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Mon, 11 November 2024

鈴木ナオミさんインタビュー

渡英後すぐに発売されたCDが英国のクラブ・チャートにランクインし、BBCがドキュメンタリー番組を放映、英国の名優ヒュー・グラントと映画で共演するといった華やかな経歴と、その裏側にあった転落、そして歌手としての再起。成功と失敗、栄光と挫折の物語が凝縮された、英国で活動するマルチ・タレント、鈴木ナオミさんの波乱万丈の半生を紹介する。

歌手、女優、司会者としてヨーロッパで活動。ロンドンから日本に向けて、ロンドン情報を発信するラジオ番組「ナオミのLONDON CALLING(FM軽井沢)」のパーソナリティー*1 としても活躍中のマルチ・タレント。7月にリリースされた新ユニット「AJ UNITY」のデビュー・アルバムがUK のメディアで絶賛される。10月に2ndシングルをリリース予定。また日本の企画制作会社「ポマトプロ(www.pomato.co.jp)」のUK 支社POMATO UK LTD の代 表として、プリンセス・ダイアナ展や世界子供の絵博覧会「えとことば展」を企画・運営するなど、クリエーターとして も活動している。自身が代表を務める音楽制作会社「NANA MUSIC UK LTD」*2 にて、アーティストの育成も行っている。
鈴木ナオミのサイト www.sweet-naomi.com
新ユニット「AJ Unity」のサイト www.ajunity.com

*1 FM軽井沢のパーソナリティー 「ナオミのLONDON CALLING 日本時間土曜午後2時放送」。鈴木ナオミのサイトの「最新ニュース」から過去の放送が聞ける。またFM軽井沢のサイトでは、リアル・タイムで聴取可。

*2 「NANA MUSIC UK LTD」。独自のレーベルを立ち上げ、アーティストのプロモート、育成なども行っている。レッスンやプロモーション活動などに興味のある方は、NANA MUSIC UKのサイトを参照。

生まれながらにして

2歳のときから、「スター」だった。

町内会のパレードで踊る姿を見た人が、「将来、絶対に芸能人にした方がいい」と親を説得しに家にまで訪問に来た。「普通2歳ぐらいだと、お祭りで踊るって言っても、よちよち歩きながら手を振ったりしているだけじゃないですか。私は既に持っていた『決めのポーズ』を披露していたみたいです」。

物心付いたときには既に通い始めていたというエレクトーン教室では、「20年に一人の逸材」と言われる。中学校3年生のとき、「そんなことする必要は全くないのに、足を派手にぐるぐるかき回してペダル鍵盤を踏むような」演出をして、米国のジャズ・ピアニスト、デューク・エリントンの代表曲である「キャラバン」を弾き、コンクールの九州大会で優勝した。

粉々に砕けた腕、そして自信

やがて音大への入学を目指すようになった「神童」は、しかし、間もなくして、挫折を経験する。それも、文字通り、粉々になるまで。「3階建て分ぐらいの高さがある歩道橋の上で、妹と遊んでいたんです。そしたら橋の上から落っこちてしまって。2、3日間意識をなくして、さすがに親は私が死んだと思ったみたいです」。

命は助かったものの、腕全体の骨はぐちゃぐちゃ。医師が一度は切断を勧めるほどだった。1本1本の指を動かすリハビリに何カ月も費やした後に何とか音大に入ったが、その頃にはもう、状況は随分と変わっていたという。まず、ピアノを練習しようとすると、手にしびれを感じる。練習がすっかり嫌になってしまった。学内で開催されるピアノのコンクールでの成績は最悪で、ますます嫌になるという悪循環が繰り返されていく。

ちょうどその頃、学校に芸能コースが新しく設立され、「歌手と司会者」を育成するコースの1期生となる。歌い方やマイクの持ち方はもちろん、立ち方、歩き方からアイウエオの発声練習までを行うこのコースの先生が、とにかく厳しかった。「『あんたなんて全然歌手に向いてない』って言われました。お腹ガーン蹴られて、最後にはもう『帰れ』って教室から追い出された」。

とりわけ、高音の限界に到達したときの歌い方を厳しく指摘された。「逃げる歌い方をしている。それはあなたの生き方そのもの。あんた1回ここで逃げたらもう二度と同じ高さの壁を越えられないわよ」。そう言われたとき、今まで逃げてばかりいた自分に気付いたという。そして、歌うのが怖くなるくらいまで、その壁に真っ直ぐに立ち向かってみようと決めた。すると、不思議なことに、少しずつ歌を、そして音楽をまた好きになっていった。

