2023年7月5日で設立75周年人々の健康を支えるNHS
病気やけがをしたとき、私たちがお世話になるのはNHS(国民医療制度)の病院だ。在英者にとってなくてはならないNHSが、7月5日で創設75周年を迎える。本特集を通して私たちが平等に無料で受けられる医療制度が生まれた経緯やその組織の大きさ、また現在の状況を知っていただき、当然のように存在するNHSのありがたみを再認識するきっかけとなれば幸いだ。(取材・執筆: 英国ニュースダイジェスト)
参考:www.gov.uk、www.bbc.co.uk、www.theguardian.com、www.ft.com、www.nhs.uk、www.healthcareers.nhs.uk ほか
目次
NHSとは
「National Health Service」の略称で、「国民医療制度」のこと。税金で運営され、英国に住む人は歯科など一部の医療を除き、基本的に無料で医療サービスを受けられる。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの四つの地域に分かれて別々に運営されており、「NHS」はこれらのサービスの総称。大まかな制度は同じだが地域ごとにサービスが若干異なる。英国人だけでなく合法的に英国に滞在する外国人も加入でき、利用には滞在ビザ申請の一環で医療追加料金(Healthcare Surcharge = Immigration Health Surcharge =IHSとも呼ばれる)を大抵の場合支払わなければならない。金額は年間470〜624ポンドとビザの種類によって異なる。
なお、アイルランドを除く欧州、スイス、ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインの出身者は、①2020年12月31日以前に英国に居住、②定住前(英国に5年未満居住している人が対象の一時滞在許可)、または定住ステータス(5年以上移住)を申請している場合、引き続きNHSでの医療サービスを利用できる。
NHSとはどんな組織?
巨大な組織であるNHS。その成り立ちや仕組みは複雑で、実に多くの人が携わっている。まずは三つの観点から組織の全体図を簡単に見てみよう。
「歴史」から知る
1948年に誕生したNHSは、不十分な医療制度の改革の必要性を感じたさまざまな人々による努力の結晶だ。20世紀初頭の英国は、貧困と失業にあえぐ都市労働者であふれていた。社会主義者のベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)は、1909年、ヴィクトリア時代から続く貧民法に代わる新しい法律が必要だと提案。王立救貧法委員会(Royal Commission on the Poor Laws and Relief of Distress)の少数派報告書(Minority Report)に「社会の貧困を貧しい人々のせいにするのは間違いである」と強く主張したものの、当時の政権はこの勧告を無視し、聞く耳を持たなかった。
しかし、「National Health Service」という言葉を初めて使ったといわれている英北西部リヴァプールのベンジャミン・ムーア医師をはじめ、同報告書の賛同者が立ち上がり、1912年に英国の医師によって医療サービスを向上させることを目的とした「州医療サービス協会」(the State Medical Service Association)が設立され、1912年に最初の会合が開催された。
イングランドとウェールズにおけるNHS立ち上げに関するリーフレット
NHSの原型が生まれる前は、医療費は患者の自己負担で、医療サービスは限られた人にしか提供されていなかったが、税金を納めた住民のために病院を運営する一部の地方自治体もあった。やがて、1930年からロンドン・カウンティ議会が約140の病院や医学校、そのほかの関連機関の運営責任機関となり、第二次世界大戦の直前まで医療分野の公共サービスを提供。しかし利用は納税者に限られていた。健康保険制度を扶養家族まで広げるべきだという議論が繰り広げられていたが、大戦が始まると負傷者の手当てを行う政府直下の救急病棟の運営で手一杯に。しかし、膨大な死傷者を想定しそれまで個々に管理されていた寄付金が財源の病院(voluntary hospitals)が一本化され、奇しくも戦争によってNHSの前段階の準備が整っていった。
一方、戦時下の保健省(現在のDepartment of Health and Social Care)でも一般市民が医療サービスを受けられる政策がまとめられ、1942年に社会保障制度拡充のための報告書「ベヴァリッジ報告書(Beveridge Report)が完成し、社会保障制度の礎となった。45年に保健相に就任したアナイリン・ベヴァン(Aneurin Bevan)が、1948年7月5日に、全ての人々に支払い能力ではなくニーズに基づいた医療サービスを無料で提供することを発表し、税金を財源とする国民保健制度としてNHSがスタートする。以降生活になくてはならない存在として英国に住む人々を支え続けている。
アナイリン・ベヴァン保健相
