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Mon, 25 November 2024

没後200年を迎えた私たちの知らない
ロマン派の詩人ジョン・キーツ

1819年に友人のチャールズ·ブラウンが描いたキーツ1819年に友人のチャールズ·ブラウンが描いたキーツ(枠内)
John Keats, by Charles Brown, 1819. Print from a drawing. Image courtesy of Keats House, City of London Corporation, K/PZ/01/110.

19世紀英国を代表するロマン派の詩人ジョン・キーツ(John Keats 1795~1820年)。自然や人間の美をうたうことを自らの使命としながら、25歳という若さで死去して今年でちょうど200年を迎える。詩人としての活動期間はわずか4年あまりであるにもかかわらず、ロード・バイロンやパーシー・ビッシュ・シェリーとともに、ロマン派の第2世代の詩人として、その作品は今も色あせることなく人々を魅了し続けている。キーツの作品は生前、批評家たちに受け入れられなかったものの、死後にその評価が高まり、19世紀の終わりまでには全ての英国詩人のなかで最も愛された一人になった。世界中の多くの詩人や作家に大きな影響を与え、南米出身の幻想作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスも、キーツの名を挙げている。今回はキーツの人物像や作品、後世への影響などを改めて探っていこう。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Poetry Foundation、English Poetry and Literature、「イギリス文学入門」石塚久郎 編集、ウィキペディアほか

キーツが詩と巡り合うまで

ジョン・キーツは1795年にロンドンのシティ、モーゲートで4人兄弟の長男として誕生した。父親は、*1「スワン・アンド・フープ」(Swan and Hoop)という宿屋に付属する厩舎で馬丁として働いていたトーマス・キーツ、母親は宿屋の娘フランシス。キーツは当時のほかの多くの文学者がそうであったように、上流家庭に生まれたわけではなかった。

夢見るような瞳を持ったキーツの肖像画(ウィリアム·ヒルトン作)夢見るような瞳を持ったキーツの肖像画(ウィリアム·ヒルトン作)

一家はキーツをイートンやハーローなど、良家の子どもたちが通うパブリック・スクールに送ることはできなかったものの、1803年、8歳のキーツをロンドン北部エンフィールドの学校に入学させた。近代的で進歩的なカリキュラムで知られる、ジョン・クラーク・アカデミーというその小さな学校で、キーツは古典と歴史に興味を持つ。また、校長の息子であるチャールズ・カウデン・クラークが重要な指導者、かつ友人となり、キーツに16世紀イタリアの詩人タッソーをはじめとするルネサンス文学を紹介した。若いキーツは「極端で不安定な性格」と評されながらも読書と勉強に力を注ぎ、13歳で学術賞を受賞している。

一方、1810年にキーツが学校を卒業するまでに、一家の暮らしには大きな変化が起きていた。1804年に父親が落馬事故で死去。同年、母のフランシスが再婚し、キーツを含む4人の子どもたちは祖父母の元に引き取られた。しかし1805年の祖父の死により「スワン・アンド・フープ」が売却され、祖母は子どもたちを連れてロンドン北部エドモントンに引越す。1809年、そこへ結核を患った母親が戻ってきた。学校の休暇中にはキーツも献身的な看護をするが、1810年に死去。キーツはこのときまだ14歳だった。

同年、祖母の計らいでキーツは一家の家庭医である外科医・薬剤師のトーマス・ハモンドの見習いになる。肉親を次々に失っていたキーツにとって、医師という職業は自然な選択だったに違いない。約5年の見習い期間を終えたのち、サザークの*2ガイズ・ホスピタルで研修医として学ぶ。1815年、薬剤師の資格を獲得した。当時の薬というのは薬草であり、キーツはロンドン西部のチェルシー薬草園(Chelsea Physic Garden)にも足しげく通ったという。同時に、このころからホメロスの神話詩やエドマンド・スペンサーの長編寓意詩「妖精の女王」(「The Faerie Queene」)を耽読。やがて、詩人で批評家のリー・ハントが編集する文芸誌「エグザミナー」を愛読するうち、詩作に傾倒するようになっていった。1816年、ついにキーツは医者ではなく詩人として生きることを決意する。

*1 当時の建物は現存しないが、現在ここにはKeats at The Globe(83 Moorgate, London EC2M 6SA)というパブになっており、外壁には「In a house on this site the ‘Swan & Hoop’ John Keats Poet was born 1795」と記されたブルー・プラークが見られる。
*2 病院の中庭にはキーツの彫像が座るアーケードがある(St Thomas Street, London SE1)。2007年にアーティストのスチュワート・ウィリアムソンによって制作・設置された。