「なんちゃってアイドル」時代

恩師と慕う先生の厳しい指導のお陰もあって、やがて、音大生を続けながら、アニメ・ソングやコマーシャル・ソングを歌う仕事が入ってくるようになった。本人の言葉を借りると、「なんちゃってアイドル」だ。「ほかの同年代の友達が、喫茶店やコンビニで時給数百円のアルバイトをしているときに、コマーシャル・ソング1本歌って50万円とかもらえる。芸能人とも会える。とにかく楽しんでいました」。

イベント出演の仕事も多くあった。デパートの屋上で行われる戦隊ショー。一般に「営業」と呼ばれる、伍代夏子や五木ひろしといった演歌歌手たちの地方公演の前座。そうした場で、「今振り返るとあまりに場違いな」、マライア・キャリーやホイットニー・ヒューストンといった、米国のR & Bの曲を歌っていたという。

ここで、話は急展開を迎える。

ある日、彼女のショーを見終わったばかりの英国人プロデューサーが近寄ってきて、初対面の彼女に、「英国でデビューしてみませんか」と言う。「『へ?』みたいな。さすがに、自分が世界の舞台で歌うレベルじゃ全然ないことは分かっていましたし」。当然のことながら、話を聞いた両親は引っくり返った。そもそも自分自身が、眉に唾を付けてもまだ信じられない。ところが、その音楽プロデューサーからは以後、毎日のようにFAXが送られてくる。英国デビューまでの道のりを示した企画書が送られてくる。新曲が決まったとの報告が来る。最後には、英国行きの航空券が送られてきた。

「私、スターだ」

「日本でアルバイト感覚でアイドルとして働いていたら、会ったばかりの外国人に英国デビューの話を持ちかけられ、渡英することになった」。そう聞けば、「何か騙されているのでは」と考えるのが常識的な感覚だろう。だが現実は、明らかに一般常識を超えていた。

「帰って来なかったら警察に連絡してね」と茶化した言葉を友人に言い残して成田空港から旅立ち、ヒースロー空港へと到着。客室乗務員と挨拶を交わして搭乗口を出ると、何台ものテレビ・カメラが待ち構えていた。聞けばBBCによるドキュメンタリー番組の撮影だという。「あまりに騒々しすぎて、入国審査でつかまっちゃって(笑)。なかなか空港を出られませんでした」。

ロンドン市内に着けば、ハイド・パークの向かいにあるホテルの一室が用意されていた。当然、宿泊費は会社持ち。食事代として、数百ポンドを毎日ぽんとくれる。

仕事の方でも万全の準備が整えられていた。渡英3カ月後に控えたCDリリースに向けて即日、活動を開始。バック・ミュージシャンはもちろん、プロモーション・ビデオの収録を一緒に行うためのバック・ダンサーも手配済みだった。そのとき思ったこと。「私、スターだ(笑)」。

「日本への逆輸入」という夢

英語は全くと言っていいほど、話せなかった。「当時に受けたインタビュー映像を観ると、『Uh-Huh』『Mmm』『Yeah』の3語ぐらいしか言ってないんです(笑)」。

前述のBBCによるドキュメンタリー番組には、もはやコメディーとしか思えないような失態が記録されている。レコーディングの最中で、「エコーヲ、モットアゲテクダサーイ」と外国人訛りになっただけの日本語を大声で話す。インタビューで、「Have you been to US?」と問われた際に、得意の「Yeah」で返したものの、続けざまに「Where?」と尋ねられて、「China」と答えてしまう。慌てたバック・ダンサーの一人に、「You have been to Chinatown, right?」と助け舟を出される始末。英国の国営放送で流される映像としては、なかなか衝撃的な内容である。

では、英語もろくに話せない、日本国内でさえほぼ無名と言っていいほどの日本人歌手が、なぜ英国でデビューを飾るに至ったのか。その理由は、先の音楽プロデューサーによる、日本人歌手を使っての目論みにあった。つまり、「日本から連れてきてたアーティストを英国でデビューさせ、日本へと逆輸入する」というマーケティング戦略を描いていたのである。

この夢は、すぐに現実味を帯びてくる。用意周到なPR活動も手伝い、デビュー・シングルは英国のクラブ・チャート12位へとランクイン。そのニュースを耳にした日本のレコード会社が、1億円の予算を確保するから、日本で売り出したいとの申し出を寄せてきた。その資金を使って、カイリー・ミノーグなどの作品を手掛けてきたジェームズ・テイラーを含む著名音楽プロデューサーたちを結集させてのアルバム制作が始まった。さらに、5分に1回はかかるという、ヘビー・ローテーションのCMソング採用の話も決まる。日本への凱旋帰国というプロジェクトは、実現に向けて着々と進んでいった。ある一人の関係者が、1億円を持って逃げるまでは。

