RAH開場150周年
ロイヤル・アルバート・ホールの歴史をひもとく
ドーム型の屋根と赤レンガ建築が印象的な、ロンドン中心部に位置するロイヤル・アルバート・ホール。1871年の開場以来、コンサートをはじめとしたさまざまなイベントが行われる多目的ホールとして使用されている。毎年夏に開催される、世界最大規模のクラシック音楽祭BBCプロムナード・コンサート(プロムス)の会場としても知られるが、昨今のコロナ禍でほかの芸術施設同様、1年以上の閉鎖をやむなくされている。そんななか、ロイヤル・アルバート・ホールは3月29日に開場150周年を迎える。本号では、ホールに観客たちが戻る日が早く訪れることを願いつつ、ロイヤル・アルバート・ホールが時代とともに歩んできたこれまでの軌跡を紹介していこう。
文: 英国ニュースダイジェスト編集部
参考: Royal Albert Hall: A Celebration in 150 Unforgettable Moments ほか
I.誕生のきっかけはアルバート公
英国が芸術・工業・商業のあらゆる方面でまい進中だったヴィクトリア時代。1851年にロンドンのハイド・パークで開催された万国博覧会の大成功に満足したヴィクトリア女王の夫アルバート公は、公益のために恒久的な施設を創設することを提案する。サウス・ケンジントン地区にある領地を博覧会の収益で買収するなど準備は進んだものの、61年にアルバート公が志半ばで死去。ヴィクトリア女王が愛する夫の遺志を継いで71年に完成させた。
当初はセントラル・ホール・オブ・アーツ・アンド・サイエンシズ(Central Hall of Arts and Sciences)と呼ばれるはずだったが、アルバート公を偲びロイヤル・アルバート・ホール・オブ・アーツ・アンド・サイエンシズ(Royal Albert Hall of Arts and Sciences)と名付けられた。女王は館内にアルバート公と自分の胸像を配したばかりでなく、優雅なカーブを描く階段の手すりにアルバートの頭文字である「A」をいくつも装飾させるなど、亡夫への愛をふんだんに盛り込んだ。また女王は、ホールの向かいにあるハイド・パークにも、金色に輝くアルバート公の記念碑を建立している。
仲睦まじかったヴィクトリア女王(写真左)とアルバート公(同右)
1871年3月29日のグランド・オープンの模様を描いた銅版画
II.屋根のドームにまつわる物語
ロイヤル・アルバート・ホールの建築デザインは、アイルランド人の建築家でエンジニアとしても活躍したフランシス・フォーク(Francis Fowke)と、万国博覧会を手掛けたヘンリー・スコット(Henry Young Darracott Scott)の2人が担当。特徴ある鉄筋のドームはスコットの作で、骨組みだけで重さ338トン、そこに装着されたガラスは279トンと当時としては英国でもっとも巨大にして重い屋根を持つ建築となった。完成当時多くの人が、重すぎて今に落ちてくるのではないかと噂したものの、実は、冬には158トンの積雪にも耐えられる頑強な設計だという。
第一次世界大戦中、上空からも目立つガラス張りのドームは夜間の灯りが漏れないように巨大な黒い布で覆われ、大きなダメージを受けずに生き残った。続く第二次世界大戦でも、3発の爆弾を受けたにもかかわらずひどい損傷もなく済んだ。これは、ドイツ軍が上空からでも分かるユニークな形のドームを、空爆の際の位置確認の目印として使っていたからだとも言われている。つまり、ロイヤル・アルバート・ホールはドームのデザインのおかげで生き抜くことができたということになる。
鉄筋ドームは当時の英国エンジニアリング技術の結晶
現在でも上空からユニークな形状が識別できる
III.とばっちりを受けた巨大なパイプ・オルガン
高さ21メートル、パイプ数は9999本。1871年の制作当時に世界一と言われたこのパイプ・オルガンは、ロンドン北部にあるヘンリー・ウィリスの工房で造られた。多くのオルガンと同じく、風をパイプに送り空気を振動させることで音を出す仕組みで、現在は電気がメイン動力であるものの、1970年代ごろまでは水蒸気が使われていたという。初演は1871年7月。「まるで木星の声のよう」と形容された深い響きと音色で多くの観客を動員し、やがてこのオルガンはホールのメイン・アトラクション的な存在になった。1914年7月、そんなオルガンの人気にサフラジェット(女性参政権運動家)たちが目を付ける。当時、進展の見込みのなかった女性参政権運動に世間の目を向けさせるため、過激な直接行動を起こしていたサフラジェットたちは、パイプ・オルガンの隣室にあるカフェのシンクをふさぎ、水を出しっぱなしにして周囲を浸水させた。水はパイプ・オルガンにも流れ込み、オルガンは修理に3カ月以上、2000ポンド(現在の額で約18万ポンド、日本円で約2700万円)の費用がかかったという。
