労働党政権の「ナンバー・スリー」
マンデルソン氏が回想録を出版
1997年から13年間続いた労働政権が終わって2カ月余りの今月中旬、早くも同政権の要として活躍していた人物が、回想録を出版した。出版直前には高級紙で抜粋記事が連載された効果もあって世間の注目度は高く、当然のごとくベストセラーとなっているが、さて、その内容はどのようなものなのだろうか。
ピーター・マンデルソン氏回想録
「第三の男 - ニュー・レーバーでの日々
(The Third Man: Life at the Heart of New Labour)」から抜粋
チャールズ皇太子について
「彼(チャールズ皇太子)は国民にどう思われているか? 私は言った。『あなたは、ご自分が考えるより、国民から愛情、同情、尊敬を受けていると思います』。しかし、と私は付け加えた。『一部の国民は、あなたが自己憐憫にひたっていて、むっつりした、精気に欠ける人だと感じています。このことは、あなたが国民に与える印象に悪い影響を及ぼしています』。私は言い過ぎたかと心配になった。カミラ(・パーカー・ボウルズ)は明らかに心配そうな表情で皇太子の方を見ており、一方の皇太子は、驚いた様子だった」
(1997年のダイアナ元妃の死の数週間前、マンデルソン氏がチャールズ皇太子の公邸での昼食に招待された際に関する記述)
トニー・ブレア氏とゴードン・ブラウン氏の
対立について「我々は、ゴードンがトニーを首相職から引きずり下ろしたいと考えているという事実に向き合わなければならなかったのだ」
(2003年、マンデルソン氏を含むブレア首相の側近が、「テディベア作戦」と称し、ブラウン財務相の権力弱体化を狙って財務省分割を画策していたことについて)
「トニーは、『ゴードンは全体を見渡す能力に欠け、被害妄想的だ』と言った。トニーにとっての問題は、こうした性格のため、ゴードンは首相としての適性に欠けるのではないかということだった。トニーはこの点について、確信が持てなかった」
(ブレア政権第2期の2003年に関する記述)
「トニーは私にこう言った。『僕が今までに経験した中で最も醜いミーティングだった。むき出しの、あからさまな脅迫に直面しなければならなかった』」
(2006年3月、ブレア首相が年金制度改革案についてブラウン財務相とミーティングした後、マンデルソン氏に述べた言葉)
ブラウン政権下でのブラウン首相と
アリスター・ダーリング財務相の対立について「予算発表の日が近付いてくるにつれ、アリスターは我慢の限界に達していった。彼はこう言った。『ゴードンが僕のことを信頼していないのは分かっている。もう彼は、自分の思い通りにやるために、エド(・ボールズ児童・学校・家族相)を財務大臣にすればいいんだ』」
(2009年の予算発表前、アリスター・ダーリング財務相がマンデルソン氏に言ったとされる言葉)
イラク戦について
「軍事作戦の準備が進むにつれ、戦争について私と同様の懸念を持つ者は、戦争に100%乗り気ではないとトニーが感じる者たちと、トニーの頭の中で一緒くたにされた。その2つのグループの間の境界線が、トニーの心の中であいまいになっていた」
(2002年に関する記述)
「それは米国の義務だ。米国次第だ」
(イラク戦開戦前の2003年、マンデルソン氏が、ブレア首相に対し、イラクの戦後処理について聞いた時のブレア首相の答え)
2010年総選挙後の連立交渉について
「分かってください。私はあなたに個人的な敵意などはありません。しかし、あなたが威厳を持って首相職を辞任しない限りは、連立政権を妥当なものとし、住民投票で選挙制度改革を可決させることはできないのです」
(2010年総選挙の連立交渉で、ニック・クレッグ自由民主党党首がブラウン首相に言ったとされる言葉)
*文中、「首相」「財務相」などの肩書きは、発言が行われた当時のもの
ピーター・ マンデルソン氏
プロフィール
1953年10月21日、ロンドン生まれ。56歳。父はユダヤ人を対象にした新聞の広告部長だった。ロンドン北部の公立校からオックスフォード大に進学。卒業後、テレビ局のプロデューサーとして勤務。1979〜1982年には、ロンドン南部の区で区議会議員も務めた。1985年、労働党の広報部長に就任。敵対勢力の中傷を意図したメディア戦術や選挙キャンペーン術に長けることから、「スピン・ドクター」と呼ばれたほか、陰険さをイメージさせる「暗闇の王子(Prince of Darkness)」とのあだ名も付けられた。