「世界初」から知る
医療制度の改革のみならず、NHSはこれまで革新的な医療や治療をいち早く提供してきた。その一部を紹介しよう。
人間の体外受精
1978年
パトリック・ステップトー博士と生物学者ロバート・エドワーズ博士のチームが体外受精胚移植(IVF-ET)を成功させ、「試験管ベビー」と呼ばれた健康な女児が誕生した。
世界初の体外受精によって生まれたルイーズ・ブラウンさん。現在は2人の子どもの母親だ
心臓、肺、肝臓の移植に成功
1987年
ケンブリッジのパップワース病院のロイ・カルン教授とジョン・ウォールワーク教授が、疾患を抱えた女性に心臓、肺、肝臓の移植を行う。偉大な成功を収めた当の二人は「いつもの仕事をしただけ」とかなり控えめだったとか。
無料の乳がん検診
1988年
乳がんによる50歳以上の女性の死亡者数を減らすために導入。その後10年で死亡率は25〜30パーセント下がった。
髄膜炎C型菌のワクチン使用開始
1999年
髄膜炎による総死亡者数を半減させるために髄膜炎菌のC群に対する新しいワクチン接種プログラムを開始。既存のワクチンに比べ、長期間の予防効果があり、乳児にも使用できた。
PrEP療法の導入トライアルを開始
2017年
PrEP(プレップ)とは、性交渉する前からHIVの薬を内服し、HIV感染のリスクを減らすHIVの予防方法のこと。広範囲のデータを集めるため1万人を対象に3年かけてトライアルを実施した。
「数字」から知る
保健省がNHSのために支出した額
(2021/22年度)
GP(General Practioner=GP、かかりつけ医)、救急車、メンタル・ヘルス、NHSから委託された地域サービスや病院、公衆衛生など、幅広い医療およびケア・サービスを運営するために使われた。
NHS予算でNHS職員の人件費*が占めた割合
(2021/22年度)
支払い総額は662億ポンド。これには一般開業医であるGP、保健省などの国家機関やNHSイングランドで働くスタッフの給与は含まれていない。
*フルタイム相当の平均年間基本給に基づく
緊急外来(A&E)での1回あたりの利用でかかる費用
税金を納める市民には請求されない。緊急ケア・センターやウォーク・イン・クリニックまでその形態はさまざまだが、2022/23年度の費用形態でより細密な検査と治療を受ける場合は418ポンド〜。
NHSの緊急対応999サービスがひと月に応答した件数 (2021年10月)
当時は新型コロナウイルスによるロックダウンが解除されて数カ月が経過したころで、コロナ・ワクチンのブースター接種が始まった時期でもあった。
救急車でA&Eまで行く費用
現場へ向かったものの、A&Eへの搬送に至らなかった場合の出動費用は推定平均276ポンド。
GPで平均9分間の対面診察にかかる費用
(2021/22年度)
出典: www.kingsfund.org.uk/audio-video/key-facts-figures-nhs、www.england.nhs.uk/2021/11/nhs-responds-to-highest-number-of-999-calls-on-record
NHS、4つの地域の仕組み
医療サービスはその地域のニーズに合わせて、柔軟に対応する体制になっている。
● イングランド
患者および治療の種類ごとに設定された料金表に基づき、保健省から資金提供される。医療サービスはNHSトラスト、財団トラスト(メンタル・ヘルス、救急車の稼働を含む)、また一部の慈善団体や社会的企業を通じて提供。イングランドのGPは、国民の健康ニーズを満たすための計画の策定や予算の管理、特定地域の医療サービスの提供の手配を担当する組織、地域の統合ケア委員会(Integrated Care Boards= ICB)の一員として稼働する。ロンドンやイースト・オブ・イングランドなど7地域のローカル・チームがGP、歯科、薬局、一部の目に関するサービスを行う。セクシャル・ヘルスや健康診断などの公衆衛生は、政府機関である健康改善・格差局(the Office for Health Improvement and Disparities)と一部の地方自治体によって整備される。一部の人を除き、処方箋は有料。
www.england.nhs.uk
新型コロナウイルスが猛威を振るっていた2020年4月、NHSの文字を入れ替え「SHN」(Stay Home Now)というロゴの知名度を利用した広告が作られた
● ウェールズ
英政府から受け取る補助金を、NHSウェールズを含むさまざまな医療機関に分配して運営。七つの地域ごとの保健委員会と三つのNHSトラストを通じてサービスを提供し、保健委員会は患者などを代表する地域保健協議会と協力、三つのトラストはそれぞれ緊急サービス、がん治療の専門医療、公衆衛生の責任を負っている。ウェールズでは全ての患者の処方箋が無料。
www.nhs.wales
病院名はウェールズ語が併記されている
● スコットランド
