第166回 牛乳を飲めなかった石器時代の英国人
英国には「スリープ・ウェル」という牛乳があります。不眠症に効く薬草ヴァレリアンが入っているので赤ちゃんが飲むとよく眠るそうですが、赤ちゃんだけでなく安眠のために利用する大人も多いとか。通常、大人になると乳糖の分解酵素の活性が低下して、乳糖を避ける一種の「乳離れ」が起きますが、英国人は大人になっても牛乳をよく飲む印象を受けます。実際、英国人は1日あたり日本人の3倍超の牛乳を消費しているようです。
安眠できるという「スリープ・ウェル」
ところが考古学に詳しい友人によると、石器時代の英国人は牛乳を飲めなかったそうです。英南西部チェダーの洞窟で発掘された1万年前のチェダー・マンは英国人の最古の祖先ですが、乳糖の分解酵素を持っていなかったため牛乳が飲めなかったと推察できます。英国人が乳糖の分解酵素の遺伝子を持つようになったのは今から約5000年前から始まった欧州大陸における西ステップ遊牧民の大移動が深く関係するようです。
1万年前の英国はまだ陸続き(ロンドン博物館蔵)
先史時代に興味を覚えた寅七はロンドン博物館を訪れました。展示室「ロンドン・ビフォー・ロンドン」は紀元前45万年から西暦50年までを扱っています。紀元前45万年の英国はアングリア氷期で氷床に沈み、人が住めなくなりました。展示室の壁には過去50万年の平均気温のグラフが描かれ、約10万年ごとに氷期が訪れていたことが分かります。氷河に覆われるたびに生き物は絶滅の危機に瀕しました。
10万年ごとに訪れる氷期周期(ロンドン博物館蔵)
最後の氷期が1万2000年前に終わると人口が増え始めます。陸続きの欧州大陸から肌の黒い狩猟民が歩いて英国に移住し、続いて小アジアのアナトリアを起源とする農耕民が約6000年前に欧州大陸から海を渡って来て農業を広めます。そしてさらに約4500年前には、広口杯の青銅器(鐘状ビーカー)を作る文化圏から、前述の西ステップ遊牧民の遺伝子を持つとされる「ビーカー人」が移ってきました。ビーカー人たちは、農業に加えて金属業や交易も行います。
鐘状ビーカーと青銅器(ロンドン博物館蔵)
交易や商品経済の普及で社会に富の格差も生まれ始めます。ビーカー人は青銅器を作るだけでなく、錫を輸出して地金を輸入し、豪華な黄金製品を手に入れました。家畜と共に移動する遊牧民の遺伝子を持つので乳糖の分解酵素が持続し、牛乳を飲んだに違いありません。黄金に囲まれて飲む牛乳ならそれはもうぐっすり眠れたことでしょう。しかしビーカー人はやがて鉄器文明を有するケルト語族の中に融合して姿を消して行きました。
青銅器時代の黄金の肩掛け(大英博物館蔵)