髙木慶嗣さん
[ 後編 ]タイラー・ブリュレ氏率いるグローバル情報誌「Monocle(モノクル)」で働き始めた髙木さん。漫画家のリサーチやカフェ開業など、ときに畑違いの仕事を任され四苦八苦しつつも、自らのホーム・グラウンドであるプロダクト・デザインの分野で数々の作品をつくり出していく。全2回の後編。
たかぎよしつぐ - 信州・長野県生まれ。中学卒業とともに単身渡英。英南東部ミルトン・キーンズの私立高校で学んだ後に、美術大学のファンデーション・コースに進む。ギャップ・イヤーで1年間、日本各地を放浪。その後、セントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでプロダクト・デザインを専攻する。卒業後、タイラー・ブリュレ氏のデザイン会社、ウィンクリエイティブに入社。創刊メンバーの一人として、タイラー氏が編集長を務める「モノクル」に参加、現在はシニア・デザイナーとしてプロダクト・デザイン全般を手掛けている。
「半泣き状態で電話をかけまくった」
英国発のグローバル情報雑誌「モノクル」の創刊メンバーとなった髙木さん。当時は、日本人ならではの仕事が回ってきたこともあった。創刊号の巻頭特集で日本の自衛隊を取り上げた日本びいきの編集長、タイラー・ブリュレ氏は、文化として認識されつつあった「漫画」に着目、モノクルにオリジナルの漫画を取り入れることにこだわった。そしてそのリサーチを髙木さんが任されたのだ。
「入社当時、タイラーの中で僕の株が上がった、と僕が勝手に思っていることがあって(笑)。『サラリーマン金太郎』をかいている漫画家の本宮ひろ志さんとタイラーを引き合わせたんですよ。コネなんて全くなくて、何度も大手出版社に電話しては拒絶されて、それでも半泣き状態で電話をかけまくって。企画書もメールじゃだめだと言われてファックスで何度も送りました。最後には先方が折れてくれて、3人で会って話し合うことができたんです。最終的に別の方に決まりましたが、タイラーは日本の知人たちから『それはすごい! 』と言われたらしくて」。
イスタンブールで5月にオープンする
期間限定ショップのデザイン画
そのおかげかどうか、やがて髙木さんは一人で世界各国を飛び回り、新人らしからぬ仕事を託されるようになる。創刊時には東京デザイナーズ・ウィークの開催に合わせ、表参道ヒルズ内のカフェを貸し切って期間限定の「モノクル・カフェ」をオープンさせた。「タイラーに『オープニング・パーティーには行くから』とか言われて一人で日本に飛ばされました。『え、バーテンダーってどこに行けば見つかるんだ?』みたいな感じでしたよ」。
デザインが形になる「過程」に存在したい
雑誌が軌道に乗ると、他ブランドとのコラボや実店舗展開など、モノクルの業務内容は多岐にわたるようになった。髙木さんも本業のプロダクト・デザインの仕事が本格化し始める。2008年には、日本の人気ブランド「コム デ ギャルソン」との共同製作によるフレグランス「Hinoki」のパッケージングを担当。そしてモノクル・ショップで限定発売されている「モノクル・ステーショナリー」も、彼の手によるものだ。「見た目は普通だけど、細部にこだわっている」というノートは、社内でデザインした後、独メーカーに発注して製作している。「奇抜なデザインはしませんが、その分こだわる部分にはこだわります。ヨーロッパでは手に入らない色や素材の紙を日本から輸入。ページ数やサイズ、エッジなどのディテールを決めるために100くらいのプロトタイプを作りました」。
試行錯誤の末に完成したモノクル・ステーショナリー
これまで、クリエイティブ・ディレクターとともに数々のプロダクトを生み出してきた。また、実店舗開業時には、印刷物のグラフィック・デザインから家具の買付、業者とのやり取りに至るまでのプロデュースを任される。自らを「何でも屋」とさらりと言う髙木さんだが、デザイン以外の仕事にも積極的に取り組む一方で、デザイナーとしての強いこだわりも持つ。「コンピューターやスケッチ上のデザインだけに留まりたくない。デザインが形になる『過程』上に存在することが、真のデザイナーだと考えています」。
個々のプロジェクト規模は大きくないが、その分、自分一人に任される仕事が多いから、経験値を上げるには絶好の場だと微笑む髙木さん。タイラー・ブリュレというカリスマを頂点に掲げるモノクルにあって、そのプレッシャーに押しつぶされることなく着々と経験を積み重ねる彼ならば、「経営するカフェの裏には自分のデザイン・スタジオ、入口では嫁が花屋を開いていて、飼っている犬がその辺りを歩き回っている、そんなのが夢ですね」と語る未来の設計図も、実現させてしまうかもしれない。