地方分権として英政府から受け取る補助金を受け取り、NHSスコットランドなどさまざまな医療関連の部門へ分配し運営。NHSスコットランドは14の地域ごとの保健委員会と、救急車や緊急医療サービス電話、医療教育など専門のサービスを提供し保健委員会をサポートする八つの特別NHS委員会で構成され、住民の健康維持と改善、また最前線の医療サービスの提供に責任を負う。各保健委員会には公衆衛生部門が設けられているほか、特別保健委員会のスコットランド公衆衛生(Public Health Scotland)がスコットランド全体の公衆衛生のあらゆる側面をカバー。輸血サービスや医療環境・機器に関するアドバイスを提供する健康保護スコットランド(Health Protection Scotland)もスコットランド公衆衛生の一機関として運営されている。
同NHSは、イングランドやウェールズが保健相(Minister of Health、現在はSecretary of State for Health and Social Care)の名の下に設立されているのに対し、1948年にスコットランド省(現スコットランド政府)の大臣の監督のもとに、行政的に独立した組織として設立された経緯がある。スコットランドでは全ての患者の処方箋が無料。
www.scot.nhs.uk
1948年、NHSの開始に先立ってスコットランドで配られたパンフレット
● 北アイルランド
医療とソーシャル・ケアが統合された健康と社会的ケア(Health and Social Care=HSC)を通じてサービスを提供。英政府からの補助金を受け、北アイルランド政府の保健省(the Department of Health=DoH)が同地の人々の健康と社会福祉を改善することを目的に、政策を制定する。日常生活での軽度のけがや病気に対する一次医療、入院治療を必要とする重症患者の医療を担当する二次医療、および地域医療の提供を担当する、保健省管轄下の医療社会福祉委員会や地域ごとの五つの医療社会福祉トラスト、また北アイルランド全土に救急車サービスを提供するトラスト、公衆衛生庁などさまざまな公的機関で構成。地方自治体には公衆衛生に関する責任はなく、主に北アイルランド保健省とその執行機関である公衆衛生局が負う。処方箋は無料。
1797年からあるベルファストのロイヤル・ヴィクトリア病院
4つの地域が別々に医療サービスを提供する背景
NHSは4地域の包括的な呼び方で、医療制度が異なる北アイルランドは厳密にはNHSとは呼ばない。1948年にNHSが創設されたとき、イングランドとウェールズは一括管理されていたがウェールズは69年に、スコットランドと北アイルランドは48年に別の組織として設立された。1974年まで地方自治体はプライマリー・ケア・サービスとソーシャル・ケアの管理を担当。その後、99年7月1日に公共サービスの権限がスコットランド議会とウェールズ議会へ、同年12月2日には北アイルランド議会に完全に移譲。各当局は、医療サービスの提供や計画など、NHSのシステムや資金提供の管理が含まれていた。
NHSが直面する課題
素晴らしい仕組みの裏で、運営側はたくさんの問題を抱えている。連日伝えられているNHSの実情について見ていこう。
健康寿命が伸びる=患者数が増える
NHSが直面する主な五つの課題は、①資金不足、②スタッフの不足、③待機リストの長さ、④高齢化社会、⑤時代によって変わるケアのニーズで、これらは相互に複雑に絡み合った根深い問題となっている。ここ数十年の目覚ましい医学の進歩により、さまざまな医療機器や医薬品の開発が進み、人々の平均寿命は大幅に伸び、高齢化社会が進んでいる。65歳以上の患者の多くが二つ以上の疾患を抱えており、さらに全入院患者の約3分の2を占めているのが現状だ。
このような状況に対応し、さらなる資金を現場に供給できるよう、NHSの予算は毎年インフレ率の平均4パーセントを上回る増額が行われてきた。しかし、連立政権となる第1次キャメロン内閣が誕生した2010年以降、平均年間増加率は従来の半分に留まっており、万年資金不足の状況にさせられている。
引用元:www.bbc.co.uk/news/health-64190440
疲弊する現場スタッフ
NHSのスタッフ不足もかなり深刻だ。現在の欠員率は10パーセントで、「タイムズ」紙によると、人口の高齢化に伴い、人員不足率は今後5年間で4倍になる可能性が十分に考えられるそう。NHSは政府に医学部の定員7500人を2倍に増やすよう要求中で、実現すれば新たに六つの医学部の新設が必要になると想定。しかしこの計画を実行するには財務省からの多額の投資金が必要となるので、実現はかなり難しいとされている。
また、NHSイングランドでは医療とソーシャル・ケアが別の組織によって運営されており、前者はNHSが、後者は地方自治体が担当している。ソーシャル・ケアの方でも慢性的な人員不足が続いていることから、病院を退院し、自立して回復を目指す患者の半数以上がソーシャル・ケアのサービスを受けることができないことを意味しており、そのために退院が延長され病院のベッドが占領され続ける負のスパイラルに陥っている。さらに、「オブザーバー」紙によると、イングランドの救急隊員はストレスが少なくより給料の良い仕事を求めて退職している。特にイングランド南部では5人に1人が就労後1年以内に退職するほど深刻だ。
