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Fri, 27 December 2024

第38回 ブレッド・ストリートの偉人たち

シティのブレッド・ストリートはその名の通り、中世ではパンの販売街でした。「人はパンのみにて生きるにあらず」(キリスト)とか「涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味は分からない」(ドイツの文豪ゲーテ)といった人生とパンに纏わる名言があるだけに、この通りで生まれた者は、世の辛酸甘苦を味わい、人生の意味について熟慮した人が多いに違いありません。そう、詩人のジョン・ダン然り、ジョン・ミルトンもまた然り。

詩人ジョン・ダンの胸像
詩人ジョン・ダンの胸像

有名小説の題名「誰がために鐘は鳴る」はダンの「瞑想録」から引用されましたし、ミルトンの「失楽園」は英国文学最高の叙事詩と讃えられます。ダンもミルトンも、国王大権による宗教の迫害に反対し、内面の自由という近代精神の萌芽を提供しました。特に清教徒革命を支持したミルトンは共和政政権下で外国語担当秘書官に抜擢されますが、王政復古後には投獄され、失明の憂き目に遭いながらも口述で「失楽園」を書きました。

現在のブレッド・ストリート
現在のブレッド・ストリート

ミルトンの没後から半世紀以上過ぎますと、英国も大きく変わります。海外植民地が増え、貿易が拡大し、人口が急増。この通りにはドイツ人教師のフィリップがやって来ました。ここで息子のアーサー・フィリップが生まれます。早々に父を亡くした彼は小学校を出ると丁稚奉公に出て、海軍に入隊。黙々と業績を築き上げますが、50歳を目前に予想外の指令を受けます。オーストラリアへ大量の囚人を移送し、新しい植民地を建設せよ、と。

ジョン・ミルトンのプラーク
ジョン・ミルトンのプラーク

英国の監獄はいつも満杯で、1717年の流刑法後、囚人は北米の植民地に送られていました。しかし18世紀後半に米国が独立するとその受け入れを拒否され、代替先に選ばれたのがオーストラリアだったのです。長期の航海を乗り越え、囚人の労働力で植民地を建設する国家プロジェクト。父から受け継いだ教師の血が騒いだのでしょうか。初代総督となった彼は、「全員が新天地で生まれ変わり、新しい土地を開拓しよう」を旗印に、大成功を収めます。

アーサー・フィリップらによるシドニー上陸の様子
アーサー・フィリップらによるシドニー上陸の様子

今日のオーストラリアがあるのもアーサーのお蔭。偶然にも彼が出港した1787年、日本では長谷川平蔵が火付盗賊改方に就任し、人足寄場(更生施設)を石川島に作りました。鬼平も罪人を捕まえるだけでなく、更生させることが大事と認識していたのです。運命のように「与えら れたもの」に対してどういう態度をとりながら生きるかで、その人の人生の真価が問われます。ダンが説くように――「誰がために鐘が鳴るやと。そは汝がために鳴るなれば」――鐘の音は他人事ではなく、自分に鳴っているのです。

フィリップ総督のメモリアル
フィリップ総督のメモリアル

 

シティ公認ガイド 寅七

シティ公認ガイド 寅七
『シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫


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