1月10日(木)に開業150周年を迎えるロンドン地下鉄。遅延やストライキ、週末の補修工事に値上げなど様々な問題を抱えながらも、ロンドン市民たちを運ぶ公共交通機関として長い歴史を築いてきたロンドン地下鉄にクローズアップしてみた。
取材・文/長野 雅俊
人込みと臭いにまみれた都市、ロンドン
ここは産業革命を経て、「世界の工場」として君臨する大英帝国の首都、ロンドン。1851年の時点で230万人余りの人口を抱え、街は既に飽和状態にあった。
混雑した道路を、せわしなく行き交う馬車が残していく大量の馬糞と、それに飛び交うハエ。飲料水、下水の区別なく使われていたテムズ河を渡る蒸気船は河水の汚染を一層すすめ、あまりの臭いに橋を渡る人々はハンカチで鼻を被うほど。また、乱立する家屋やオフィスは新たな鉄道の建設を阻み、郊外からの交通費さえ払えない労働者達の生活環境は、都心部にスラムを生んだ。これらの都市問題を解決する、何か決定的な対策が必要なのは誰の目にも明らかだった。
数々の斬新、奇抜なアイデア登場
派手なデザインで知られた庭師、サー・ジョセフ・パクストンはその名も「グレイト・ビクトリアン・ウェイ」というショッピング・アーケードを作り、その上をガラス張りにして電車を走らそう、なんて企画を出した。ちなみに予算はしめて3400万ポンド也。他にもいくつか似たようなものがあったが、財布の紐の固い当時の政府の了解を得ることはなかなか難しかった。
しかし1852年、ランベス地区の下院議員で、事務弁護士でもあったチャールズ・パーソンが提案した「アーケード・レイルウェイ」は議会の承認を得て、これが現在の地下鉄の原型となる。「スラムを排し、郊外の安価な労働力をロンドン中心に集めよう」という彼の主張が多くの投資家達の心をつかんだからだ。
建設スタート。続出する不満、批判
そして早速メトロポリタン・レイルウェイという民間会社が設立され、1860年にはついに着工。工事にはカット&カバーと呼ばれる工法が用いられた。これはその名の通り道路をまず深く掘り下げ、線路を敷いてから蓋を閉めるように塞いで屋根を覆うというもの。
ちょっとここで想像してみて欲しい。大型機械を携えた労働者達が、「これから地下に列車走らせるんだ」と家の前の地面を掘っていく光景。現代の、ちょっとした道路の補修工事だけでも結構な渋滞や不満が生まれるのに、当時の混乱は計り知れない。
実際、なんの馴染みもなかった「地下を走る列車」に懐疑的な人は少なくなかった。
タイムズ紙はこの計画を「空飛ぶ自動車と同じくらい馬鹿げた、常識外れなユートピア」と呼び、「この不潔なロンドン地下の暗闇を、一体誰が喜んで旅しようと思うであろうか」と痛烈に批判。さらに伝道者であったドクター・カミングは、「悪魔が住みつく地獄の地底を掘り起こすことで、世界の終末は一層早められるであろう」と警告を発している。
そして世界初の地下鉄完成
工事開始から3年、様々な批判や中傷、苦難を乗り越え、世界初の地下鉄はついに完成。1863年1月9日のお披露目会では700人のゲスト達に迎えられる。その招待リストの中には、時の首相であった79歳ロード パーマストンの名も含まれていたが、「わしはもうちょっとだけ地上での生活を楽しみたいのじゃ」とのコメントと共に辞退。また企画者のチャールズ・パーソンは完成を見る前に既にこの世を去っていた。
翌日の10日には一般市民に開通。その物珍しさから、初日だけで3万3千人もの利用客の大盛況。始発駅であるパディントン駅とファーリンドン駅で既に満員になってしまい、途中駅からの乗車は全くできないほどだったという。
「地下深く潜るシールド工法での地下鉄建設は、多大な犠牲を生みました。工事中の度重なる事故で、指を切断されたり、肩を砕かれたり、時には死んでいく労働者達さえたくさんいたのです。また地下特有の地質から発生する汚れた空気を吸って、肺を患う人は特に多かったようです。さらにトイレ代わりに使ったバケツの周りを何十匹ものネズミが駆けずり回る中で1日12時間、週6日働く環境は、たとえ給料が良かったとはいえ過酷そのものでした。現在のロンドンの地下鉄は、そんな彼らの労働の上に成り立っているのです」。