膨れ上がる待機リスト
また、入院や手術を待つ患者の待機リスト「waiting list」は現在730万人を超えている。保守党は23年4月までに手術を18カ月以上待っている約1万人の患者をなくす公約を立てていたが、結局実現できなかったとスティーブ・バークレー保健長官がつい先日認めたばかり。この730万人という数字は、新型コロナウイルスの影響を受け、何か症状があっても病院に行くことを躊躇したり、我慢している人を含まないため、いざ待機リストの数が減少し始めた途端、数字が跳ね上がる可能性も十分に残っている。待機リストに載る患者たちは、代わりに高額なプライベートの医療機関に行ったり、待機中に亡くなったりして、毎月その3パーセントがリストから消えている。
頻発するストライキ
人手不足をスタッフ同士で穴埋めするオーバーワーク状態が続いた結果、2022年12月に、NHSイングランドの看護師10万人が106年の歴史のなかで初となる全国規模のストを実施。国に対して異常なインフレに見合った19パーセントの賃上げを求めた。4月半ばにはNHSイングランドのジュニア・ドクターが、5月上旬には看護師のストライキがあったばかりだが、英国のシニア・ドクターも、ストライキを行うか否かを6月27日までの投票で決めようとしている。
英国医師会(BMA)コンサルタント委員会委員長のヴィシャール・シャルマ医師によると、生活費が高騰する前の2008〜09年にかけて、すでに手取りの賃金は35パーセントも減少しており、年間4カ月は無休で働いていることに等しい。
2023年4月、4日間のストライキを行ったジュニア・ドクターたち
NHSにまつわる豆知識
1. NHSは世界で8番目に大きい組織
NHSは世界最古の公的医療制度であるだけでなく、その従業員数も莫大だ。2021年5月のNHSの統計によると、医療スタッフから緊急通報担当者まで、従業員は合計約134万人。これは英国内では最大規模で、世界でも8番目に大きい企業体。アマゾンの全世界の従業員数130万人を上回っている。NHSは米国、インド、中国のような大国の組織と同規模のスタッフを雇用していることになる。
2. NHSのメイン・カラーはパントン300
「the blue lozenge」(青い菱形)のNHSイングランドのロゴは1999年から使用されてきた。公的統計調査によると、NHSのアイデンティティーとして「青と白色」を挙げた人が87パーセントもいたほど定着している。メイン・カラーはNHSブルーと呼ばれるパントン300で、ほかに4種の青の使用が許可されている。ロゴは法律で保護され、保健社会保障担当国務長官が所有する英国の商標である。
3. 外国国籍でも医療費がかからない人がいる
NHSは私たちの税金を使って運営されている。日本人を含む外国国籍の人が英国に合法的に住む場合は基本的にビザ申請時に医療費を支払わなければならないが、イングランドでは移民規則に基づいて保護を認められた難民や亡命希望者とその扶養家族、人身売買の被害者などは追加料金の支払いをせずに利用できる。また、英国軍に所属する軍人、ブリティッシュ・カウンシルの雇用者も無料だ。
4. 処方箋が有料なのはイングランドだけ
イングランドの現在の処方箋料は1枚あたり9.65ポンドで、16歳未満、60歳以上、入院患者など一部の人は支払いが免除されている。NHS創設時、処方箋は無料だったが、1952年に国民医療サービス法(National Health Service Act 1952)が制定され、1枚につき1シリング(現在の約1.85ポンド、約315円)が課されるように。その後引き上げや廃止などを経て1968年に有料になった。
5. 歯科の料金体系は地域ごとに設定
なぜ歯の治療は無料にならないのか……。正確にはNHSがすでにその大部分を負担し、残りを市民が負担する形になっているためだ。1951年にまず義歯が、52年に全ての歯の治療が有料となった。現在イングランドとウェールズでは三つのバンドによる料金体系、スコットランドと北アイルランドは最大384ポンドなど、サービスにより細かく料金が設定されている。
大まかな医療費を計算してみよう!
私たちに直接請求されてはいないものの、GPの予約やA&Eを利用するにはコストがかかる。NHSイングランドは2022/23年度で約1530億ポンドの委託予算をやりくりして医療サービスを提供してくれたが、巨額すぎて実感が湧かないのではないだろうか。金融サービス比較会社Go.Compareが独自に作った計算ツールを使うと、自分が受けた医療サービスのおおよそのコストが分かる。治療にどのくらいの費用がかかっていたかぜひ調べてみてほしい。
www.gocompare.com/health-insurance/the-bill-of-health
私たちは地元のNHS組織でボランティアをしたり、献血に参加したり、NHSをサポートする慈善団体に協力するなどして、NHSを支援することができる。詳しくはwww.england.nhs.uk/nhsbirthdayを参照ください。
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