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Wed, 15 January 2025

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来

映画誕生から130年。リュミエール兄弟が世界に初めて映像を映し出してから、映画は人々の夢や現実を映す強力なメディアとなってきた。特に欧州映画は、芸術性と社会的メッセージを両立させ、世界の映画史に多大な影響を与えている。この記事では、130年にわたる映画史を英独仏作品の視点から振り返りつつ、現代におけるその意義と、未来に向けた進化の可能性を探る。
(文・取材: 英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

1895-1920s
映画産業の創成期から黄金の20年代まで

映画の歴史的な始まりは、1891年に米国のトーマス・エジソンによって発明された映写機「キネトスコープ」とされている。これは箱型ののぞき窓から一人で映像を観ることができる機械だった。その後、1895年にフランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」は、スクリーンへと動画を投影する形のもの。一度に多くの人が鑑賞できるようになり、世界初の商業的な映画上映を行ったことから、現代につながる映画の起源とされている。

「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟トーマス・エジソンと並ぶ映画発明者であり、
「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟

初めての上映が行われたのはパリのグラン・カフェで、リュミエール兄弟による「ラ・シオタ駅への列車の到着」「工場の出口」など、ワンショットで撮影された50秒ほどのショート・フィルムが公開された。映画を観た観客たちが画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から逃げ出したという逸話も残っている。

映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、その翌年には各国でも上映されるようになった。作品にも徐々に筋書きや演出などが加えられるようになり、1902年に公開された「月世界旅行」は、世界で初めてのストーリーラインを持ち、複数のシーンで構成された映画だった。さらにカメラの動きや編集技術が発展することで、より複雑で面白い映画が作られるように。1920年にドイツで公開された「カリガリ博士」がシュルレアリスムにも大きな影響を与えたほか、監督・俳優として名をはせたチャールズ・チャップリンが誕生したのもこの年代である。

月世界旅行 監督・主演: ジョルジュ・メリエス月世界旅行 Le Voyage dans la Lune
1902年/16分/サイレント
監督・主演: ジョルジュ・メリエス
世界初のSF映画。天文学者たちがカプセル型の宇宙船で月に向かう

大きな画期となったのが、1927年に米国で世界初のトーキー映画として製作された「ジャズ・シンガー」だ。トーキー映画の登場によって、登場人物の声やセリフ、音楽が折り合わさり、物語の伝え方も大きく変化していく。1929年にはディズニー制作のアニメーション「蒸気船ウィリー」、シュルレアリスムの傑作と称される「アンダルシアの犬」が公開。欧米を中心とした映画文化が一気に花開いていった。

参考: MoMA「History and development of film」、フランスニュースダイジェスト1019号「映画誕120周年 リュミエール家の軌跡をたどる」

英国 1920s-
英国とハリウッドの切れない関係

巨大な米国映画産業の流入

1910年ごろまでにロンドンを中心に30を超える映画スタジオが設立されており、国内外で英国映画の市場は拡大を続けていた。ところが、より収入が見込める長編映画産業が米国で発展したことで、1920年代の英国でも米国の作品が多数上映されるようになる。国内の映画産業の未来を危惧した英政府は、市場を守るための数々の策を打った。そのうちの一つが質の高い映画製作を推奨した1938年の映画法で、米国はそれをうまく利用して英国に自国の映画スタジオを多数設立することに成功。1930年代にスタジオを作ったワーナー・ブラザーズなど、米大手スタジオが英国で活性化するきっかけの一つになった。

1950年、政府は映画のチケット価格の一定割合に自主的に課税するイーディ税を導入。米国の映画でも英国で製作すれば製作資金を政府から受け取ることができたため、ハリウッドのスタジオは英国での映画作りをさらに進めるようになり、ユニバーサル、パラマウントなど米大手の製作会社も英国に参入した。両国の公用語が英語であるため、黎明期から英国の映画産業は米国とどうしても切れない関係になっている。

