2年前、2005年はトラファルガー沖海戦から200年ということで、イギリスでは女王も 臨席する記念行事が賑々しく催された。英軍を勝利に導き、ナポレオンの英本土進攻を阻 止したネルソン提督は不世出の英雄として称えられた。今回はそのネルソン提督の臨終の 際の言葉。ネルソンは海戦に勝利したものの、自身は被弾して、洋上に戦死したのである。
この言葉を正しく、より深く理解するには、まず、海戦の開始に臨んでネルソンが全軍 に向けて放った言葉を知らなくてはならない。「England expects that every man will do his duty.(英国は、各員がその義務をまっとうすることを期待する)」―。義務を果たせと、 全兵士に語ってネルソンは、熾烈な戦いの火蓋を切って落としたのだった。そして、自身 の死に臨んだとき、彼は再び義務(duty)を口にした。明らかに、開戦に当たって将として 発した指令に呼応する形で、彼は自らの生を閉じたのである。
おのおのが担う義務をそれぞれまっとうすることで、総体として大いなる力をなし、事 が進む。一艦に於いてもそうであろうし、艦隊全体にしろ、軍を動かす戦闘にしろ、理屈 は同じだろう。ネルソンは軍務ひと筋の石頭でも朴念仁(ぼくねんじん)でもなく、実は愛人問題なども抱 えて私生活は決して平坦ではなかったが、公の大義の道となれば、勇猛果敢に義務に生き て迷うところはなかった。1793年以来、ネルソンはフランス軍と各地に転戦して、右目、 右腕を失っている。
同じく「義務」を語りながら、ネルソンの名言として引用されるのは専ら先の開戦の言 葉の方で、臨終の言葉はその陰に隠れてしまいがちだ。しかし、私に言わせれば、後者の 方が断じて重く、尊い。義務を果たせ、とは、上に立つ者なら誰もが口にする。現に、会 社の社長などで、この言葉を座右の言としてホームページに載せるような例はいくつもあ る。だが、トップ自らが率先して義務を果たし、その命まで捧げるようなことは稀だ。ネ ルソンの言葉のポイントはそこにある。
驚くべきことに、この臨終の言葉は、勇猛の将としてはさらりとして、シンプルこの上 ない。大仰な感じや、自分に酔ったような感じが微塵もない。あくまでもクールに、道理 を見極めた上で発せられている。しかも、一兵士と全軍の将と、立場は異なれ、義務を果 たすことが等価に扱われている。死が、人にとって等しく絶対的なものであるように……。
企業から国まで、およそ人の上に立つ者は、このネルソンの言葉の真意を噛み締めてほ しいものだ。
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