生粋の皮肉屋のスウィフト。「vision」を論ずるに、わざわざ「invisible」という否定形を持ち出して構文を組み立てるあたりにその片鱗が窺えるものの、意外にも(?)、まともな観照である。巨人国や小人国、果ては空飛ぶ島や馬の国など、「ガリヴァー旅行記」に繰り広げられた世界を見れば、その悉(ことごと)くが、現実には見えるはずのないものを「幻視」することで、隠れた真実を明らかにするものである。スウィフトは、いかにも「ヴィジョン」の達人であった。
スウィフトの言に従って、身の回りの「ヴィジョン」を見てみよう。例えば、「テレヴィジョン」。
自分の目の届く範囲内では直接に見ることのできないものを、電波によって伝え、見せてくれるのが、テレヴィジョンの本質だと理解できる。BBCの顔、自然番組のスペシャリストのアッテンボローのリポートで、世界の果ての珍しい風景やそこに棲む動物でも見せてくれれば、なるほどこれがテレヴィジョンだと納得する。或いは、報道管制が厳しく少しも様子のわからないチベット情勢についても、中国当局の目を盗んででもカメラを入れ、見えるようにするのが、テレヴィジョンなるものの使命である。そんじょそこらの、掃き溜めの屑のような日常を垂れ流していては、テレヴィジョンの名がすたろうというものだ。
さて、テレヴィジョンも然りであるが、現代は「ヴィジョン」があまりにも日常化してしまって、すいぶん安っぽくなってしまった。「ヴィジョンがない」、「ヴィジョンを持たなければダメだ」と、社内会議では何とかのひとつ覚えのようにその言葉が繰り返されるが、そのうち、明日の夜の献立を考えることさえ、「ヴィジョン」と言われるようになるかもしれない。スウィフトが語ったような奥深い「ヴィジョン」は、すっかり「invisible」になってしまった感がある。
では、そのヴィジョンなき時代に、ヴィジョンを持つにはどうすればよいのか? 皮肉にも、まず手始めに、テレヴィジョンをとめることだ。日常に氾濫する、垂れ流しのイメージに惑わされてはならない。誰の目にも見えるところに、真実はない。目を閉じ、耳を澄まそう。すると瞼の奥に、水底に宝物を探すようにして、見えてくるものがある。それまでは闇に覆われていたものが、次第にはっきりと姿を現し始めるのだ。
さあ、目を開けよう。世の中は全く違った色をしていることだろう。万物に降り注ぐ光の加減までが、神々しい輝きに満ちているではないか。ヴィジョンを得るとはそのようなことだ。スウィフトの言葉は、21世紀のヴィジュアル時代にも、少しも色褪せていない。
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