Sun, 05 May 2024

時代区分から知る 消費社会の始まりジョージ王朝時代の英国

「ジョージアン」というと建築や家具の様式を思い浮かべる人も多いだろう。だが18~19世紀半ばのジョージ王朝時代は、それだけにとどまらない。大英博物館が作られ、「タイムズ」紙など著名紙の発行が始まり、ジェーン・オースティンが活躍した時代。アフタヌーン・ティーやクリケットなど、私たちが「英国らしい」と思うものの多くはこの時代に形成された。政治的にも文化的にも大きな転換期を迎えた、ジョージ王朝時代の英国の社会を眺めてみよう。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Georgians Revealed Life, Style and the Making of Modern Britain by British Library、「イギリス社会史 2」トレヴェリアン著 みすず書房、「路地裏の大英帝国 イギリス都市生活史」 角山榮/ 川北稔 編 平凡社ほか

1821年、ウェストミンスター寺院で行われたジョージ4世の戴冠式を描いた銅版画1821年、ウェストミンスター寺院で行われたジョージ4世の戴冠式を描いた銅版画

ジョージ王朝時代(Georgian)とは

ジョージ王朝時代(1714~1837年*)はジョージ1世からジョージ4世までの4人のジョージと、ジョージ4世の弟ウィリアム4世に統治された時代をさし、ヴィクトリア朝の一つ前の時代にあたる。君主から議会へ政治権力が移行するなど、英国が中世から近代へ移り変わった重要な時期で、欧州の一国に過ぎなかった英国は、商業貿易によって富める列強国として急激に台頭した。対外的にはナポレオン戦争や米国独立戦争を経てインドを支配するなど、次に続くヴィクトリア朝時代で「大英帝国」となる準備期間でもあった。

一方で国内は、産業革命と農業革命という相互する転換期を迎え、農村の土地制度の変化、そして都市の産業が前例のない速さで拡大した。貧富の差は拡大し、著しい貧困と酷い労働条件に労働者は反乱寸前の状態だった。だがそうした社会の不平等を背景にしながら、世界が今まで見たことのない科学、デザイン、技術が次々に生み出された時代でもあった。レジャーや余暇を楽しむ人が増え、消費社会の原型が形作られた。それまでの英国を永遠に変え、現在につながる道を作ったのがジョージ王朝時代だ。

*ジョージ王朝時代は、4人のジョージが統治した1830年までとする考え方と、ドイツのハノーファー家が統治した1837年までとする考え方があり、後者をハノーヴァー朝という場合もある。ちなみに、後につながるヴィクトリア女王もハノーファー家の血統だが、ハノーファー公の地位は女性の相続が認められないためハノーファー国との同盟は解消。ハノーヴァー朝ではなくヴィクトリア朝となる。混乱を避けるため、この特集では1937年までをジョージ王朝時代とした

英国の時代区分

年表で見るジョージ王朝時代

1714 ジョージ1世が即位
1719 ダニエル・デフォーが「ロビンソン・クルーソー」を発表
1720 株価の急落と暴落を起こした南海泡沫事件が勃発
1721 ロバート・ウォルポールが首相に就任
1721 ウィリアム・ホガースが風刺銅版画集「南海泡沫事件」を出版
1726 ジョナサン・スウィフトが「ガリバー旅行記」を発表
1727 ジョージ1世の死去によりジョージ2世が即位
1729 テムズ川に初の橋、パットニー橋が完成
1733 ダウニング街10番地に首相が入居
1736 ウェッジウッドが工場を建設
1751 グレゴリア歴を導入
1751 ジンの販売を規制する「ジン法案」を実施
1755 サミュエル・ジョンソンが英語辞典を出版
1756 七年戦争が勃発(63年まで)
1759 大英博物館が開館
1761 ブリッジウォーター運河が開通
1768 キャプテン・クックが第1回の航海へ出発
1769 ジェームズ・ワットが蒸気機関を改良
1771 ロバート・アダムスがウェリントン提督の邸宅アプスリー・ハウスを建築
1776 アダム・スミスが「国富論」を発表
1781 ウィリアム・ハーシェルが天王星を発見
1783 ウィリアム・ピットが24歳で首相に就任
1788 「タイムズ」紙が発行
1791 「オブザーバー」紙が発行
1796 エドワード・ジェンナーが天然痘の予防法を開発
1798 所得税が導入
1805 トラファルガーの海戦
1807 英国とその全植民地で奴隷貿易が廃止
1811 ジョージ3世が精神疾患で退位、皇太子(ジョージ4世)が摂政となる
1813 ジョン・ナッシュが 1832年までかかるロンドンの都市計画を開始
1815 ワーテルローの戦い
1816 ジェーン・オースティンが「エマ」を発表
1819 ピータールーの大虐殺
1821 アイルランドで大飢饉
1830 ウィリアム4世が即位
1830 リヴァプール・マンチェスター間に鉄道が開通
1831 ダーウィンがビーグル号で船出
1832 選挙権にまつわる大改革法(Great Reform Act)が成立
1833 奴隷制の廃止
1837 ウィリアム4世が死去、ヴィクトリア女王が即位

