英国の歴代首相の中で最も有名な人物、有名なだけではない、今も尊敬を受けている人物となれば、間違いなくこの人になる。ウィンストン・チャーチル。ヒトラー率いるドイツとの戦いを勝利に導いた戦時内閣のリーダーであった。
対独戦にまつわる名言も多いが、私はナショナリズムの色のないこの言葉が好きである。教育問題について質問された首相が、こう答弁したら議会はもめるだろうが、実はチャーチル自身がオックスフォードにもケンブリッジにも縁のない陸軍士官学校出身だったので、この言葉は自らの体験を踏まえて語ったものなのである。
「quotations」は辞書的に訳せば「引用句辞典」だが、実際には偉人たちの名言を集めたものなので、「名言集」とした方がわかりやすい。意味を汲み取って訳し直せば、「高等教育など受けずともよい。人は過去の名言に学ぶべきである」と、まあこんな感じになる。面白いではないか。英国史に燦然さんぜんと輝くナンバーワン首相は、大学ではなく、名言集に学んだのである。
名言に学んだおかげか、チャーチルは演説の巧みなことで知られた。そればかりではない。なんと、第2次大戦回顧録ではノーベル文学賞まで受賞している。軍事に秀でた首相は、英国史に残る文人宰相でもあったのだ。
名言とは、まずは何よりもロジックの世界である。思想の彫りを深くし、対句だの比喩だの、レトリックの鮮やかさの中に立体的に立ち上げる。名言は、人間の英知が生む、思想と言葉のタワーのようなものだ。
さて、現代はかつてない情報過密社会で、人は限りなくインスタントになった。また、ヴィジュアル・イメージが優先されて、政治家は言葉を磨くよりも、テレビ映りを気にするようになった。言葉の専門家であるべき作家も、今や底が知れている。時を超えた生命を持つ、思想と言葉の金字塔をうち立てることより、面白おかしいストーリーをひねくり出して、映画化の著作権料でも手にした方がよほどましとされているのだ。
名言は全て、過去の産物である。しかし、その生命は死んだわけではない。チャーチルのように、名言から生きた知恵を学ぶことは可能なはずだ。
人は歴史とともに呼吸し、大きな時間軸の中に対話する相手を探すべきである。今の時代をともに生きる師や友人も大切だろう。だが過去の名言は、今を生きるどんな知人よりも、遥かに大きな知恵や勇気を授けてくれるかもしれないのだ。
< 前 | 次 > |
---|