ちなみに1920~50年代には、アルバートと名付けられた猫が、オルガン専属のネズミ捕り長官として代々勤務していた。
迫力満点のパイプ・オルガンは、ホールの「顔」的な存在
IV.さまざまなイベントは時代を映す鏡
今でこそクラシックやロックなどの音楽イベントが中心になっているロイヤル・アルバート・ホールだが、元々はアルバート公が「公益のために」と考えたこともあり、これまでに多くのチャリティー・イベントが開催された。それだけではなく、「誰もが使える」という理念を掲げていたため、さまざまな政治的立場の人々によっても利用された。1909年にはサフラジェットの女性社会政治連合(WSPU)が創設者エメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)の講演会を開催。1923年には、現在も続く第一次世界大戦の戦没者追悼式典が初めて行われたほか、1928年にはジャマイカ生まれの作家で活動家のマーカス・ガーヴェイ(Marcus Garvey)が黒人解放についてのスピーチを行った。また、1933年には独ナチス政権を逃れてこの後すぐ米国移住を果たす物理学者のアルバート・アインシュタイン博士が、知的活動と人権の自由について大勢の聴衆の前で熱っぽく語っている。
もちろん個人が政治的見解を表すだけでなく、政治家もロイヤル・アルバート・ホールの壇上に立った。最も回数の多い一人に、元首相ウィンストン・チャーチルがいる。チャーチルは1925~53年の間にホールで28回のスピーチを行った。
1933年6月17日、ホールで講演するアインシュタイン博士(写真左)
V.オペラから映画まで
オペラはロイヤル・アルバート・ホールが1871年に開場した当初から開催されていた。8000人余りを収容できるホールは円形劇場であることから、張り出し舞台を突出させその三方を客席が取り囲むほか、客席がステージを取り巻く円形スタイルにもできるなど、オペラの劇的な演出にはぴったりだったに違いない。バレエでは1997年にイングリッシュ・ナショナル・バレエ団が初めて円形ステージを使って「白鳥の湖」の公演を行ったほか、2006年の米ブロードウェイ・ミュージカル「ショー・ボート」では、アリーナ部分に実物大の蒸気船を登場させるなど、ステージの形と広さを十二分に活用した演目が並ぶ。映画もまた早い時代からホールで上映されていた。これはサイレント映画上映の際に、オーケストラによる伴奏が必要だったためだが、初めて上映されたのは1905年。トラファルガーの海戦から100年を記念した戦争の記録映画だったという。現在でもホールでは映画上映は行われているが、それは007シリーズなどブロックバスター系作品の大規模な宣伝活動を兼ねたプレミア上映のほか、「ロード・オブ・ザ・リングス」といった人気作品をフル・オーケストラ演奏とともに楽しむ特別イベントであることが多い。
VI.RAHでまさかの相撲観戦
ロイヤル・アルバート・ホールではスポーツ・イベントも開催される。開場当初は国民の体力増強を狙った、兵士たちによるデモンストレーションなどだったが、次第に屋内マラソンほかの競技系種目が始まり、やがてボクシング、レスリング、卓球、テニスのトーナメントなども開かれるようになっていった。1971年と79年にはヘビー級チャンピオンのモハメド・アリがロイヤル・アルバート・ホールのリングに上がっている。だが特筆すべきは、1991年にジャパン・フェスティバルの一環で行われた、大相撲のロンドン公演だろう。通常の15日を5日間に短縮した「ロイヤル場所」には、幕内力士40名が出場。アリーナに作られた土俵で勝負をした。
土俵には通常東京の荒川流域から運んだ粘土質の土を使うが、ロンドン公演ではロンドン西部ヒースロー近くから掘り出した土を利用したという。旭富士、北勝海の両横綱に加え、豪快に塩をまくことからソルト・シェイカーの異名を取った水戸泉、小さいながらも多彩な技で大型力士を倒しマイティー・マウスと呼ばれた舞の海、そして体重238キロの小錦らが、英国人たちの声援を浴びながら、連日ソールド・アウト、満員御礼の幕の下で戦った。
