── ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにて、
今月24日より英語版「マダム・バタフライ」の上演が始まる。
タイトル・ロールに抜擢された、米国を拠点に活動する
2人の日本人オペラ歌手が、稽古の合間を縫って
インタビューに応じてくれた。
(取材・文: 木暮 恭大)
2010年2月24日(木)~3月13日(日)
料金 £21.50~65.00
Royal Albert Hall
Kensington Gore London SW7 2AP
TEL: 0845 401 5045(Box Office)
最寄駅: South Kensington駅
www.royalalberthall.com
※タイトル・ロールはトリプル・キャスト
あらすじ
「椿姫」「カルメン」と並び、世界三大オペラの一つにも数えられる「マダム・バタフライ」は、プッチーニ(伊)作曲のオペラ。舞台は明治時代の長崎。米国海軍士官ピンカートンは現地妻として、没落藩士の娘で芸者の蝶々さんを娶る。純真な15歳の少女はこの結婚を永遠のものと信じ、心から喜ぶが、それも長くは続かず、夫は彼女を置いて本国へ帰ってしまう。周囲は彼のことを忘れるよう諭したが、蝶々さんは2人の間に生まれた子供を抱え、夫の帰りを疑おうとしない。しかし、彼はそんな彼女を尻目に本国で新たな幸せを手にしていた。そして3年の月日が流れ……。
ロイヤル・アルバート・ホール
Royal Albert Hall
ビクトリア時代に建てられた、ロンドン中心部に位置する円形の演劇場。1871年3月29日の開場以来、コンサートを始めとする様々なイベントが行われる多目的ホールとして使用されている。毎年夏に開催される、世界最大規模のクラシック音楽祭BBCプロムナード・コンサート(プロムス)の会場でもある。
鹿児島県出身。大分県立芸術短期大学卒業。武蔵野音楽大学卒業。同大学院修了。2001年に日本三大声楽コンクールすべてを一年で制する快挙を成し遂げ、その後、国内外に活躍の場を広げている。世界中で「マダム・バタフライ」のタイトル・ロールを演じる度に高い評価を受け、「蝶々夫人」が彼女の代名詞にもなっている。現在、米ニューヨーク在住。
2001年 | 第70回日本音楽コンクール声楽部門第1位 第37回日伊声楽コンコルソ第1位 第32回イタリア声楽コンコルソ第1位 |
2002年 | イタリア・サンタマルゲリータ・オペラ・フェスティバル「蝶々夫人」でヨーロッパ・デビュー |
2007年 | リチーア・アルバネーゼ・プッチーニ国際声楽コンクールで第1位 ベルディ「レクイエム」にて、米国デビュー |
2008年 | ウィグモア・ホールで行われたショルティ没10周年メモリアル・コンサートでロンドン・デビュー ボルティモア・オペラで米国オペラ・デビュー ミシガン・デトロイト・オペラ「蝶々夫人」出演 |
2010年 | バンクーバー・オペラ「蝶々夫人」でカナダ・デビュー |
オペラを始められたきっかけは?
最初は憧れのようなものでした。幼い頃、華やかな歌のコンサートを聴いて、私もこんな風になれたらと。本格的に声楽を習い始めたのは15、6歳のとき。プロのオペラ歌手になろうと決心したのは、大分の芸術短大から、武蔵野音大の第3学年に編入し、上京した頃ですね。大学のオペラを観るのはもちろんのこと、地方にいた頃はCDでしか聴けなかったようなオペラやコンサートが、東京文化会館などでやっていて、生で観られるわけです。あの空気に触れた瞬間に、なれるとか、なれないとかそういうのは別として、絶対オペラ歌手になりたい!と思いました。それからはオペラ一筋で、他の道を考えることはなかったですね。
海外でご活躍されるきっかけとなったのは?
学生の頃から既に海外で歌いたいと思っていました。日本ではオペラ歌手というのは、学校の先生をやりながらオペラを歌うといった形が一般的で、なかなかオペラだけに集中するという環境が整わないため、職業として成立しにくいという現実があります。つまり、オペラ歌手になるためには、必然的に海外に出るしかないので、常に目は外に向いていました。国内で賞を受賞し、奨学金を頂いて、イタリアのローマに留学したのが、海外に出るきっかけになりましたね。
木下さんは蝶々夫人がご自身の代名詞となっているほどに、これまで世界中でこの作品を演じられ、素晴らしい評価を受けていらっしゃいますが、木下さんからみてどのような作品ですか?