今週のお勧めCD
渡英直後、デビュー曲を「今週のお勧めCD」として取り上げた
ロンドンのレコード店で撮影したときの写真

ビギナーズ・ラックの終焉

その「関係者」とは、日本人の音楽プロデューサーだった。「日本人アーティストの逆輸入」との構想を立ち上げた英国人プロデューサーと、1億円の予算を確保した日本のレコード会社の間を橋渡しした人物である。

日本への逆進出に向けてまずは英国での知名度をさらに高めようと、日本のレコード会社が提供した1億円のプロモーション費用が、突然消えた。レコーディングした曲が、「制作料の未払い」を理由にリリースされない。これまで応対してもらっていた担当者が、責任を取らされて解雇となる。自分を取り巻く周囲の信頼関係は、一気に崩壊。「一体誰のせいだ」と自分を責める声が聞こえた気がした。

彼女のビギナーズ・ラックは、渡英1年も経たないうちに、こうしてあっけなく終わった。

立ち位置は違うけれど

汗水垂らして努力したことがなければ、高度な策略をめぐらす経験値もなく、失敗の恐怖さえ知らない無垢な初心者が、往々にして手にする幸運。世間では「ビギナーズ・ラック」と呼ばれるこの代物は、いくつかの特性を持っている。決して長くは続かない。いずれ失う。見放されてしまったら、もう戻ってこない。

所属レコード会社との関係は一旦切れてしまったが、「そのままただ日本に帰るというのも何だか悔しかった」から、英国に残ることにした。語学学校で一から英語を学び、日本のオーディション番組に参加しているうちに、主にレコーディングを目的としてロンドンへ来る日本人ミュージシャンに付き添う、コーディネートの仕事が入るようになった。「レコーディングというのは、本当に繊細な作業です。特に外国語でのやり取りとなると、その繊細さが増します。普通に通訳するだけでは伝わらないものがある。幸い私は、渡英当初に右も左も分からないままそうした環境に揉まれる機会を得たので、スタジオ・ワークの雰囲気は十分知っている。私が歌手として活動する場が少なくなったとしても、他の歌手の人たち の作品作りに参加することで、好きな仕事を続けられるような気がしたんです」。

それまで何もかもお膳立てしてもらっていた自分が、いつの間にか、お膳立てする立場になっていた。宇多田ヒカル、矢井田瞳、小柳ゆきといった日本の音楽界を代表するそうそうたる面々が、レコーディングのため頻繁 にロンドンを訪れる。そうした歌手たちが音楽活動に専念している様子を見て、多少の嫉妬を覚えたことがないとは言わない。でも彼女たちのレコーディング作業に何度も立ち会ううちに、「立ち位置が違うだけで、自分も作品作りをしている」と思えるようになった。またそうした歌手たちが日本の歌番組で「ロンドンのレコーディングでお世話になった人がいましてね」と言って自分への感謝の気持ちを述べているのを知って、勘当扱いしていた両親も、応援してくれるようになった。

気付けばもう、ビギナーズ・ラックなんか、必要としていなかった。

今まで頑張ってきたご褒美

日本人歌手たちのレコーディングの手配を主とするコーディネートの仕事を続ける傍ら、ロンドン在住の日本人を対象とした歌謡ショーを開催するなどして歌手としての活動も続けているうちに、再び一つの転機が訪れる。

2008年から日本各地で開催された、「プリンセス・ダイアナ展」がきっかけとなった。1997年の自動車事故で亡くなったダイアナ元妃の写真やドレスを展示する このイベントの企画・運営に関わった際に、同展のテーマ・ソングが作られると聞きつけ、「じゃ、私がやる!と手を挙げた。「今まで頑張ってコーディネート業務をこなしてきたご褒美」だと思った。

そして、日本への逆輸入を目指していた渡英当初以来となる、自身のレコーディング作業が始まった。もう、英語の初歩的な間違いを直してくれるバック・ダンサー たちはいない。ヒット・チャートを賑わす大物歌手たちを手掛けてきた著名プロデューサーが結集するということもない。そもそも、レコーディング・スタジオが狭い。

でも、今度は確実に、自分で掴み取った夢だ。自分自身がプロデューサーも務める。アルバムのコンセプトも、「AJ UNITY」と名付けたユニットのメンバーも、全部自分で決めた。日本で先行販売されたCDが英国でも発売されると、いくつかの業界誌が好意的に取り上げてくれた。ビギナーズ・ラックじゃないとしたら、今回の幸運は、一体何と呼べばいいのだろう。

