流血止まぬシリア革命の行方
シリアとイランの連携強化か
シリア軍による反政府デモ隊弾圧で死者1万人以上、避難民2万人(国境待機の1万人含む)を出しているシリア情勢は緊迫の一途をたどっている。逃げ道を失いつつあるアサド政権は、イランやヒズボラとの連携を強化させ、現体制維持とデモ鎮圧に向かって歩み始めているようだ。
シリア年表
仏統治下 | ||
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1918年 | 400年にわたるオスマン帝国支配が終焉 | |
1920年 | 仏の統治下に置かれる | |
1936年 | 仏がシリア独立を承認するも、経済支配と仏軍の駐留は維持 | |
1946年 | 仏軍が撤退 | |
アラブ連合と中東戦争 | ||
1958年 | エジプトとともにアラブ連合共和国を建国 | |
1961年 | シリアがアラブ連合を離脱 | |
1967年 | イスラエルによるパレスチナ統一、シナイ半島とゴラン高原の軍事占領を受け、6日間戦争(第三次中東戦争)勃発 | |
1971年 | ハーフェズ・アル・アサド大統領が選出 | |
1973年 | イスラエルと10月戦争(第四次中東戦争)勃発(1981年にイスラエルがゴラン高原を併合) | |
1976年 | シリア軍がレバノン進駐(レバノン内戦干渉) | |
対ムスリム同胞団 | ||
1980年 | イラン革命(1979年)の影響を受け、アレッポ、ホムス、ハマなどでイスラム教徒による暴動が勃発 | |
1982年 | ハマ虐殺勃発(シリア軍がムスリム同胞団とその支持者を大量虐殺) | |
アサド新政権誕生 | ||
1994年 | アサド元大統領の後継者候補、長男バジル氏が事故死。英国留学中の次男バッシャールが帰国 | |
2000年 | 父ハーフェズ・アル・アサド大統領の死去に伴い、バッシャール・アル・アサド大統領が就任 | |
国際関係問題 | ||
2002年 | 米国がシリアを「悪の枢軸(北朝鮮・イラン・イラク)」に追加表明 | |
2003年 | イスラエル軍が首都ダマスカス近郊のパレスチナ過激派キャンプを爆撃 | |
2005年 | レバノンのハリリ元大統領が暗殺。レバノン駐留全シリア軍が撤退 | |
2006年 | イスラエル軍がレバノン侵略(対ヒズボラ) | |
2007年 | 国民投票でアサド大統領再選。イスラエル軍がシリア北部を爆撃(核原子炉建設疑惑) | |
2008年 | ダマスカスで中東和平サミット(シリア、仏、トルコ、カタール)を開催 | |
2010年 | イランの協力を受けシリア国内での核原子炉建築、及びレバノンのヒズボラに対する武器支援疑惑などが浮上 | |
国内情勢不安 | ||
2011年 | ||
1月 | ヨルダン、レバノン、トルコと経済協力に関する会合が開催 | |
3月 | アサド大統領の辞任などを訴える反政府デモと警察が衝突。内閣総辞職で国民に融和姿勢を示唆 | |
4月 | 48年続いた国家非常事態令が解除 | |
5月 | 米・欧州連合がシリア政府及び高官に対する制裁措置を決定 | |
6月 | アサド大統領が政治改革推進を強調。ただし、反政府デモ弾圧継続を示唆 | |
7月 | 中部ハマに米・仏大使が訪問し、デモ隊への支持を表明 |
Picture by: Nader Daoud/AP/Press Association Images
6月17日、ヨルダンのシリア大使館前で
アサド政権退陣要求デモに参加する女性
英国の対シリア政策
シリア地元紙は、6月26日、親シリアのニューマーク英保守党議員がアサド大統領に「シリアの治安維持と安定が不可欠」と述べたとし、英政府のアサド政権支持を示唆するとも解し得る会談内容を報じた。同発言は、英政府のシリア政策に対する誤解を招くとし、野党などからは、同会談を了承したヘイグ外相の責任を問う声が高まっている。
シリア国内で民衆蜂起が勃発した3月以降、少なくとも1100人の民間人が殺害されたとの国連報告を受け、「英国は黙っていない」と強硬な姿勢を示したキャメロン首相に続き、ヘイグ外相もアサド大統領に対して「改革」か「辞任」かの選択を迫る発言をしていた矢先の政治的失態とも言える。一方、ニューマーク議員の発言は、アサド大統領による政治改革(レバノン問題や国内の汚職追放)や近隣諸国との経済関係強化といったこれまでの功績を評価する専門家の意見を代弁したものとの見方もある。
シリアとイラン、そしてヒズボラ
1990年代、眼科研修医としてロンドンのセント・メアリーズ大学病院に留学していたアサド大統領が、2000年にシリア大統領に就任し、01年には英国生まれのシリア女性と結婚したことで、シリアは親欧米路線に転換したとも報じられた。しかし、1967年と73年に領土問題を巡りイスラエルと2度戦争を経験したシリアは、79年のイラン革命で反米・イスラエルに転じたイランと急速に連携を強めていったという歴史的背景がある。また80年代、レバノンでの対イスラエル抗争などを経て、シリアは、イランが支援するレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラへの支援も開始した。
このように、イランとの結束を強化していったシリアは、2001年の9月11日の米国同時多発テロ発生以降、ブッシュ前米大統領に「悪の枢軸」の烙印を押され、テロとの闘いに巻き込まれる。
アサド大統領への助け船
本年1月、アサド大統領は、チュニジアとエジプトの民衆蜂起は中東新時代の幕開けだとし、アラブ諸国の指導者は積極的な改革をする必要があると語った。しかし、6月の演説では、バース党一党独裁を規定した憲法条項の見直しを含む政治改革推進を強調した半面、自身の退陣や権限の制限に関しては言及せず、反政府デモ隊に対する弾圧への継続を示唆するなど、懐柔策と強硬路線を維持する姿勢を示した。
シリアは、アサド大統領が所属するイスラム教シーア派に属するアラウィ派(全国民の約1割)が、スンニ派(同約8割)、及び少数派 のクルド系、アルメニア系、キリスト教徒、ドゥルーズ派などを統治するモザイク国家であり、状況次第ではイラク同様の宗派間抗争に発展する危険性を指摘する声もある。また、シリアからトルコ南東部への避難民は既に1万人を超え、特にクルド系難民は今後トルコの国内問題に発展する危険性を孕んでおり、シリアと友好関係構築を試みてきたトルコのエルドアン首相もついにアサド政権を非難し始めた。窮地に追い込まれたアサド大統領を救出すべくペルシャ湾を出航した助け船は、更なるデモ弾圧に向けて舵を取ったのかもしれない。
Hizballah
ヒズボラ。イスラエル軍によるレバノン侵略を受けて、1982年に同国南部で結成されたイスラム教シーア派組織「神の党」。ハッサン・ナスララー議長。イスラエル国家の打倒と、イラン革命を模範とした汎イスラム国家樹立を掲げる。シリアとイランの資金・軍事援助を背景に勢力を拡大。2005年にハリリ元大統領暗殺関与疑惑でヒズボラ幹部が起訴された一方、本年7月7日、レバノン国民議会は、閣僚30人のうちヒズボラが主導する会派「3月8日運動」が過半数を占めるナジブ・ミカティ新内閣を正式に信任。今後、レバノン内政にイランとシリアの影響が拡大する可能性が高い。(吉田智賀子)
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