「4月がその優しきにわか雨を、3月のひでりの根にまで滲み通らせ……」の一文で始まる中世英文学の傑作、カンタベリー物語。長い冬が終わりようやく春が訪れたこの季節は、この大作を読み直すには絶好の機会であろう。多くの英国人が古典の名作として誇る、この作品の世界を少し覗いてみよう。(本誌編集部: 長野雅俊)
カンタベリー物語とは
14世紀を生きた英国の詩人、ジェフリー・チョーサーが書いた物語集。カンタベリー大聖堂へと巡礼の旅に出掛ける一団が、道中の退屈しのぎに、それぞれが知っている物語を次々と披露していく様子を描いている。庶民の間で語り継がれていた世間話やユーモア溢れる笑い話、教訓じみた説話などが詰まっており、人間の様々な側面を広く深く描いた文学性と、当時の暮らしを知る歴史資料としての価値から高く評価されている。チョーサーが志なかばで死去してしまったため、29人の巡礼者たち全員に複数の物語を語らせるという、その余りに大きな構想はついに実現されないままに終わった。
個性豊かな登場人物たち
29人の巡礼者たちに加え、宿屋の主人、そして作者のジェフリー・チョーサーまでもが登場するカンタベリー物語。巡礼の旅という、様々な背景を持った人間が一同に集まる当時としてはほぼ唯一の場を舞台として設定することで、異なる階級に属する人間の描写に成功し、物語全体に深みを与えている。
Photo: courtesy of The Canterbury Tales visitor attraction
ハリー・ベリー
ロンドン南部サザークにある旅籠屋の主人。教養豊かでかつユーモアに溢れた男であり、巡礼者たちに行きと帰りの道中で、それぞれ2つずつの物語を披露するよう提案する。
粉屋
筋骨隆々の、力勝負では誰にも負けない大男。趣味の悪い冗談を言うことを得意としており、穀物を盗んで売りさばく悪党でもある。巡礼者集団の先頭に立って一行を率いていく。
騎士
勇敢で思慮深く、欧州各国における数々の遠征で戦歴を重ねた、名誉ある戦士。真実と名誉、寛容と礼儀を尊ぶ。くじによる抽選の結果、一番初めに話を披露することになる。
バースの女房
羊毛業が盛んなバース出身だけに、機織りが得意な中産階級の女性。恋の手練手管に関しては彼女の右に出る者はいないとされ、これまで5回の結婚を経験している。
尼僧付の僧
「ジョン」という名を持つ、善良なる僧。各登場人物が悪趣味な話ばかりすることにあきれ果てた主催者のハリー・ベリーが、楽しげな話をする語り手として指名する
免罪符売り
召喚吏の相棒を務める偽善者として描かれている。教会での高い地位を保持しながら、天国行きを確約するという免罪符を老若男女に売りつけることで大金を稼いでいる。
ジェフリー・チョーサー
「カンタベリー物語」の作者であり、作品中に自ら説話の語り手としても登場する14世紀のイングランドを生きた詩人。豊かな教養と人間観察の鋭さを惜しげもなく披露している。
その他の登場人物
盾持ち | 騎士に仕える家来。 |
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料理人 | お酒が大好きな腕利きシェフ。 |
弁護士 | 知識、名声、報酬と知識をもった秀才。 |
托鉢僧 | 多くの妾を持つ好色な聖職者。 |
学僧 | オックスフォード出身の、貧乏で痩せこけた男。 |
貿易商人 | 知恵の非常によく働く、根っからの商売人。 |
近習 | 騎士である父親の旅に同行して修行を積む若き青年。 |
郷士 | 州知事を務めるグルメな大地主。 |
医者 | 占星術もできる開業医。 |
船長 | イングランド南西部ダートマス出身の、やることなすこと大胆な男。 |
尼僧院長 | 慈悲深く、そして何よりも礼儀正しい女性。 |
修道僧 | 厳しい戒律を窮屈に感じている、俗世間にまみれた男。 |
賄い方 | 学者や弁護士たちのお手伝い屋さん。 |
教区司祭 | 貧しくも敬虔深く勤勉な、真の意味での宗教者。 |
農夫 | 教区司祭の兄弟。 |
家扶 | 荘園を管理することを仕事とする。 |
召喚吏 | 宗教裁判所で働く。托鉢僧と仲が悪い。 |