ジャック・アザグリー氏と
故ダイアナ元妃が愛用したドレスを数多く提供した英国人デザイナーの
ジャック・アザグリー氏と、プリンセス・ダイアナ展にて撮影

 

愛犬のヨークシャー・テリアを連れて、家の近くの公園をよく訪れる。いつも、その公園に咲いているシロツメクサについ目が行く。悲しいことに、そのうちのどれかは、ほぼ必ず、誰かに踏まれてしまう。でも次の日に行くと、その花はまた咲いている。あまり目立たないけれど、近付いてよく見てみると、白くて繊細な、かわいい花だ。ちょっと自分ぽいなと思う。だから近寄ってみて、「今日も頑張って咲いているね」と声を掛けてあげる。

「何か目標を持ってロンドンに来てはみたものの、挫折して、あきらめて帰っていく人というのをこれまで何人も見てきました。でも、あきらめないで頑張って欲しい。あきらめないで夢を追い続けていれば、叶うって私は信じています、継続は力なり!」。

この名もなき幸運は、あのシロツメクサのように、小さく美しく、何度でも咲かせてみたい、と思う。


1. ユニット「AJ UNITY」結成
プリンセス・ダイアナ展のテーマ・ソングを作ることになったのをきっかけに、彼女を彷彿とさせるような、「エレガンス」「ビューティー」というテーマの下で、「Sweet Roses」と題したアルバムを作ることになりました。そのために結成したユニットが、この「AJ UNITY」です。ユニットのメンバーは、ロンドン在住の日本人の皆様を対象とした歌謡ショーでも一緒にお仕事をしたことのある、オーストリア人スタジオ・ミュージシャンのフィリップ君。またピアノは、天才肌のキーボード奏者である深町純さんにお願いしました。

2. リチャード・カーペンターとのデュエット
リチャード・カーペンターとコーディネートの仕事を続けていく中で、「トップ・オブ・ザ・ワールド」などの名曲を残した兄妹デュオ「カーペンターズ」の兄であるリチャード・カーペンター氏とお仕事する機会に恵まれました。妹のカレンの死後、沈黙していたリチャード氏が音楽活動の再開を宣言した際に、日本での復帰プロジェクトのお手伝いをすることになったのです。しかも、一緒にデュエットまでしたんですよ!ある新聞社との取材を終えた後に、「あなたは何かカーペンターズの曲を歌えますか」と尋ねてくれたので、「もちろん、全部歌えますよ」と答えるや否や、彼はもう「青春の輝き(I need to love)」の伴奏を弾き始めていました。その伴奏に乗せて、歌ったんです。しかも、リチャード氏のバック・ボーカル付きで。感動のあまり、涙が出てきてしまいました。

3. ヒュー・グラントと共演
ヒュー・グラントと日本でも人気を集める英国人俳優のヒュー・グラント氏とは、映画「ブリジット・ジョーンズの日記」で共演させていただきました。その映画のオーディションに行ったら、すごいプロポーションのモデルばかり。しかも審査員の方々は、「あなたにとって愛とは何か」といったような深遠な問いを投げ掛けてくる。明らかに場違いでした。すっかりやる気をなくしてしまって(笑)、私は「I love a dog」と言ってさっさと帰ってきちゃった。なのに、オーディションは合格。その時点では、共演する役者さんの名前も「ヒューなんとかさん」とだけしか覚えていなかったので、撮影現場にあのヒュー・グラント氏が現れたときは、たまげました。

4. BBCのドキュメンタリー番組への出演
詳細は本文参照。

5. ジャパン祭り 
今年もメイン・ステージの司会

ジャパン祭り9月18日のジャパン祭にて、「ナオミ劇場歌謡ショー」を開催します。90年代の懐かしいJ-POPナンバーと、「AJ UNITY」のアルバムの中から10月にリリースされる2ndシングル「Jupiter」をセクシー・ダンサー(Himawari Dancers、ベリー・ダンサー、盆踊りダンサー)と共にお届けします。またダイアナ妃のメッセージが入った、日本でリリースされた限定アルバムを同会場のストール(JP-BOOKS)で購入できます。

ジャパン祭り
昨年3万5000人を集めた、ロンドン中心部の巨大な会場スピタルフィールズ・マーケットで行われる、日本をテーマとしたフェスティバル。海老原駐英大使や、ハント文化・スポーツ・メディア相も参席予定。当日のボランティアも募集中。
日時: 9月18日(土)10:00‐21:00
(「ナオミ劇場歌謡ショー」の開演時刻はサイトを参照)
http://japanmatsuri.com


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