「核」を巡る世界の動向
英仏独が挑むイランの核開発問題
核兵器の原料であると共に、国民生活の維持・向上や経済の発展に必要なエネルギー資源の供給源でもある「原子力」。第二次大戦後、この二面性を持つ原子力を様々な形で利用してきた国際社会は、21世紀に入り、「イラン対英仏独米露中」という新たな核開発を巡る世界情勢の中で、打開策を見い出せずにいる。
2006年7月「1696号」 | イラン核開発に関する決議 |
2006年12月「1737号」 | イランに対する制裁を決定(核物質・装置輸出入禁止、資産凍結制裁等) |
2007年3月「1747号」 | イランに対する制裁延長を決定 |
2008年3月「1803号」 | イランに対する制裁延長を決定 |
2008年9月「1835号」 | イランに決議遵守を要請 (ウラン濃縮中止要求等) |
2010年6月「1929号」 | イランに決議遵守を要請(武器禁輸、渡航拒否、 記入制裁、貨物検査の強化等) |
イランの核開発問題年表
2002年 | イランの反体制派組織の暴露により、イランが国内で大規模原子力施設を建設しているとの疑惑が浮上 | |
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2003年 | 2月 | 国際原子力機関(IAEA)の視察により、イラン国内における大規模原子力施設の建設が発覚 |
10月 | 英国、フランス、ドイツ(EU3)がイランの核兵器所有阻止に対する対策実施を宣言。当時「Big 3」と称されたジャック・ストロー英外相、ドミニク・ド=ビルパン仏外相、ヨシュカ・フィッシャー独外相により、EUの対イラン政策方針が決定 | |
2004年 | EU3とイランの間で「パリ合意」締結 | |
2005年 | イランがウラン転換活動の一部を再開。IAEA理事会は、イランがIAEA保障措置協定に「違反(non-compliance)」していると認定 | |
2006年 | 1月 | イランが「平和的原子力エネルギー計画に関する研 究開発」の活動開始を決定 |
4月 | イランが3.5%の濃縮ウラン製造の成功を発表 | |
6月 | EU3、米国、ロシア、中国の6カ国合意としてイランに対する包括的提案を提示 | |
2007年 | 4月 | イラン大統領アフマディネジャドが、イランは核燃料を産業規模で生産可能であると言明 |
5月 | IAEAが、イランは核兵器を3〜8年間で生産可能であると発表 | |
10月 | 米国がイランに対する制裁措置を強化(過去30年で最も厳しい制裁) | |
2008年 | 2月 | イランが新宇宙センターの開設記念としてロケット1基を発射。西洋による宇宙計画の支配に対抗 |
7月 | イランが長距離弾道ミサイル「シャハブ3」を開発。イスラエル等は射程内であると言及 | |
2009年 | 9月 | イランの新たな濃縮施設の建設が発覚 |
10月 | EU3+3(米・露・中)とイラン間で、イラン製低濃縮ウランの再濃縮・加工の国外移送等を協議 | |
11月 | イランに対して新たな濃縮施設の建設中止等を求めるIAEA理事会決議が採択 | |
12月 | アフマディネジャド大統領が約20%ウラン濃縮実施を宣言 | |
2010年 | 1月 | EU3+3がイランに対する追加措置の検討を開始 |
2月 | イランがウラン濃縮実施開始をIAEAに通報 | |
5月 | イラン、トルコ、ブラジル間で「イラン製低濃縮ウランの国外移送」が合意 | |
6月 | 欧州理事会がイランの付随措置を宣言、続いて米議会が対イラン制裁法案を可決 | |
7月 | EUが新たな対イラン制裁の発動を決定(制裁対象に、初めて石油・天然ガス産業を追加) |
核開発を巡る世界動向年表
1938年 | 独が初めて核分裂現象を発見 |
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1945年 | 米国が核実験に成功、広島と長崎に原爆投下 |
1949年 | 旧ソ連が原爆実験に成功 |
1952年 | 英国が原爆実験に成功 |
1953年 | 第8回国連総会が開催、アイゼンハワー米大統領が「Atoms for Peace」演説を行う |
1957年 | 国際原子力機関(IAEA)の設立 |
1960年 | 仏が核実験に成功 |
1963年 | 米国、旧ソ連、英国間で「部分的核実験禁止条約(PTBT)」が発効 |
1964年 | 中国が核実験に成功 |
1968年 | 「核不拡散条約(NPT)」署名解放(1970年に発効) |
1974年 | インドが「平和的利用」として核爆発実験を実施 |
1979年 | 南アフリカとイスラエルによる核爆発実験実施疑惑が浮上 |
1991年 | イラクによる核兵器開発計画の実施が発覚 |
1992年 | 北朝鮮による核兵器開発疑惑が浮上 |