英国と米国の才能の行き来

米国の映画が英国で製作されたように、より大きな市場を求めて英国人の監督が米国に拠点を移したり、英米の共同作品が両映画市場でヒットしたりと、英国は米国の映画産業にも多大な影響を与えてきた。

特に知られているのは、英米で50本以上の長編映画を監督したアルフレッド・ヒッチコック。製図工、広告デザイナー、ライターとしてキャリアをスタートさせたのち、ロンドンでの映画業界で働き始めたヒッチコックは、暗い題材や最後のどんでん返しなどを巧みに取り入れ、国内外でたちまち売れっ子の監督になった。1939年には家族と共に米ハリウッドへ移住。数々のヒット作の中には、同名小説を原作とした「サイコ」があり、映画内で使われた音楽は今でもホラーの演出として頻繁に使用されている。

サイコ Psychoサイコ Psycho
1960年/109分/英語
監督: アルフレッド・ヒッチコック
主演: ジャネット・リー
「サイコ」のカチンコを持つアルフレッド・ヒッチコック

デヴィッド・リーンがメガホンを取り、第30回アカデミー賞で作品賞を含む7部門を受賞した、タイのクウェー橋を舞台にした戦争映画「戦場にかける橋」は英米合作映画として知られている作品の一つ。俳優で映画監督でもある早川雪洲も出演し、日本軍の捕虜になった英軍兵と日本人大佐との交流を描き、人間の尊厳と戦争の凄惨せいさんさを描いている。

サイコ Psycho戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai
1957年/161分/英語、日本語、タイ語
監督: デヴィッド・リーン
主演: ウィリアム・ホールデン

サイコ Psycho「戦場にかける橋」で
クウェー川鉄橋の前に立つニコルソン大佐(アレック・ギネス)と
斉藤大佐(早川雪洲)。
クライマックスの橋の爆破シーンは特に有名

同じく英米共同出資で作られた作品で有名なのは、ロンドン生まれのキャロル・リードが監督したミステリー映画「第三の男」。米国人の作家が友人の依頼を引き受けるためにオーストリアのウィーンを訪れたが、友人が亡くなったことを知り、その死に関与していた3番目の男の正体を探る。リード監督は、デヴィッド・リーンと共に英映画産業を活性化させた。

サイコ Psycho第三の男 The Third Man
1949年/105分/英語、ドイツ語
監督: キャロル・リード
主演: ジョゼフ・コットン

参考: https://publications.parliament.uk

ドイツ 1930s-40s
ナチス・ドイツとプロパガンダ映画

映画界にも政治が積極的に介入

「黄金の20年代」と呼ばれたワイマール共和国の時代が終わり、ナチスが政権を握った1933年のドイツ。宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、映画にも政治が介入していくことを宣言する。翌年に映画法が施行されると、検閲が強化され、作品にはそれぞれ「政治的に価値がある」「国民を啓蒙する価値がある」など格付けが行われた。映画会社は国家が管理するUfa-Film GmbH(UFI)に統合。ユダヤ人は解雇され、映画界から完全に排除された。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

ナチス政権下では1000本以上の長編が製作されたが、政権が直接関与していたり、ナチスの価値観を具体的に体現していたりするような真のプロパガンダ映画は、そのうち10分の1程度。それらは今日でも危険とみなされ、公開が禁じられている。それ以外は現在でも鑑賞することができるが、ナチスのイデオロギーに基づいて理想化された完璧な社会のイメージや、敵の過激な描写などが含まれている。例えばアーリア人が優れた人種であることを意図するセリフがあったり、兵士がエキストラとして動員されていたりするため、芸術的に評価されていたとしても、ナチ時代に製作された作品であることを意識して観る必要がある。