ジョージ王朝時代という123年

約120年続いたジョージ王朝時代を、政治、文化、建築・インテリア、ファッション、食という五つの側面から光を当てる。

政治

1714年、世継ぎのいないアン女王の死によって神聖ローマ帝国(ドイツ)のハノーファー公、ゲオルグ1世が英国王に迎えられ、ジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝が開かれた。しかし1世は王座に就いたときすでに50歳を超えており、英語が堪能ではないこともあり多くの時間をハノーファーで過ごした。続く2世もドイツ生まれで英独を行き来する生活であることから、この時期に英国では議会政治が発展し責任内閣制が成立。自由民主党の前身であるホイッグと保守党のトーリーという二大政党制も形成された。ホイッグ党に所属した第一大蔵卿のロバート・ウォルポール(Robert Walpole)は、議会の支持を基盤に政権運営をした実質的な「初代首相」とされている。

宮廷画家のジェームズ・ソーンヒルが描いた、家族に囲まれたジョージ1世。膝に手を置いているのは皇太子で、後のジョージ2世。グリニッジの旧王立海軍学校にあるペインテッド・ホールの天井画の一部宮廷画家のジェームズ・ソーンヒルが描いた、家族に囲まれたジョージ1世。
膝に手を置いているのは皇太子で、後のジョージ2世。
グリニッジの旧王立海軍学校にあるペインテッド・ホールの天井画の一部

ちなみにジョージ2世が1732年、ウォルポールにダウニング街10番地の館を与えようとしたとき、ウォルポールは「個人ではなく第一大蔵卿の官邸としてならば」、と受け取った。これが現在の首相官邸の始まりである。やがて20年にわたり国政を率いたウォルポールが退くと、ジャコバイトの反乱*を皮切りに、フレンチ・インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦い、そして米国の独立戦争、対仏戦争とナポレオン戦争、アイルランドの反乱と独立と次々に争いごとが起こった。

こうした戦いで英国は財政難に陥ったものの、ウィリアム・ピット(William Pit)などの優秀な政治家が舵を取った。国内では農業革命から産業革命を経て工業化が進んだ一方で、貴族や大地主であるジェントリ**の富裕層とそれ以外とに二極分化し、今も英国に根深く残る階級社会が誕生した。

* 名誉革命で追放されたステュアート朝のジェームズ2世こそが正当な王位継承者であると主張する勢力ジャコバイト(Jacobite)による反乱(1745-46年)
** 農業経営をする地方地主。貿易や産業の発展が急速に進むなかで、本来の農業経営だけでは立ち行かず、企業家としても活動した。これが産業革命を促進したともいわれている。ジェントリはジェントルマンの語源となった

文化

この時代は日刊または週刊の新聞が相次いで発行され、「タイムズ」紙や「ガーディアン」紙といった今も読まれる大新聞が登場。新聞によって初めて人々は多くのニュースや情報を得ることになった。また、一般の識字率は低かったが、読書人口も徐々に増加した。

当初の書籍は、「淑女はどうふるまうべきか」といった指南書のようなものが多かったものの、ダニエル・デフォーが1719年に書いた「ロビンソン・クルーソー」やジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」を皮切りに、多くの小説が生み出されるようになり、「高慢と偏見」などで知られるジェーン・オースティンもデビューした。詩の世界にも多くの才能が現れ、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・ワーズワース、バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリー、ジョン・キーツらが登場。また、サミュエル・ジョンソンはロンドンの文学サークルの中心で活躍しながら、英語辞典を作り上げた。

英国初の小説の一つといわれるダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」初版本(1719年4月25日出版)英国初の小説の一つといわれるダニエル・デフォーの
「ロビンソン・クルーソー」初版本(1719年4月25日出版)