キーツの生きた時代

18世紀後半から19世紀初頭にかけての英文学界は、それ以前の啓蒙時代の形式主義と理性ある科学的探究とは正反対の、個人の感情や内面世界を重要視した美を見つけようとしている最中だった。詩人トマス・パーシーの編纂した「古英詩拾遺集」(「Reliques of Ancient English Poetry」1765年)には中世の吟遊詩人たちによる古いバラッドやソネットなどがまとめられ、これがロマン派の詩人たちの制作欲を刺激した。ウィリアム・ワーズワース、ウィリアム・ブレイク、サミュエル・テイラー・コールリッジといった人々が活躍し、また、ロード・バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリーも、論理ではなく創造性を賛美する作品を次々に発表していた。

キーツと同時代の詩人ロード·バイロン(トーマス·フィリップ作)キーツと同時代の詩人ロード·バイロン(トーマス·フィリップ作)

パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画

キーツがペンを執ったのは、そんな自然の摂理をうたう詩や中世の騎士道精神がリバイバルしていた時代だった。キーツはソネットの実験的作品をいくつも作り、1816年5月、「ああ孤独よ」(「O Solitude」)が「エグザミナー」誌に掲載された。翌年には処女詩集「詩集」(「Poems by John Keats」)を出版するなど意欲的な活動を開始。ただし、この詩集の評判は芳しくなかった。影響力のあるリー・ハントと知り合い、出版者や作家、有力なパトロンなどと交流を深めながらも、キーツは「気分が定まらず、人前でおどおどと気後れしている様子」だったと友人の弁護士、リチャード・ウッドハウスが記述している。当時からキーツの才能にほれ込み、その天才を確信した数少ない一人であるウッドハウスは、文学者サミュエル・ジョンソンの一語一句を記録した弁護士ジェームズ・ボズウェルのように、キーツにまつわるものなら何でも集めて保管した。後年、これがキーツを知るうえで非常に貴重な研究資料になったと言われている。

1808年にリー・ハントとジョン・ハントによって創刊された「エグザミナー」誌1808年にリー・ハントとジョン・ハントによって創刊された「エグザミナー」誌

恋愛を創作の原動力に

1817年、処女詩集の出版直後に大英博物館に出掛けたキーツは「エルギン・マーブル」と呼ばれる古代ギリシャの大理石彫刻群を見て、ショックを受ける。キーツは詩集のなかで詩とは「至高の力」であり「人間の苦悩を癒やし、思想を高めるもの」でなければいけないと説いているのだが、「エルギン・マーブル」から受けたのはまさにキーツが理想とする芸術の姿だった。間もなく、ギリシャ神話を題材にした4巻からなる大長編叙事詩「エンディミオン」(「Endymion」)を出版。ところがこの大作は批評家たちから酷評されたうえ、これまで看病を続けていた弟のトーマスが結核で死去するという不幸に見舞われ、公私ともに災難が続いた。

落胆するキーツを気遣う友人チャールズ・ブラウンの勧めで、1818年12月からキーツはブラウンの住むハムステッドのウェントワース・ハウスに間借りをする。その隣家に住んでいたのがファニー・ブローン(Fanny Brawne 1800~65年)という当時18歳の少女。自分の服は自らデザインし、詩を学ぶなど進取の気性に富んだファニーと23歳のキーツはすぐに恋に落ちた。ただし、キーツはこの先も金銭的な安定が保証できない身分であるうえ、弟の看病から体調不良となり、自分も結核に感染しているのではないかという恐れを抱いていた。心が通じ合っているのに成就することのないこの恋愛は、キーツの創造力を研ぎ澄ませ、やがて「秋に寄せて」(「To Autumn」)、「ギリシャの古壺のオード」(「Ode on a Grecian Urn」)、「ナイチンゲールに寄す」(「Ode To A Nightingale」)などの代表的オード(頌歌と呼ばれる抒情詩の形式)を次々と生むきっかけとなった。

「ナイチンゲールに寄す」の草稿(キーツ・ハウス所蔵)。
キーツは筆跡の美しさでも知られている「ナイチンゲールに寄す」の草稿(キーツ・ハウス所蔵)。キーツは筆跡の美しさでも知られている

翌1819年に秘かに婚約した2人だが、喀血(かっけつ)するなどしてすでにキーツの病状は悪化の一途をたどっていた。文学仲間たちは療養させるため見舞金を集め、キーツを暖かいローマへと送り出した。キーツはこれがファニーとのこの世の別れになるだろうと確信しつつも、1820年9月13日に英国を離れた。キーツが死んだのは翌21年2月23日。ローマのプロテスタント用墓地に葬られた。遺言により、墓石にはキーツの名は刻まれず、「その名を水に書かれし者ここに眠る」(「Here lies one whose name was writ in water」)とだけ彫られている。