海外でのオペラ・デビューもイタリアなのですが、そのときに歌ったのがこの蝶々さんで、それからも何度も歌ってきているので思い入れは強いですね。
この作品の一番の魅力は音楽そのものにあり、ソロもアンサンブルも本当にどこを取っても美しいのです。一方で蝶々さんというのは、イタリア・オペラの中でも1、2を争うほど危険な役でもあります。観てもらえば分かると思うのですが、2時間ほとんど歌いっぱなしで、舞台に上がったら終幕まで降りることができません。
また、日本が舞台になっていることもあり、歌うときには責任感も感じています。やはり日本人として、あまりにも違和感を覚えるような所作があってはならないですから。とはいえ、あくまでイタリア・オペラですから、ある意味では欧米的な感覚も持ち合わせていないと、このオペラに合致したキャラクターは演じられず、そういう意味でも神経を使いますね。
通常イタリア語で歌う「マダム・バタフライ」を英語で行う点についてはどう思われますか?
もともとイタリア・オペラが専門である私にとって初めての英語のオペラなので、稽古は人一倍苦労しています。また英語で演じるとはいえ、音楽はプッチーニが書いたもので、もともとイタリア語を想定して作曲されていますから、それを英語で書き換えること自体、並大抵のことではなかったでしょうが、アマンダ・ホールデンという素晴らしい翻訳家によって違和感のない仕上がりになっています。
既に、アルバート・ホールと同様の舞台装置で練習されているということですが、今回の舞台の特徴について教えてください。
アルバート・ホールは円形状で、客席が舞台を取り囲むような配置になっています。つまり360度、あらゆる位置からお客さんに観られていることになります。これは斬新な試みですね。プロデューサーのデービッド・フリーマンも舞台に合わせた演技指導を行っています。正直なところ練習が始まったばかりの頃はデービッドが何を求めているのか分からなかったのですが、2週目に入ってようやく、それがつかめるようになりました。そもそも、我々オペラ歌手というのは、一方向に対して演技することに慣れ過ぎているのですが、彼が求めるのは、より映画的な、つまり舞台だからとかではなく、リアルに人がとり得るリアクション。これが、なかなか難しいのですが、音楽と噛み合えば、素晴らしいものになると確信しています。
このオペラの中で一番好きなシーンは?
音楽的に好きなのは圧倒的に第3幕。あの緊張感が何とも言えないです。最後に自分の子供と別れるシーンで歌うアリア「かわいい坊や」は、まさにここが歌いたかったの! といった感じ。
演技の面では、第2幕の駐日領事シャープレスとの食い違ったやりとりをする場面ですね。天真爛漫でチャーミングな彼女の性格をめいっぱい表現できて、演じていて一番幸せ。この場面を書いてくれたプッチーニに感謝したいです。
京都府出身。国立音楽大学声楽科卒業。東京藝術大学大学院修士課程オペラコース修了。ニューヨーク・マネス音楽院首席卒業。英国の批評家、グレアム・ケイから「輝く宝石」の声と評された国際的ソプラノ歌手。ルーマニア国立歌劇場でドゼニッティ作曲「ランメルモールのルチア」のタイトル・ロールを務め、ヨーロッパ・デビュー、その後も各地で同役を演じた。「蝶々夫人」のロール・デビューとなったウルグアイでは、同公演が国内で放映され、大成功を収める。日本国内でも、朝日新聞主催のリサイタル・シリーズ「田村麻子が歌う愛のテーマ」では、8回の公演がすべて完売するなど、話題を呼んでいる。ニューヨーク在住。
1997年 | ドミンゴ主催「オペラリア」国際コンクールに最年少で入選 |
2001年 | コネチカット・オペラ・ギルド・コンペティション優勝 |
2002年 | FIFAワールド・カップ決勝戦前夜祭「三大テノール・コンサート」にてドミンゴ、故パバロッティ、カレーラスと共演 |
2003年 | ジュゼッペ・ディ・ステファノ国際コンクール優勝 ハンガリー国立歌劇場「ランメルモールのルチア」にて、ラモン・バルガスと共演 |
2004年 | イタリア、カリアリ歌劇場において「ランメルモールのルチア」にて、マリエッラ・デビーアとダブルでタイトル・ロールを務める |
2005年 | ファースト・アルバム「Asako Tamura sings Opera Arias」をリリース |
2006年 | フロリダ、サラソタ・オペラ「群盗」アマーリア役 テキサス、エルパソ・オペラ「椿姫」ビオレッタ役 |
2007年 | カーネギー・ホール及びリンカーン・センターにてデビュー |
2008年 | ウルグアイ、ソリス歌劇場「マダム・バタフライ」蝶々夫人役 |
オペラを始められたきっかけは?