ロンドン交通博物館 ジョン ハートランドさん
工事現場を再現した人形に混じり、当時の様子を語ってくれる
煙だらけのトンネル
多くの人の驚きと興奮でその登場を迎えられた地下鉄は、同時にいくつもの深刻な問題を抱えていた。
まずはカット&カバーと呼ばれる開削式による工法。地中にはガス、電気を通すパイプが引かれており、掘れるスペースには限りがあった。また誤って水道管を切ってしまい、洪水になることもしばしばあったという。
さらに地上から掘り起こさなければならないため、立ち退きや土地の買収問題には常に悩まされた。穴を埋めた後は、その地域一帯の補償に関する訴えが待ち構えていた。
そして当時はまだ蒸気機関車の時代。トンネルの中では煙だらけで信号機が見えなくなる時もあるほどだったという。そこで考え出されたのが、シールド工法と電気機関車であった。
地下鉄開通当時の車内/ロンドン交通博物館
いよいよ、チューブの誕生
シールド工法とは、シールドと呼ばれる筒状の掘削機を、地中に押し進めながら土砂を掘り出し、トンネルを組み立てていくというもの。その結果断面は円形になり、いわゆる「チューブ」が出来上がる。この方法はロンドン特有の柔らかく、湿った土を支え、路上の生活を乱すことなく地下鉄建設を進めることを可能にした。
また列車の電気化のため、自前の発電所を始発駅であったストックウェルに設立。これは当時の英国で最大のものだった。
こうして1890年、シティから南にテムズ河を潜り抜けるシティ・サウス・ロンドン・レイルウェイが開通。人々に新たな科学技術の成果を見せつけた。
こうやって、現在もチューブの呼び名で親しまれている、新しい地下鉄の時代が幕を開けた。
長い歴史の合間の1コマ
ロンドンでの地下鉄が誕生するまでの物語は、日本での幕末期に重なる。黒船来航、安政の大獄、薩長同盟など、国が大きく揺れ動いている時代であった。
やがて時は流れて世界は2つの大戦を迎えることになる。第1次大戦時の空襲の際には政府が禁止したにもかかわらず、防空壕として30万人もの人が一夜を明かすことがしばしばあった。
第2次大戦の折には、地下へと避難する市民の混乱を避けるためチケット制を取ったが、ダフ屋が横行するほどまでの盛況ぶりだった。地下鉄構内には図書館が設置され、200にも及ぶ社会人講座が開かれ、演奏家がどこからか運び込まれたピアノを弾き、ダーツ選手権まで開催された。また医者を始めとした周りの人に見守られながら、出産を迎える婦人も少なからずいたという。
さらにチャーチル首相はドイツのスパイを避けるため、会議に地下鉄の駅を使ったとの記録も残っている。
そして現在へと続く問題
戦後、ロンドンの地下鉄はすぐに国有化された。しかし長い期間をかけ、地味な成果しかあがらない整備に政府の関心はなく、地下鉄の設備は悪化の一途を辿った。現在はそのツケを払わされているといってもいいだろう。また実はチューブはその歴史上、経済的な成功を謳歌した時期はほとんどない。
2003年からは、ロンドン地下鉄の運営形態がパブリック・プライベート・パートナーシップ(PPP)へと移行。地下鉄の運営を公共事業に位置付けながらも、整備、資金調達などの仕事は民間会社に振り分ける方式であったが、やがてこれら民間会社がロンドン交通局の管理下に置かれるなどして、現在ではこのPPPは形骸化している。
そして、例年通り、2013年の年明け後に再び実施された運賃の値上げ。地下鉄の遅れは今でも頻繁に生じているとの印象も拭い切れない。現代のロンドン地下鉄を取り囲む環境が改善されるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「トンネルの中ってね、とっても暗いの。そんな中、1日中1人っきりで運転しているから寂しい気持ちになることもよくあるわ。光るものは信号機だけしかない暗闇をずっと走っていると、突然遠くの方に駅の明かりが見えるの。まるで天国に続く道かと思うくらい感動するわよ。あとね、いくつかのポイントで、今は使われていない昔の駅とかが見えたりするの。長く働いている先輩達がどんな風だったか話してくれるのを聴いたりすると、つくづく地下鉄の歴史を感じるわよね。電車が遅れているとき、よく“信号機故障”ってでていると思うけど、実際は換気装置の故障だったり、その他トンネル内での不備だったり…。様々な角度からの問題解決が要求されるわ。基本的にその時私は運転席で、コントロール室からの指示を待っているしかないの。とにかくすごく複雑なシステムを管理している彼らには頭が下がるわ」。