1992年の総選挙で下院議員に初当選。1997年の総選挙で労働党が政権を獲得すると、無所任相(Minister without Portfolio)として入閣。1998年7月、貿易・産業相に任命されるが、住宅購入のため下院議員から融資を受けていたことを下院に申告していなかったことが発覚し、同年12月に辞任。1999年10月、北アイルランド相として内閣に復帰するが、インド人実業家の英国パスポート取得で便宜を図った疑惑が浮上したことを受け、2001年1月に辞任。2004年11月、欧州委員会通商担当委員に就任し、下院議員を辞任。
2008年10月、ブラウン首相の要請を受け、ビジネス・企業・規制改革相に就任し、英政界に復帰。ブラウン氏とは犬猿の仲として知られていたため、このニュースは驚きをもって伝えられた。同時に上院議員に任命される。なお、マンデルソン氏は、2000年に同性愛者であることを公にしている。
ニュー・レーバーの立役者
労働党政権の重鎮として知られていたピーター・マンデルソン氏が、前政権の内幕を綴った回想録を今月15日に発表した。マンデルソン氏は1980年代以降、後に首相となるトニー・ブレア氏、ゴードン・ブラウン氏と共に労働党の近代化を推進し、「ニュー・レーバー」の立役者の一人であった。労働党が政権を獲得した1997年以降は、ブレア、ブラウン両首相の下、政権の中枢として活躍。「第三の男」という回想録のタイトルには、労働党政権において自分は、主要人物2人(ブレア、ブラウン)に次ぐ重要な位置を占めていたという意味が込められていると思われる。なおマンデルソン氏は、1994年の労働党の党首選でブレア氏を支持して以来、ブレア氏とは非常に近しく、側近の一人であったが、ブラウン氏とは犬猿の仲であった。
「狂っていて、凶悪で、危険」
同書の中で特に大きな関心を集めているのは、ブレア氏とブラウン氏の対立に関する記述である。両氏が首相職を巡って対立していたというのは有名な話であるが、同書によるとブレア氏は、首相時代の2003年、当時財務相だったブラウン氏に、「2005年の総選挙の前に首相職を譲る」と約束したが、これを守らなかった。激怒したブラウン氏は、ブレア氏曰く「マフィアのような、攻撃的で、粗暴な」態度で同氏に怒りをぶつけ、後にブレア氏はマンデルソン氏に、「ゴードンは、狂っていて、凶悪で、危険で、救いようがない」と語ったほどだったという。
同書によるとまた、これと同時期、ブレア氏の追い落としを狙うブラウン氏の勢力を弱めることを狙いとして、財務省を2つの省に分割する「テディベア作戦」と名付けられた計画が、ブレア氏の側近の間で考案されていた。しかし悩んだ末にブレア氏がこの案をブラウン氏に切り出したところ、ブラウン氏はきっぱり拒絶。ブラウン氏の反対を押し切るほど自分の立場は強くないと考えたブレア氏は、ここで諦めてしまったらしい。
更に同書では、ブラウン氏が首相になった後の2009年末、労働党の支持率が低迷し、総選挙敗北の見込みが濃厚となる中、マンデルソン氏が、他の閣僚2人と、次の選挙のスローガンは「Fucked、 Finished、Futile(滅茶苦茶で、終わっており、無益)」にしようと冗談を言い合っていたという事実なども明かされている。
ブレア氏は同書に「激怒」
政権交代からわずか2カ月後にこれほど暴露的な内容の回想録を出したことについては、当然のことながら労働党内から強い批判の声が出ている。現在行われている労働党党首選の候補者からは、「過去の派閥主義を脱して党が未来に向けて進むべき時期に不適切」との声が上がっている。これに対し当のマンデルソン氏は、「同書に盛り込まれた内容は、労働党の党首選で議論されている党の将来に関連する内容である」として、今のタイミングでの出版を弁護している。
報道によると、同書の出版についてブレア氏は「かんかんに怒っている」と言われている。今年9月には同氏自身の回想録も出版されるが、その内容も今から楽しみである。
Memoir
「回想録」を意味する英単語。「Autobiography(自伝)」は、その多くが、出生から現在までの自らの人生を語るスタイルであるのに対し、回想録は、著者が選んだ期間の出来事を追想して書くという形式が多い。回想録の書き手は、政治家など公の立場にいる人から、一般庶民まで様々である。英国の政治家による有名な回想録には、サッチャー元首相による「サッチャー回顧録 ── ダウニング街の日々(The Downing Street Years)」などがある。また現在、ブレア元首相のほか、ブラウン前首相、その夫人のセーラさんも回想録を執筆中であると伝えられている。(猫)
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