任及び関与を否定。事態の収拾を図ったものの、一向に見つからない「イラクの大量破壊兵器」に関しては不透明なままだった。
かかる事実関係を検証するために設置された3回目の「バトラー委員会」は、04年7月、旧フセイン政権は配備可能な生物・化学兵器を有していなかったとし、「45分の脅威」の情報には「深刻な欠如があった」と結論付けた。ただし、政府は国民を誤った方向へ導くことを意図としてはいなかったとし、イラク参戦過程におけるブレア政権の政治責任に関しては触れぬまま散会となった。
そして09年、政府は、「チルコット委員会」を設け、イラク戦争を総括的に検証することとなった。ブラウン政権は、同委員会を最後に、国内に物議を醸し続けたイラク戦争に幕を閉じたいと考えているものとみられるが、これがその最終章となり得るかは、依然として未知数である。
Invasion of Iraq / Iraq War
「イラク侵攻(Invasion of Iraq)」は、イラクの大量破壊兵器、及び故サダム・フセインによる世界的な脅威等を理由に、03年3月20日に開始された米・英軍率いる多国籍軍の攻撃から、同年5月1日、ブッシュ前米大統領が行った「戦争終結宣言」までを指す。「イラク戦争(Iraq War)」は、同「宣言」後から現在に至るまでを意味する。イラク侵攻後、イラクはアル・カイダ等のテロ組織の温床となり、また宗派・民族間抗争の激化から内戦が懸念された。近年、イラクの治安は改善傾向にあるとみられるが、依然として大規模なテロ攻撃が発生している。(吉田智賀子)
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