小間物商、大工、織物商、染物屋、家具装飾商、第2の尼僧、錬金術師の徒弟 |
プロローグ
宿屋の主人がゲームのルールを発表
ロンドン南部サザークの陣羽織屋に宿泊することになった29人の巡礼者たち。それぞれの登場人物の紹介が終わったところで、ハリー・ベリーという名の宿の主人が、彼らがカンタベリー大聖堂へと向かう巡礼の旅の道中、退屈しのぎにあるゲームを行うことを提案する。ルールは各参加者が往路と復路にそれぞれ2話ずつとっておきの物語を語るというもの。最もおもしろい話をした者が、ロンドンに戻った際にありったけの夕食をご馳走になるという賞品の説明も行われる。この思い付きを自らいたく気に入った宿屋の主人は、審判役を務めるという理由で、自費を払って巡礼の旅に同行する旨を伝えて参加者たちの了解を得る。
騎士の物語
美しい王女をめぐって争う騎士
捕虜として囚われの身となった2人の騎士、アークサイトとパラモンは、牢獄の中から王女エミリーの姿を見た途端に共に恋に落ちてしまう。エミリーを愛する権利をめぐって互いに争い、次第に憎しみ合うようになる2人。やがて脱獄した彼らは、逃走中に路上で決闘を開始したところを再び捕らえられてしまう。この争いを見かねた王は、2人の騎士にそれぞれ100名からなる軍を率いて勝負を行い決着をつけよとの命令を下し、勝者には王女を娶る権利を与えるよう手配することを約束する。この戦いに勝利することを強く願ったアークサイトが勝負を制するが、戦いで負った怪我のためにその後すぐに息絶えてしまい……。
粉屋の物語
樽の中で暮らす夫の運命
ある大工の若妻を愛するニコラスは「ノアの洪水が来る」と嘘をつき、騙された大工が避難用の樽の中で寝ている間に若妻と情事を重ねるようになる。同じ頃この若妻を狙う、アブソロンというもう1人の男がいた。彼は情事に耽る若妻の寝室によじ登り窓から口づけを求めるが、若妻は自分の尻を突き出しお返しする。暗闇の中で彼女の陰毛に触れたアブソロンは、これを男のヒゲと勘違いして激怒。今度は燃えた鋤すきを持って再び寝室までよじ登る。若妻のいたずらに喜び、代わって尻を突き出した不倫相手ニコラスは、高温の鋤が刺さってパニックに。彼が大声で水を求めたところで、洪水が来たと思った大工は樽を吊ったロープを切断し、大怪我を負ってしまう。
バースの女房の物語
世界中の女性が求めるものは?
ある女性を強姦し、死刑を宣告された1人の騎士。やがて王妃が登場し、「世界中の女性が求めているもの」を言い当てることができたら命を助けると彼に告げる。騎士は答えを求めて旅に出た際に、1人の老婆と出会う。この老婆は、自分の要望を何でも聞くという条件と引き換えに、彼の謎を解くことを約束する。老婆の要求を飲んだ騎士が手に入れた答えは、女は皆「男を自分の意のままに支配する」ことを望んでいるというもの。この答えを正解として認めた妃により命を救われた騎士だったが、続いて約束通りに老婆から出された要求とは、彼女を妻として迎えることだった。嫌々ながらも結婚を受け入れた騎士に対して、老婆は優しく接するよう懇願し……。
貿易商人の物語
男女の神が与えたものとは…… 視力を失った60歳の老騎士は、メイという若妻の浮気を恐れて四六時中手をつなぐことで彼女を拘束していた。そんな環境下でも、若い男との恋に落ちてしまうメイ。何としてもこの男と関係を結びたい彼女は、老騎士と手を離すことを唯一許される秘密の庭園に若い男を招き入れる。主人が庭園内で散策を楽しんでいる間に、若き男と大木の上で愛し合うメイ。これを天から目撃して憤りを覚えた冥王星の神プルートーは、老騎士に視力を与えて不貞を暴露するが、同じく天の女神プロセルピーナがすかさず若妻にとっておきの言い訳を与える。若妻は主人の視力が回復したことを祝うことで話を逸らし、夫婦は仲良く礼拝堂へと向かって、めでたし、めでたし。
尼僧付の僧の物語
キツネの悪夢を見た雄鶏