ジョージ王朝時代の人々は、前のステュワート朝時代に比べて余暇やレジャーなど、外へ出る楽しみが格段に増えた。図書館や本屋へ行くことが流行り、大英博物館が開館し、王立芸術院では展覧会が開催された。また、照明の設備も整ったことから劇場も増加した。サーカスが人気を博したのもこの時代で、パンテオンやライシアムといった大きなダンス・ホールもオープンした。さらに、広場や公園など、公共のオープン・スペースが次々に整備されていき、階級を問わず人々の間に屋外の散歩を楽しむ習慣が広まった。

建築・インテリア

この時代にはロバート・アダム(Robert Adam)、ジョン・ソーン(John Soane)、ジョン・ナッシュ(John Nash)という3人の建築家が活躍し、バッキンガム宮殿、ロイヤル・パビリオン、クラレンス・ハウスをはじめとする王室や貴族の館を手掛けた。また都市計画も行い、ナッシュはリージェンツ・パーク、リージェント・ストリートの設計をした。

ジョン・ナッシュが設計したロンドン北部ハムステッドのケンウッド・ハウスジョン・ナッシュが設計したロンドン北部ハムステッドのケンウッド・ハウス

都市部に増えた裕福な中流階級のための住宅、テラスハウスやタウンハウスもこの時期に次々に建てられた。左右対称を基調としたシンプルな構成で、横につながる長屋形式のテラスハウスはジョージアン様式の特徴。建物の入口ドアの上には、ファン・ライトと呼ばれる扇型のガラス窓がはめ込まれていることが多く、これは狭くて細い玄関に採光を取り入れる工夫だった。内部のスペースは、居間、書斎、客間など用途ごとに分かれ、家具も部屋の用途に合ったものが置かれた。今でこそ当たり前に聞こえるが、これより前のチューダー朝の家はホール式のスペースで、家具は用途に応じて移動させていた。それと比較してもジョージアン様式の建築は、住居として使いやすく今でも人気が高い。

今も残るカーブの美しいロンドン中心部のリージェント・ストリートは、ナッシュによる都市計画の一端今も残るカーブの美しいロンドン中心部のリージェント・ストリートは、ナッシュによる都市計画の一端

また、1696年から建物に窓税が掛けられており、窓数が多いほど税金が高かった。そのため、節税の一環で窓を取り外しレンガを積む入居者も多く、今でも時折、その名残で窓が塞がれた建物を見ることができる。

また、1721年から輸入木材への関税が撤廃され、西インド諸島から高級で彫刻装飾にも適したマホガニー材が簡単に輸入できるようになったことから、マホガニー家具が流行。特に家具デザイナーのトーマス・チッペンデール(Thomas Chippendale)によるマホガニー家具が一世を風靡し、ジョージ王朝時代の家具はマホガニー一色になった。チッペンデール様式といわれるそれは、シノワズリ(中国趣味)とロココ様式を融和させながらも、宮廷様式の家具を市民の生活環境に合わせた、機能的で洗練されたスタイルといえる。

代表的なチッペンデール様式の椅子代表的なチッペンデール様式の椅子

ファッション

大きな帽子や幅広いドレスなど、18世紀初頭までの大げさなスタイルから解放されて、男女ともシンプルで軽やかな装いが流行した。フランス革命(1789~95年)の影響で、これまでファッション界のリーダーだったフランス貴族のようなスタイルが好まれなくなったのが理由の一つだ。女性はきつく締めあげられたコルセットをしなくなり、ハイ・ウエストで体形にそった、古代ギリシャ風ともいえる自然なドレスが流行した。こうしたドレスはジェーン・オースティン作品のドラマなどで目にすることが多いので、現在でもよく知られているだろう。

一方、男性ファッションも大きく変化した。当時のインフルエンサーで、誰もがそのファッションを真似したというボー・ブランメル(Beau Brummell)の登場によって、英国の紳士服は世界に誇れるファッションになり、その影響は今に至る。まずブランメルは宮廷風のかつらを脱ぎ、香水にも手を付けなかった。そして紳士服の規準を、「暗い色合いできちんとカットされた服が、カラフルで派手な服よりも洗練されている」と定義。体にフィットし乗馬に適した服装を念頭に、悪目立ちせずに清潔でスマートな服装を提案し、権力者が集まる晩さん会で披露した。ブルメルの功績は、紳士服にネクタイを組み合わせたスーツをファッションに導入し定着させたことだろう。英国は、ビジネスや正式な場において世界中で着用されているスーツの誕生の地となったのだ。