ローマにあるキーツの墓ローマにあるキーツの墓

うたい継がれる美意識

傷心のままローマに没したキーツは自分の作品が後世に読み継がれるようになるとは、夢にも思っていなかった。しかし、同時代の詩人シェリーはキーツの死を悼み、壮大な挽歌にして自身の最高傑作「アドネイス」(「Adonais」)を書いた。また、若き日のオスカー・ワイルドにとってもキーツは理想の詩人だった。長髪で病弱な美の殉教者キーツは、その作品ばかりか生き方やファッションすらも憧憬の対象となったのだ。ワイルドはキーツをラファエル前派の先駆者であるとも述べている。産業革命の反動として現れた英国ロマン主義の詩人の一人として、ジョン・キーツの名は今もしっかりと歴史の中に根を下ろしている。

キーツの住んだハムステッドのウェントワース・ハウス。キーツの住んだハムステッドのウェントワース・ハウス。現在はキーツの資料館「キーツ・ハウス」(Keats House)として一般に公開されている(10 Keats Grove, London NW3 2RR)

現代に通じるキーツの哲学

ネガティブ・ケイパビリティーとは

キーツが現代にも影響を与えているものの一つに「ネガティブ・ケイパビリティー」(Negative Capability)という言葉がある。これは、キーツが不確実なものや未解決のものを受容する能力を説明する際に編み出した考え方で、弟へ向けた1817年12月21日の手紙に出てくる。「シェイクスピアがこの能力を著しく有している。作家ばかりでなく、詩人もこの能力を持つべきだ」とキーツは書く。

この理論は、第二次世界大戦中に精神科医のウィルフレッド・ビオンがキーツの言葉を再発見したことで広まった。日本の小説家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)は、精神分析の世界ではこれは「答えの出ない事態に耐える力」と説明され、せっかちな見せかけの解決ではなく、共感の土台にある負の力が発展的な深い理解へとつながる能力だと説明する。複雑なものをそのまま受け入れず、単純化やマニュアル化したり、答えがすぐ出ないものは最初から排除しようとする傾向がある現代社会とは対極の理論と言える。

キーツの代表作を詠む

繊細な美的感覚と豊かな言語構成能力を持つキーツの魅力が十分に発揮された大作「エンディミオン」(1718年)は、羊飼いの美青年エンディミオンに恋をした月の女神が、青年を独占するため、永遠に眠らせておいたというギリシャ神話にアイデアを得た作品。ここでは有名な冒頭の部分の口語訳を紹介しよう。

Endymion
John Keats

A thing of beauty is a joy for ever:
Its loveliness increases; it will never
Pass into nothingness; but still will keep
A bower quiet for us, and a sleep
Full of sweet dreams, and health, and quiet breathing

Therefore, on every morrow, are we wreathing
A flowery band to bind us to the earth,
Spite of despondence, of the inhuman dearth
Of noble natures, of the gloomy days,
Of all the unhealthy and o'er-darkened ways
Made for our searching: yes, in spite of all,

Some shape of beauty moves away the pall
From our dark spirits. Such the sun, the moon,
Trees old and young, sprouting a shady boon
For simple sheep; and such are daffodils
With the green world they live in; and cleasr rills
That for themselves a cooling covert make
Gainst the hot season; the mid forest brake,
Rich with a sprinkling of fair musk-rose blooms:

And such too is the grandeur of the dooms
We have imagined for the mighty dead;
All lovely tales that we have heard or read:
An endless fountain of immortal drink,
Pouring unto us from the heaven's brink.

美しいものは永遠の喜びだ
それは日ごとに美しさを増し
決して色あせることがない
わたしたちに安らぎをもたらし
夢多く健康で静かな眠りを与えてくれる

それ故毎朝わたしたちは花輪を編み
自分たちを大地に結び付けるのだ
落胆していようとも 暗澹とした日々に
生きるのがままならないとも
なにもかもが意に反して
むしゃくしゃしていようとも

わたしたちの心の暗闇から不吉なものを
追い払ってくれる美しさがある 
太陽や月の美しさがそうだ
また若葉を芽吹いて繁みとなる木々
緑に包まれてのびのびと咲く水仙たち
灼熱の季節にも自分のために
涼しさを生み出す小川の流れ
麝香バラの咲き乱れる森の繁み

またわたしたちが偉大な死者について
思い描く運命の壮大さや
聞いたり読んだりした美しい物語の数々
天空の一端からわたしたちに降り注ぐ
不死の飲み物の尽きせぬ泉に 
そんな美しさを感ずるのだ

(出典: 壺齋散人訳 English Poetry and Literature)

 

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