まだ動物たちが人間と同じように言葉を話していた時代。7匹の妻を持つ雄鶏チャンテクレールは、その中で最も美しい雌鳥ぺルテローテを溺愛していた。彼はいつも決まった時刻に高く澄んだ声で鳴くことで、熱き思いを伝えていたのだった。ところがある日突然、チャンテクレールが奇声を発する。「キツネに襲われる悪夢を見た」からというチャンテクレールの臆病な言い訳を聞いて完全に失望したぺルテローテは、「悪い夢を見たのはお腹の調子がおかしいからよ」と言って全く取り合わない。しかしながらこの悪夢が暗示したように、やがて悪賢いキツネがチャンテクレールを誘拐してしまう。彼は何とか逃れようと頭をひねり……。
カンタベリー詣でとは
日本の「お伊勢参り」に相当する、イングランドにおけるキリスト教徒にとっての宗教的なイベント。主に英国国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂への巡礼を意味する。中世時代のカンタベリーはイスラエルのエルサレム、イタリアのローマ、スペインのサンティエゴ・デ・コンポステラと並ぶ4大巡礼地として認知され、また大量の巡礼者たちが殺到したため、近隣の宿屋や飲食店の収入にも大きく貢献し、街全体の発展にもつながった。ちなみにカンタベリー物語の主人公たちが歩んだロンドンからカンタベリーまでの道のりは、距離にしておよそ100キロ。片道を2、3日間の日程で歩ける距離だと想定されている。
物語の世界を実体験
カンタベリー・テールズ
カンタベリー物語の世界を再現した、テーマパークを彷彿とさせるアトラクション。かつて教会だった建物の内部を作り変えて建設された。ろう人形で作られた登場人物たちが物語を次々と披露し、入場者はまるで共に巡礼の旅に参加しているかのように楽しめる仕掛けとなっている。日本語の音声コントローラーあり。
The Canterbury Tales, St. Margaret's Street
月~日10:00-17:00
Tel: 01227 479 227
www.canterburytales.org.uk
国王に暗殺された聖職者
トーマス・ベケット
巡礼地としてのカンタベリーの歴史は、トーマス・ベケットの殺害事件から始まった。ロンドンの商人の息子として生まれたベケットは1155年、イングランド国王の側近である大法官という地位に任命される。彼はローマ教皇からの独立を掲げ、イングランド王による教会の直接統治を説いたために、支配権の拡大を目論む当時の国王ヘンリー2世から寵愛された。
しかしやがてベケットは、神の領域である宗教的権限までを支配しようとするヘンリー2世に反発を覚え、距離を置くようになる。このわだかまりはやがて関係の決裂にまで発展し、ベケットは逃げのびるようにフランスに移住。6年後カンタベリーに戻った彼を待っていたのは、王室関係者たちからの剥き出しの敵意だった。それでも民衆の支持を集め続けるベケットの様子を知ったヘンリー2世が「こんな反逆者を国内に育ててしまったことが悔やまれる」と言うのを聞いた側近の4人の騎士は、これを暗殺の指令だと理解しベケット殺害を決意。1170年12月29日、修道士たちが挽歌を歌っている最中のカンタベリー大聖堂内でベケットは暗殺された。頭部までもが切断されるという残虐性と、クリスマスが終わったばかりという時期からこの事件は欧州各地でも衝撃を持って受け止められた。
ベケットの存在はやがて神格化され、事件発生後には700以上の奇蹟が起きたと伝えられるようにまでなり、彼の生き血を薄めたとされる水が各地で販売されるようになる。そしてベケットは圧制に対抗した殉教者として崇められ、巡礼者たちをカンタベリーの地に集めるようになったのである。
ロンドンからの日帰り旅行に最適
カンタベリーとその他の観光スポット
ロンドンから電車で片道およそ1時間半、イングランド南東部の在住者にとっては、日帰り旅行に最適な場所に位置するカンタベリー。ここでは英国国教会の総本山がそびえ立つ宗教都市としての顔と、中世の趣を残す古都としての顔が共存している。またカンタベリーの観光スポットは市内に小さくまとまっている上に、街は十字路を基本として形成されているので、道に迷うこともそうないはず。様々な魅力を強烈に放つこの都市を、1度は訪れたい。
1. カンタベリー大聖堂