「ロイヤル場所」の開始に先立ち、清めの儀式が行われた
小錦(写真手前左)をはじめとした力士集団が勢ぞろい
VII.やっぱりプロムス
毎年夏になるとロンドンで華やかに幕を開ける世界最大級の音楽祭「プロムス」。世界に名だたる演奏家やオーケストラが7月からの約2カ月間、毎日演奏を披露するこの音楽祭の魅力は、普段はあまり音楽を聴かないという人から小さな子どもまで、ありとあらゆる人を楽しませるユニークなプログラム構成にある。初回は1895年クイーンズ・ホールだが、1942年からはロイヤル・アルバート・ホールを中心に、現在では市内で100近くのクラシック音楽コンサートや関連イベントが開催されている。
特に最終日に同ホールで行われる「ラスト・ナイト」は、国民的行事と言っても過言ではない。毎回プログラム後半には「威風堂々」や「ルール・ブリタニア」など、かつての大英帝国の栄光を想起させる名曲で盛り上げ、観衆が手を組んで「蛍の光」を合唱する大興奮のフィナーレは、異様なまでの高揚感がホールを満たす。その模様はテレビ放映およびハイド・パークに巨大スクリーンを設置して同時中継する「プロムス・イン・ザ・パーク」でも観ることができるが、ロイヤル・アルバート・ホールで実際に体験するのが1番だろう。毎年壮絶なチケット獲得戦が繰り広げられるが、その苦労を補って余りある特別な一夜を楽しめるはずだ。昨年は、新型コロナウイルスの影響を受けて放送用の無観客公演のみが行われた。果たして今年のプロムスはどうなるのか、現時点で正式発表はまだされていない。
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カジュアルにして華やか、世界最大級の音楽祭「プロムス」
Royal Albert Hall にまつわるトリビア
天井にあるたくさんの丸いオブジェ
これはホール天井のカーブによって引き起こされる反響音を緩和させるための拡散器。ホールは長年ひどいエコーに悩まされていたが、1960年代後半にさまざまな実験が行われた結果、85個のファイバーグラス製の拡散器を天井から吊るすことで解決した。この装置はその形から「マッシュルーム」と呼ばれている。
建物外観に帯状に彫られている装飾
英語ではモザイク・フリーズと呼ばれる、古典建築によくある装飾スタイルで、「芸術と科学の勝利」が表現されているそう。デザインはヴィクトリア時代の7人のアーティストによるもの。1枚30センチ四方のテラコッタを繋ぎ合わせたモザイクは、16セクションごとに分けて制作されたが、全長にすると243メートルにもなる。
大相撲ロンドン公演の事前準備
力士たちの体のサイズが特大であるため、控室のトイレが重さに耐えられるかテストをしたほか、椅子にも補強を施し、シャワーも大きなサイズに付け替えた。入場料は土俵際の「砂かぶり席」(タマリ席)と呼ばれている1番良い席で95ポンドだったが、これは日本の様式にのっとり、床にクッションを用意した。
拡張工事で発掘されたもの
2017年から始まったロイヤル・アルバート・ホールの地下拡張工事は、オフィスや倉庫エリアを増築するためのもの。おかげで、ヴィクトリア時代の日用品が約150年ぶりに発掘され日の目を見た。陶器製のパイプや液体調味料ボヴリルの瓶、当時は庶民の食べ物だった殻つきの牡蠣など、市民の暮らしが伺えるものばかりだ。
ピーター・ブレイクの壁画
ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバム・カバーをデザインしたピーター・ブレイク(Peter Blake)が、2014年にこれまでロイヤル・アルバート・ホールに出演したミュージシャンたちの姿をコラージュした壁画を制作。400人余りの人物が、横3メートルの作品内に収まっている。
Royal Albert Hall
Kensington Gore, London SW7 2AP
Tel: 020 7589 8212 (新型コロナによる規制のため現在は利用不可)
地下鉄: South Kensington / High Street Kensington
www.royalalberthall.com