香港で大規模デモ、19世紀から続く英国との関係とは -「一国二制度」は高度な自治を約束する?
先月、香港で大規模デモが発生しました。その様子は連日メディアで報道されましたので、皆さんも注目していたことと思います。
数十万人~100万人が参加したとされるデモの目的は、中国本土への容疑者の引き渡しを可能にする「逃亡犯罪条例」改正案への抗議です。この条例は、香港以外の国や地域で犯罪行為を行い、逃亡してきた容疑者について、協定相手の要請に応じて引き渡しを可能にします。この中に「香港以外の中国には適用しない」という条項があり、改正案はこの条項の廃止を目指していました。
香港は、1997年に中国に返還されるまで英国の統治下に置かれていました。市民社会の自由や司法権の独立を維持する「高度な自治」を約束する「一国二制度」の原則が適用されてきたのですが、改正案が実施されれば、中国本土への容疑者移送が可能になり、香港市民の自治が脅かされる恐れが出てきました。デモ参加者の中には、中国政府に批判的な民主活動家が移送される可能性や、司法の独立が崩壊すると主張する人もいます。デモの盛り上がりや、警察が参加者に催眠弾を発射する場面が世界中に報道されたこともあって、香港政府は条例改正作業の停止を発表しました。香港議会(「立法会」)の会期が終わる来年7月に改正案を廃止する予定ですが、参加者らは「完全撤回」を求めて抗議活動を続けており、中国返還記念日に当たる1日、デモ隊の一部が立法会の庁舎内に突入。2日未明、警察がデモ隊を強制排除しました。
香港とは香港島、九龍半島、新界や周囲の230以上の島を含む地域を指します。その面積は東京23区の約2倍で、人口は約745万人。世界で最も人口密度が高い地域だそうです。
この地域が中国の支配下に入ったのは、紀元前3世紀ごろ。やがてその運命が大きく変わるのは19世紀に入ってからです。 英国と中国・清朝との間で、清朝のアヘン貿易禁止をめぐるアヘン戦争(1840~42年)が勃発、戦争終結のために結ばれた南京条約により、香港島は英国に割譲されました。さらに1856年には第二次アヘン戦争(アロー戦争)が起き、同60年の北京条約で九龍半島南部が新たに英国に割譲。20世紀になると、1941年に太平洋戦争(米英など連合国軍対日本の戦争)が始まり、香港は日本軍の占領下に入りました。日本の敗戦によって、英国の植民地に復帰したのは1945年です。
戦後、 繊維産業が代表する軽工業の盛んな地域として発展し、70年代以降はハイテク産業が牽引役に。香港は「アジアの虎」と呼ばれる経済力の源となりました。
80年代に入って、英国と中国は香港の将来について協議を開始。84年、両国政府は共同声明に署名し、97年の返還と「香港特別行政区」を置くことが定められました。同区では香港の現行の社会・経済制度、生活様式は変わらず、行政管理権、立法権、独立した司法権を持つことが特別行政区基本法で規定されました。これには「返還後50年変えない」ことも含まれたのです。
こうした基本法が脅かされる事態が生じると、香港市民はこれまでも抗議デモで民意を示してきました。2014年には香港行政長官の民主的な選挙を求めた大規模デモがありましたが、参加者が警察の催眠ガスを雨傘で防いだため「雨傘デモ」と呼ばれましたね。この時は警察による参加者の強制排除で終わってしまいましたが。
最後の香港総督を務めたクリストファー・パッテン氏は今回のデモを受け、「ガーディアン」紙上で英国を含む世界中の政府に改正案の撤回を求めるよう呼びかけました(6月14日付)。
一方、その2日前にジェレミー・ハント外相は両方の側に「落ち着き、平和的に」行動するよう求めています。デモ隊による立法会占拠では香港の自由への支持を表明しながらも、デモ参加者に「自制」を呼びかけました。