ノーザン線の運転手 ジャクリーン・キャンベルさん
「ロンドンの地下鉄っていいね。地下で歌うとうまいこと音が響いてとっても具合がいいんだ。それとやっぱりたくさんの人が毎日通っていくからね。多くの人の前で大好きな歌を披露し、気に入ってもらえればお金をもらえる。絶好のステージってわけさ。
そんな俺を追い出そうとする構内放送が時々流れるけど、まあ気にしちゃいないね。だって駅員の中でも俺の歌のファン、いるんだぜ。
稼ぎはどうかって?そうだな、数年前のクリスマスに1日で£60稼いだことがあったな。でも家に帰るまでの電車賃さえ集められない日もたくさんあるよ。よくこの辺りで歌っているから、また会いに来てくれよ」。
ピカデリー・サーカス駅で歌っていたボブさん
ロンドンの地下鉄 |
年
| その頃の日本の出来事 |
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チャールズ・パーソン、「アーケード・レイルウェイ」を提案 | 1852年 | |
1853年 | アメリカの海軍提督ペリー、黒船を率いて浦賀に来航。 | |
現在のメトロポリタン線とハマースミス&シティ線にあたる、世界初の地下鉄がパディントン駅〜ファリンドン・ストリート駅間に開通。 | 1863年 | 前年に起きた生麦事件を発端とした、薩英戦争勃発。 |
1867年 | 大政奉還が行われる。 | |
現在のディストリクト線にあたる鉄道がサウス・ケンジントン駅〜ウエストミンスター駅間に開通。 | 1868年 | |
1871年 | 廃藩置県が行われる。 | |
当初歩行者通路だったテムズトンネルを利用して、現在のイーストロンドン線にあたる鉄道がショーディッチ〜ニュークロス間に開通。 | 1876年 | |
犬猿の仲にあったメトロポリタン線とディストリクト線が協力し、現在のサークル線にあたる環状線を完成。 | 1884年 | |
1889年 | 大日本帝国憲法発布。 | |
現在のノーザン線にあたる、初のチューブがキング・ウィリアム・ストリート駅〜ストックウェル駅間に開通。 | 1890年 | |
ウォータールー&シティ線開通。 | 1898年 | |
現在のセントラル線にあたるチューブがシェパード・ブッシュ駅〜バンク駅間に開通 | 1902年 | 日英同盟が締結される。 |
現在のベイカールー線、ピカデリー線にあたるチューブが開通。 | 1906年 | |
第1次世界大戦。一晩で30万人もの市民が防空壕として利用する。 | 1914-18年 | |
1927年 | 浅草〜上野間2.2キロ(東京地下鉄道株式会社)に現在の銀座線にあたる日本初の地下鉄が開通。 | |
第2次世界大戦。防空壕として利用する市民の混乱を避けるため、チケット制が取られる。 | 1939-45年 | |
1964年 | 東京オリンピック開催。 | |
ヴィクトリア線開通。 | 1969年 | |
ジュビリー線開通。 | 1979年 | |
ドックランズライト・レイルウェイ開通。 | 1987年 |
乗合馬車に始まるロンドンの交通全般を扱ったこの博物館では、地下鉄関連の展示もたくさん。歴史を映し出す貴重な写真だけでなく、実際使われていた列車が丸ごと展示されていて、鉄道ファンならずとも舌を巻くはず。
London's Transport MuseumCovent Garden Piazza
London WC2E 7BB
Tel: 020 7379 6344
最寄駅: Covent Garden
開館時間: 10:00‐18:00(金は11:00から)
料金: £18.50(年間チケット)
www.ltmuseum.co.uk
(本誌2003年9月4日号掲載、一部改訂)