ナチ政権下で映画を作った人々

レニ・リーフェンシュタールは、1933~35年にナチ党大会の記録映画を3本製作した人物で、1936年に開催されたベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」を撮影した。「民族の祭典」と「美の祭典」の2部構成で、スローモーションなどの新しい技術や美しい構図、特殊なアングルを導入。スポーツを芸術と捉え、その後数十年間のスポーツ報道に影響を与えたといわれる。しかし、本作のアスリートは理想像や人種的な優越性を誇示するものとして解釈され、さらには平和の祭典を利用してアドルフ・ヒトラーとナチス・ドイツを肯定的に描いたことで、史上最も有名なプロパガンダ映画の一つとなった。リーフェンシュタールは2003年に亡くなるまで、作品は非政治的であり、自分はナチ党員ではなかったことを主張したが、本作にナチスが介入していたことに変わりはない。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

また、1937年には初の日独共同製作映画「新しき土」が作られている。共同製作の構想は日独双方の政府に受け入れられ、ゲッペルスは製作費の半分を支出。ドイツ留学を終えた輝雄がドイツ人の恋人ゲルダと許いいなづけ嫁の光子との間で揺れ、伝統と現代的な価値観による葛藤を描く。ゲルダは完璧なアーリア人として描かれ、満州の描写は日本向けのプロパガンダとして捉えられる。共同監督と脚本を務めたアーノルド・ファンクはかつて山岳映画のパイオニアとして名をはせた人物。その後新作を撮影したものの、ナチスの意図を反映して完成させた作品に納得しなかったという。戦後は森林官として働き、1974年にひっそりと亡くなった。

新しき土 Die Tochter des Samurai新しき土 Die Tochter des Samurai
1937年/125分/ドイツ語、日本語
監督: アーノルド・ファンク、伊丹万作
主演: 原節子、小杉勇

「新しき土」「新しき土」には当時10代だった原節子が出演。
本作はドイツ版と日本版で若干内容が異なる

参考: filmportal.de、Die WELT「Zwei Völker ohne Raum」

フランス 1950s-60s
戦後の映画界を革新したヌーベル・ヴァーグ

映画改革運動を開始した若手批評家たち

フランスで1950年代末に興隆したヌーベル・ヴァーグ(新しい波の意)は、戦後のフランスという特殊な社会文化的背景の中に根を下ろした。当時のフランス映画は文芸作品の脚色を重視し、凝ったセリフや硬すぎる言い回しが飛び交う「良質な伝統」作品だった。ヌーベル・ヴァーグはそれをきっぱりと否定し、映画監督は小説家や画家のようにカメラで作家として自己表現できるものだと「作家主義」を主張した。これを率いた若手監督の代表はフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット。撮影の経験はほとんどなく、リソースも少ないこれらの監督は、もともとは「カイエ・デュ・シネマ」という雑誌に批評家として寄稿していたため「カイエ派」と呼ばれている。

カイエ派の映画製作者たちは、現実とスクリーンに映し出されるものとのギャップにうんざりしていた。従来の映画のように「物語が過不足なく描かれているのか」という演出は重視せず、目の前に映る景色を記録に残すことに重きを置き、現実が映り込んでいく映画を撮るようになる。俳優たちは無名で、多くは若く平凡なキャラクターを演じる。台詞は単純で、しばしば偶然性と即興性を重視した。

例えば、ゴダール作の「勝手にしやがれ」では主役のベルモンドはパリの若者言葉を使い、ヒロインのセバーグは米国訛りのフランス語を訂正せずにそのまま生かす。技術の進歩により、軽量カメラと高感度フィルムが登場した時期でもあったため、大掛かりな装置は必要とせず、街頭で撮影することが可能だった。その上、パリの街中で車椅子にカメラマンを乗せて引っ張って撮影するなど、低予算かつ大胆な手法で見事な映像を作り上げた。「美しきセルジュ」を撮ったシャブロルは、自然光を捉えるのに長けたカメラマンを雇い、スタジオの照明では出せないような物事の微妙な輪郭や質感、老朽化と美しさの両方を浮かび上がらせる光を映し出した。こうして現実をかつてないほど身近に、そして物語を自然に表現できるようになったのだ。その後も「良質な伝統」に反抗しながら、各監督は独自のスタイルを開発していく。