Canterbury Cathedral
英国国教会の総本山。7世紀に修道院として建設され、以来改築を繰り返しながら1400年以上にわたって毎日この場所で礼拝が行われてきた。内部に設置されている殉教者トーマス・ベケットの墓を目にすれば、キリスト教の信者でなくても深い感慨を覚えてしまうだろう。遠景からでもはっきりと見えるほど高くそびえ立つ建物は、圧倒的な存在感を放っている。
Cathedral House, 11 The Precincts
月~土9:00-18:00、日12:30-14:30、16:30-17:30
Tel: 01227 762 862
www.canterbury-cathedral.org
2. 聖アウグスティヌス修道院跡
St. Augustine's Abbey
ローマのグレゴリウス教皇から使命を与えられた聖アウグスティヌスが、イングランドへのキリスト教伝道のために海を渡ってたどり着いた場所の跡地。彼の尽力によって597年、ケント州のエルバート王が洗礼を受け、イングランドで初めてキリスト教信仰が正式に受け入れられるに至った。庭から覗く廃墟のような荒涼とした風景が、その偉大な歴史を醸し出している。
Long Port
月~日10:00-18:00
Tel: 01227 767 345
www.english-heritage.org.uk
3. カンタベリー博物館
Museum of Canterbury with Rupert Bear Museum
有史以前の様子からローマ人の入植時代、さらには中世に宗教都市として花開いて現代に至るまでのカンタベリーの歴史を網羅した博物館。またカンタベリーで生まれた英国が誇る劇作家、クリストファー・マーロウについての展示も充実している。英国の子供たちの間で人気がある、かわいいクマのキャラクター「ルパート・ベア」をテーマとした博物館も併設されている。
Stour Street
月~土10:30-17:00
Tel: 01227 475 202
4. ローマ博物館
Roman Museum
1世紀頃から侵攻し、イングランドを支配したローマ人たちの歴史を追った博物館。ローマ人たちは、カンタベリーを始めとするイングランドの各地域に巨大な都市を形成して勢力を大きく繁栄させていった。同博物館では、現存するモザイク模様のタイルほか、当時のローマ人たちがカンタベリーに建設した住宅施設や青空市場などを復元して展示している。
Longmarket, Butchery Lane
月~土10:00-17:00
Tel: 01227 785 575
5. ロイヤル美術館
Museum & Art Gallery with Buffs Regimental Museum
カンタベリー市内で一番大きな美術館。イングランド内で最も古い歴史を持つと言われているカンタベリーの歩兵隊に関する展示を扱った博物館も併設。
High Street
月~土10:00-17:00
Tel: 01227 452 747
6. ウエスト・ゲート・タワーズ
West Gate Towers
カンタベリー市民が「英国内で最も立派な門」を持つとして誇りにする塔。上階からは、市内全体を見下ろす絶景を楽しむことができる。
St Peter's Street
月~土11:00-12:30、13:30-15:30
Tel: 01227 789 576
7. The Weavers House
16世紀初頭に建設されたという、黒ぶき屋根の建物の中にあるレストラン。スタウア河を臨む景色を楽しみながら、英国の伝統料理を食すことができる。
1-2 St Peter's Street
月~土11:00-23:00
Tel: 01227 464 660
カンタベリーへの行き方
Charing Cross駅からCanterbury West駅まで約1時間15分。ロンドンのVictoria駅からCanterbury East駅まで約1時間半。Victoriaのコーチ・ステーションから約1時間45分。
詳細はwww.canterbury.co.uk