真っ白なスカーフが特徴的な1805年ごろのボー・ブランメルの様子。画家リチャード・ダイトン作真っ白なスカーフが特徴的な1805年ごろのボー・ブランメルの様子。
画家リチャード・ダイトン作

ところで、放蕩者で浪費家でいいところが何もないといわれるジョージ4世だが、一介の平民でありながら優雅でスマートなボー・ブランメルの知己となった。自身もブランメルのスタイルを取り入れることで、当時の英国ファッションを盛り上げるのに一役買った。

階級によって大きく異なるものの、ジョージ王朝時代以前は、多くの国民にとって食事はシンプルなもので、食材はその土地で採れたものだった。しかし農地を離れ都市で働く人が増加したこの時代、小麦やパン、そして肉や魚は店で買う「商品」に転じた。そのため大量の肉が農場から都市の市場まで輸送されたが、その旅は長く困難を伴ったため、品質はかなり悪かったといわれる。1788年に「食卓の名誉」(The Honours of the Table)という本を著した医師によれば、肉はひどい匂いがするので、食べるときに鼻を近づけないようにしたいほどだったという。

ウィリアム・ホガースが描いた「ジン横丁」ウィリアム・ホガースが描いた「ジン横丁」

また、スウェーデン人旅行者が1748年に、英国人は大きな肉を調理するのは得意だが、ほかの料理分野では才能がないようだ、と発言したことが知られている。一方で果物は、選ばれたごく少数の裕福な人々だけが手に入れることができた。そもそも人々は生の果物を恐れており、果物は消化不良や疫病を引き起こすと考えられていた。

中産階級以上の人々は、この時代の朝食はまだヴィクトリア朝のように豪華ではないものの、トースト、ロールパン、チーズ、紅茶、コーヒー、チョコレート、そして生水より安心なうえ、重要な栄養源でもあったエール(Ale)などで簡単な軽食を9時から10時の間に取った。昼食はなく、夕食は夕方5時ごろ。裕福な人々がフランスの影響を受けたコース料理を食していた一方、労働者たちはもう少し早い時間帯に、パンを主食に生焼けの肉と茹でたキャベツ、チーズなどを取った。アルコールに関しては、消費税を払う必要がない安価なジンが都市の貧民たちの間で流行した。アルコール度数の高さから健康を害する人が多く、また暴力や失業などの悲惨な状況を生み出した。

今も名を知られている
ジョージ王朝時代に創業した主な会社

*()内はジョージ王朝時代以前に創業

  • Garrard & Co. Limited. (旧Asprey & Garrard Limited.) [宝石、1722年]
  • Royal Bank of Scotland [銀行、1727年](Barclays Bank 1690年)
  • Floris of London [香水、1730年]
  • East India Company [貿易、1730年]
  • Booth's Gin [酒類、1740年]
  • Sotheby's [オークション、1744年]
  • Royal Worcester [陶磁器、1751年]
  • Wedgwood [陶磁器、1759年]
  • Lloyds Bank [銀行、1765年]
  • The Times [新聞、1785年]
  • The Observer [新聞、1791年]
  • British Gas [ガス、1812年]
  • The Guardian [新聞、1821年]
  • Cadbury [チョコレート、1824年]
  • Clarks [靴、1825年]
  • Harrods [デパート、1834年](Fortnum & Mason 1707年)
  • Tetley [紅茶、1837年](Twinings 1706年)

この時代をファッションから見るStyle & Society: Dressing the Georgians

Style & Society: Dressing the Georgians

18世紀の英国ファッションを再発見するエキシビション。ジョージ王朝時代はスタイリストやインフルエンサーが誕生し、人々がショッピングに憂き身をやつした時代。ゲインズバラ、ゾファニー、ホガースなど、当時のアーティストによる芸術作品から垣間見るファッションのトレンドを探るほか、洗濯女の実用的な服装から宮廷で着用される豪華なガウンまでが展示される。テキスタイルや宝飾品など、さまざまなアクセサリーも間近で見ることができる。

ジョージアン

2023年10月8日(日)まで
木~月 9:30-17:30(9月25日から10:00開場)
£17
The Queen's Gallery
Buckingham Palace, London SW1A 1AA
Tel: 0303 123 7301
Victoria/Green Park/St. James's Park/Hyde Park Corner駅
www.hrp.org.uk

 

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