19世紀、ヴィクトリア女王の治世に、保守党を率いて首相を2度務めたディズレーリが語ったという言葉である。
とかく政治には嘘がつきものだ。その政治家の代表格が自ら語るのだから、政治家の扱う「統計」など、信用のならぬものなのだろう。初めに結論ありきではないが、己の目的に利するように、はなから色眼鏡がかけられ、都合の良いところばかりに焦点が当てられる。景気、福祉、教育、医療……数字を示して成果を誇示するケースは多いが、当てにならない。
ディズレーリの時代、近代化の過程で、政治も道義や主義から、統計=数字の時代に移行した。敵味方ともにやたら統計を振りかざすようになったが、そのような時代の傾向に一矢いっしを報いたシニカルな言葉なのだろう。
さて、このたびイギリスの首相が退陣した。イラクとの戦争に踏み切って以降、ブレア(Blair)という名前に引っかけて、「嘘つき(liar)」と罵られた。45分以内に英国を襲ってくるというイラクの大量破壊兵器など、どこにも存在しなかった。「dammed lies」を地で行くような、真っ赤な嘘だった。それでも、後継者へのバトンタッチの中で、10年間の成果を締めくくる、良い事づくめの様々な数字(統計)があげられた。草葉の陰のディズレーリは苦笑していることだろう。
ディズレーリは政治家であると同時に、小説も書いた。その方面の才能がある人なだけに、この言葉、特にポイントとなる3番目は、もう少しひねりがほしかった。例えば、「統計」でなく、いっそ「政治(politics)」としたらどうだろう。或いは、いま少し積極的に踏み込んで、「戦略(strategy)」ではどうか。
嘘をついてはいけないことは、世界の共通理解である。宗教や言語を超え、人類が等しく抱える価値観なのである。嘘は嫌われる。嘘がばれれば、非難は免れない。ばれずとも、後ろめたい。人間の良心には、嘘に対するNOが、遺伝子的に刻まれているのだ。
久しぶりに、年老いた故郷の母から電話がかかってきた。元気かと訊かれた。実は体調が悪く伏せっていたが、ああ元気だと答えた。電話を切って気がついた。こういう嘘がある。これは、ディズレーリの3つの定義に含まれない。しかし、4番目の嘘とも言うべきこういう嘘だけが、人間らしい、良心がつく嘘である。
願わくは、嘘はこの手のものだけであってもらいたいものだ。
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