歌は幼い頃から好きでしたが、もともとは国際的なピアニストを目指していました。しかし、大学のピアノ科の試験を受けようとしたところ、私の手の大きさでは弾けないような課題曲が選ばれてしまって……。どうしても音楽の方に進みたかったので、周囲に才能があると言われてきた歌手としての道を選ぶことに。
当時は、ミュージカルとか楽しそうだな、音大に行くなら歌でもいいかな、なんて軽い気持ちで考えていたので、いざ歌のレッスンを本格的に始めたときに、これは思っていたより大変だと気づきました。そんな折に「ランメルモールのルチア」をテレビで観て大変感動し、オペラにのめりこんでいきました。それが直接のきっかけと言えるかもしれません。
ピアニストを目指しておられたのが、急に声楽家へと方向転換されて、戸惑ったりされたことは?
3 、4歳からピアノを始めて最初に叩き込まれたのが、楽譜に忠実にということと、作曲家に対するリスペクトの2つでした。例えば、バッハの楽譜を練習していると、ある部分に注釈が付いていて、「この箇所はオリジナルの楽譜の記号がシャープなのかナチュラルなのか判別できないため、半世紀以上、学者の間で議論が続けられている」とか書いてあったりして、半音違うだけで!と、幼い私は衝撃を受けたものです。そういうわけで、楽譜に書いてあること以外やらないというのは絶対でした。
一方、オペラの場合は、作曲家が歌手と一緒にオペラの稽古に立ち会って、歌手の様子を見ながらこの音はこうやって変えちゃおうと言いながら変更を加えたり、カデンツァ(見せ場)を勝手に歌手の方が変えてしまうなど、楽譜を変えることに対する抵抗が少ないんですよね。これは始め、私にとって全く信じられないようなことでした。
海外でご活躍されるきっかけとなったのは?
1997年に、世界三大テノールの一人、プラシド・ドミンゴさん主催の国際オペラ・コンクール「オペラリア」に最年少で入選した際に、ドミンゴさんが「麻子はまだ海外で勉強したことがないのかね?早く行きなさい」と言って下さったのです。私はそのとき、ロータリー財団の奨学生としてイタリアで勉強することが決まっていたのですが、ドミンゴさんの「米国に行きなさい。国際的な歌手になるのだったら、英語は絶対必要だし、米国は素晴らしい教育をしているから」というお言葉に従い、留学先を急遽米国に変更しました。マネス音楽院というニューヨークにある大学に入学しまして、それ以来、ずっとニューヨークを拠点に国際的に活動しています。
「マダム・バタフライ」を歌われるのは2008年のウルグアイのソリス歌劇場以来だそうですが、このオペラは田村さんにとってどのような作品ですか?
「マダム・バタフライ」の公演自体まだこれが2回目なんです。実は私がニューヨークで活動し始めた頃、バタフライを歌わないかと誘われたことがあったのですが、その当時は、プッチーニはヘビーな声の人を想定して曲を書いているのに、決してヘビーな声とは言えない私が歌うのは、作曲家に対する大冒涜(ぼうとく)だとさえ思い、即お断りしました。その後も何度もオファーはありましたが、私には、自分が日本人だからという安易な考えでオファーが来ているように思われ、歌の先生も、まだ早すぎるとおっしゃっていたので、ずっと歌わずにきていました。
ただ2008年のウルグアイのときは、先方がオーディションなども抜きで、ぜひ私に演じてくれとのことでしたし、私もそろそろ歌ってもいい頃かもしれないと思い、ついに挑戦しました。そして予想以上に歌えることに気がついたんです。大変でしたが、非常にやりがいのある役でした。
数々のオペラを演じてきましたが、役というものは、回数を重ねるほどにそれに対する解釈や共感が深まります。今回のバタフライはまだ私にとって2回目ですので、まだこの場面はこうあるべきといったキャラクター像が固まりきっていません。だからこそ、この役を演じること自体が新鮮で、私の蝶々さんのイメージとデービッド・フリーマンの提示する像とをブレンドさせつつ理解を深めるという過程を楽しんでいます。
このオペラの中で最も好きなシーンを教えてください。
第2幕ですね。花の二重唱と呼ばれる直前の箇所。3年間ずっと待っていたピンカートンの船の煙を海の向こうに見つけ、「愛する人がついに私のもとへ帰ってきた、やはり信じていてよかったんだ」と感激するシーンです。実際には彼女は勘違いをしていて、ピンカートンは彼女のために帰ってきたわけではないのですが、ここが劇中、彼女にとって一番幸せな瞬間なのです。音楽との相乗効果で、演じている私自身もうれしくなりますし、お客さんからも拍手が湧き上がりやすいシーンです。