ゴダール軽量カメラを持ち撮影するゴダール。ゴダールは伝統的な映画の形式を完全に打ち破る革新的なスタイルでその名を知らしめた

オリンピア Olympia勝手にしやがれ À bout de souffle
1960年/90分/フランス語
監督: ジャン=リュック・ゴダール
主演: ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ

国境を越えて世界へ波及

ヌーヴェル・ヴァーグは1960年代末には求心力を失っていくが、フランス映画とその製作者たちが伝えるメッセージは国境を越えて広がっていった。 東欧では、ポーランド人のアンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、チェコ人のヴェラ・ヒティロヴァ、ラテンアメリカではブラジルの映画運動「シネマ・ノーヴォ」、そして日本の「日本ヌーヴェル・ヴァーグ」など各国に影響を与え、自国の映画の規範を破ることをためらわない新しい監督たちが出現していった。

オリンピア Olympia美しきセルジュ Le Beau Serge
1958年/98分/フランス語
監督: クロード・シャブロル
主演: ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォン

参考: 中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)、National Audiovisual Institute(INA)「François Truffaut parle de la Nouvelle Vague」、La BnF「La Nouvelle Vague au cinéma」

ドイツ 1950s-80s
東ドイツ唯一の映画製作会社DEFA

ナチスと決別した国営映画会社

第二次世界大戦後、西側連合国はナチスとメディアの深い結びつきからドイツでの新作映画製作に反対していた。一方で、ソ連は映画製作のため独ソ合資会社の設立を許可し、終戦の翌年にDEFA(Deutsche Film-AG)が誕生する。東西ドイツ分断後の1953年に国有企業になると、東ドイツでの映画製作は全てDEFAで行わなければならなくなった。DEFAではドイツが再統一されるまでに、長編映画700本、短編映画450本、アニメーション950本、ドキュメンタリー2000本、ニュース映画など2500本が製作された。

DEFAは設立1年目に3本の映画を製作し、そのうち1本はドイツの戦争犯罪を描いたものだった。その後も反ファシズムは、DEFA作品にとって重要なテーマの一つで在り続ける。そのなかで最も知られている作品が、映画「嘘つきヤコブ」だ。第二次世界大戦中、ポーランドのユダヤ人ゲットーに暮らすヤコブは、ゲシュタポに出頭した際にラジオでソ連軍が進軍していることを知る。その後ゲットーに戻ったヤコブはみんなにニュースを伝え、自分はラジオを持っていると嘘をつき、その後も人々に希望を与えるために嘘をつき続ける。本作は、DEFAの長編作品として唯一アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、1999年にハリウッドでリメイクもされている。

噓つきヤコブ Jakob der Lügner噓つきヤコブ Jakob der Lügner
1974年/100分/ドイツ語
監督: フランク・バイヤー
主演: ヴラスティミル・ブロツキー

噓つきヤコブ Jakob der Lügnerヤコブを演じたヴラスティミル・ブロツキー(左)はチェコの俳優。
1975年のベルリン国際映画祭では、その演技が評価されて銀熊賞を受賞した

社会主義体制で生まれた希望の作品

国庫からの資金で製作されたDEFAの映画は、誰にでも理解できること、曖昧にしないこと、文化政策の影響を受けてはならないとされていた。一方で国の厳しい体制のもと、社会主義体制に都合の悪い作品が上映禁止となることも。それは、東ドイツを指導した社会主義統一党(SED)が映画を芸術ではなく、政治的な手段として見ていたことを意味する。

映画「パウルとパウラの伝説」も、公開が危ぶまれた作品の一つだった。純愛ではなく、それぞれ家庭のある二人の恋愛を描いているからだ。公務員で既婚者のパウルとシングルマザーのパウラが関係を持つことは、個人の感情を優先するというエゴイズムであり、集団に重きを置く社会主義体制への隠れた批判であると捉えられた。SEDの政治家たちは公開を阻止しようとしたが、当時書記長だったエーリッヒ・ホーネッカーは、国際的な東ドイツの新しいイメージにふさわしいとして、特に若者に見せることを希望。公開は許可され、300万人を動員する大ヒット作品となった。

パウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paularパウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paular
1973年/106分/ドイツ語
監督: ハイナー・カーロウ
主演: アンゲリカ・ドムレーゼ、ヴィンフリート・グラットツェーダー

DEFAの多くの作品には、東ドイツの人々の日常の姿とともに、夢や葛藤、希望がありのままに映し出されており、今日でも評価されている。DEFAはドイツ再統一によって終わりを迎えたが、作品はDEFA財団によって文化遺産として保存され、現在もYouTubeなどで観ることができる。

参考: DEFA-Stiftung、SWR「Film „Die Legende von Paul und Paula“: Wie ein harmloser DDR-Liebesfilm die SED nervös machte」、Goethe-Institut「ベルリンの壁崩壊30年 東ドイツの映画と歴史」

英国 1960s-
労働者階級を描くキッチンシンク・リアリズム

英国人のリアルな日常

英国の労働者階級と映画の関係は、社会的、文化的な観点から重要なテーマ。1960年代に起きた「キッチンシンク・リアリズム」は、労働者階級の日常生活をリアルに描いた映画や演劇のムーブメントだった。そこでは貧困、失業、社会的抑圧、家族関係といったテーマが労働者階級の視点で率直に描かれている。この流れはサッチャー政権下の1970~80年代に社会的リアリズムとして発展し現在に至る。1960年代には白人労働者家庭の物語だったキッチンシンク・リアリズムは、やがて次第に人種問題や移民問題、そして同性愛などに切り込み、さまざまな社会的弱者を主人公にした作品を包括していく。

1985年の作品「マイ・ビューティフル・ランドレッド」は、パキスタンからの移民を親に持つロンドン生まれの青年オマールと、幼なじみで今は移民を狙う右翼団体に属するジョニーの恋愛を、ときにコミカルに追ったドラマ。母国の伝統と英国社会での生活の間で揺れる移民2世の立場をはじめ、労働者階級から中産階級への上昇を目指す移民と、失業して将来に希望を見いだせない労働者階級の白人の格差、そして英国に根付く人種差別と同性愛への嫌悪などが複雑に絡み合う。ベテラン俳優ダニエル・デイ=ルイスの出世作としても知られる。

マイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundretteマイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundrette
1985年/97分/英語
監督: スティーヴン・フリアーズ
主演: ダニエル・デイ=ルイス

その約10年後に作られたマイク・リー監督の「秘密と嘘」は家族の複雑な人間関係を通じて、アイデンティティー、家族の絆、自己受容を探る物語。1990年代の英国社会における人種的、社会的な緊張感を浮き彫りにしているものの、過度に政治的な視点ではなく、個人的な関係性を通して描いているところが特徴だ。眼科医として働く黒人女性のホーテンスは、生みの親が白人であることを知る。未婚の母、私生児、父親の異なる姉妹、不妊といった事情をのみ込みつつ暮らす、ありふれた労働者階級の家庭の姿はとてもリアルで、本作は第49回カンヌ映画祭のパルム・ドール賞を受賞した。本作で脚本は一切使用せず、セリフは現場で役者とともに即興的に作り上げられた。

秘密と嘘 Secrets and Lies秘密と嘘 Secrets and Lies
1996年/142分/英語
監督: マイク・リー
主演: ブレンダ・ブレッシン、ティモシー・スポール、マリアンヌ・ジャン=バプティスト

不平等な世の中を可視化する

1960年代後半から活躍を続ける社会派、ケン・ローチ監督の作品「わたしは、ダニエル・ブレイク」は現代英国の福祉制度がもたらす問題を鋭く批判したドラマ。心臓病で働けないにもかかわらず、福祉制度の複雑な手続きにより生活保護を受けられず、支援を求めて苦しむ中年男性のダニエル、そしてシングルマザーのケイティを主人公に、社会に見捨てられた状況でも人間としての尊厳を保とうと奮闘する人間の姿を描く。低賃金労働、住居問題、失業が人々にどのような影響を与えるか、実直な人間が生きられない社会とは何なのか、現代の資本主義社会におけるシステムの問題を直球で批判する。第69回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した。

わたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brakeわたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brake
2016年/100分/英語
監督: ケン・ローチ
主演: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ

フランス 1960s-現在
フランス映画を発展させた「国際共同製作」

映画振興を統括する機関「CNC」

第二次世界大戦の後、フランスは危機的状況にあった映画業界を立て直す目的で1946年に国立映画センター(現・国立映画映像アニメーションセンター、CNC)を設立した。同国の映画産業の運営と振興を統括する機関として現在も活動を行っている。現在、CNCが中心となって積極的に支援している事業の一つが国際共同製作である。2023年の国際共同製作作品数は120作品で、CNCが助成した全映画の40.3%を占める。これらの映画は38のパートナー国と製作された。

CNC1946年10月25日に設立されたCNCは公的行政機関であり、
映画をはじめ、オーディオビジュアル、マルチ・メディア、ビデオ・ゲームも統括する組織

フランスが国際共同製作に乗り出したのは1960年代から。積極的に他国政府と2カ国で共同製作する協定を結び始めた。現在では世界で一番多い61カ国と締結。同様の制度は世界中にあるが、英国12カ国、ドイツ21カ国と比べて圧倒的に締結数が多いことが分かる。この協定では複数国から資金調達ができるほか、双方の国で国産映画とみなされるため、助成金はもちろん、研修制度、調査・統計、映像教育政策など、さまざまな分野で協力できるという利点がある。

欧州評議会でも欧州連合(EU)内の国際共同製作に積極的に取り組んでいる。1991年には欧州映画製作条約を結び、加盟国を含む3カ国以上によって製作するガイドラインが整った。事実、フランスが最も共同製作を行っているのは欧州諸国である。また共同製作は、ハリウッドや国内製作が支配的である欧州大陸内での映画の流通を改善する方法としても注目されている。

国籍問わず才能がある監督を支援

今日のグローバリゼーションによって薄れてしまう地域特有の文化を守る目的として、フランスでは1984年に開発途上国に向けた制度「ル・フォン・シュッド」を創立している(2012年に世界中の映画製作者を支援する「シネマ・ドゥ・モンド」に変更)。この目的はフランスの技術を提供するとともに、徐々に頭角を現している監督を支援すること。これまでにアルゼンチンのルクレシア・マルテル監督による「沼地という名の町」、アフガニスタン・フランスの二重国籍を有するアティーク・ラヒーミー監督の「灰と土」、グルジアのギオルギ・オヴァシュヴィリ監督による「The Other Bank」、パレスチナのエリア・スレイマン監督の「D.I.」など、今や世界的に知られている監督を輩出している。

沼地という名の町 La Ciénaga沼地という名の町 La Ciénaga
2001年/103分/スペイン語
監督: ルクレシア・マルテル
主演: マルティン・アジェミアン、ディエゴ・バエナス

The Other BankThe Other Bank
2009年/90分/グルジア語
監督: ギオルギ・オヴァシュヴィリ
主演: テド・ベカウリ、タマー・メスキー

D.I. Divine InterventionD.I. Divine Intervention
2002年/92分/アラビア語
監督: エリア・スレイマン
主演: エリア・スレイマン、マナル・ハーデル

フランスはこれらの活動を通して世界における自国の文化的存在感を示しながら、才能のある監督と早くから結びつき、産業面でも文化面でも映画業界の活性化につなげている。このように多種多様な国と積極的に共同製作を行う基盤があるため、フランス映画の製作過程には各国の文化的要素が自然に組み込まれていき、自国映画の発展に貢献している。

参考: Centre national du cinéma et de l'image animée、Council of Europe、Romain Lecler「Une diversité sur mesure」、Presses Universitaires de France

 

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