1995年 | NPTの無期限延長が合意 |
1996年 | 核兵器の実験的な爆発を全面的に禁止する「包括的核実験禁止条約(CTBT)」成立 |
1998年 | インドとパキスタンが相次いで核実験を実施 |
2002年 | イラクが核兵器を含む大量破壊兵器所持、また は製造計画を再開しているとの疑惑が浮上 |
2003年 | 北朝鮮がIAEA査察員の退去を要請。黒鉛減速型原子炉等の施設の再稼働を開始 |
2006年 | 北朝鮮が核実験を実施 |
IAEA
2010年4月現在の加盟国は151カ国。09年12月以降、日本の天野之弥氏が事務局長を務める。IAEAの主な権限は、(1)原子力の平和的利用のための研究、開発、実用化における物資・施設等の提供、援助(2)情報交換の促進(3)科学者・専門家の訓練(4)原子力の軍事的利用防止(5)人命及び財産に対する危険を最小にするための安全上の基準を設定、採用する等
「原子力の平和的利用」という概念
核開発問題に対する国際的な取り組みは、既に半世紀以上前から始まっている。とりわけ、1953年、アイゼンハワー米大統領(当時)が国連総会で行った「Atoms for Peace(原子力の平和的利用)」演説を契機に、原子力を国際的に管理するための機関「国際原子力機関(IAEA)」創設に向けての気運が高まった。
そもそも、この「原子力の平和的利用」は、当時米国が直面していた国際政治状況から生まれた概念であるとも言える。1945年、核実験成功を遂げて世界初の核保有国(核兵器国)となった米国は、同年8月、長崎・広島の原爆投下を実施。その後、旧ソ連と英国が次々と原爆実験を成功させる等、それまで核兵器を独占所有していた米国の立場が変化していった。
1957年、米国の提言を基にして「IAEA」が発足し、国際原子力機関による原子力の平和利用の促進と新たな核兵器国の出現防止を目指したものの、1963年にはフランス、そして1968年には中国が各々核実験を成功させる等、核の拡散に歯止めを掛けるには至らなかった。
冷戦時代の核開発とその打開策
冷戦下における米ソ両超大国は、「相互確証破壊(Mutual Assured Destruction、MAD)」に基づく核戦略を展開させる等、核兵器を外交の切り札として利用すると共に、核による全面戦争を回避しようという試みを通じて、その恐怖の均衡を保とうとした。
しかし、1962年のキューバ危機により、米ソ間における核戦争勃発危機が発生。同勃発を回避すべく、翌63年には、米国、旧ソ連、英国間で「部分的核実験禁止条約(PTBT)」が発効されたが、当時、既に核実験を成功させていたものの地下核実験の技術を有していなかったフランスと中国が、同条約への署名を拒否。その打開策として1968年に締結された「核不拡散条約 (NPT) 」では、米・旧ソ・英・仏・中の5カ国を「核兵器国」と定め、それ以外の「非核兵器国」への核兵器の拡散防止を目指すとした。その一方で、1970年代にはインドが核爆発実験を実施している。また1990年代には、イラクや北朝鮮による核兵器開発計画の実施疑惑が浮上する等、第三世界における核の拡散がみられるようになった。
「EU3」とイランの核開発問題
国際社会が新たな核問題に直面したのは2002年、イランによる過去18年間の未申告核活動が発覚した時だった。翌03年、EU主要国の英国、フランス、ドイツからなる通称「EU3」は、イランが核兵器国となることを全面的に阻止する旨を発表。これは、1979年のイラン革命後、対イラン外交が滞っていた米国に代わり、EU3が国際社会を代表してイランとの核問題の交渉責任を担う姿勢をいち早く示したものだった。
当時、EU3は、対イラン対策を通じてEU内部の安定・成長協定等の強化、及び国際社会における主導権確保等の目論見があったとみられる。これまでEU3+3(米・露・中)は、イランに対し「圧力」と「対話」の双方的なアプローチを取ってきたが、イラン側もその都度独自の提案を提示する等、依然として双方の主張は平行線を辿っている。
核拡散防止条約
(Nuclear Non-Proliferation Treaty、NPT)
1968年7月1日、核不拡散、核軍縮、及び原子力の平和的利用等を目的として成立した条約に対する署名を開放。70年3月5日の発効以降、加盟国が増加し、本年5月現在における締約国は190カ国に上る。ただし、「核兵器国*」の米、露、英、仏、中は核の保有が認められており、また、核保有国であるとされるインド、パキスタン、イスラエルの3国はNPT非締約。*1967年1月1日以前に核兵器その他の核爆発装置を製造、且つ爆発させた国を指す。該当国は、IAEAと原子力施設リストの提出等を約束する「ボランタリー・オファー保障措置協定」を締結している。
(吉田智賀子)
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