伊東浩之さん
[ 前編 ]「松竹梅」と聞けば、たとえ下戸でも升から滴り落ちる日本酒を想像してしまうのではないだろうか。清酒「松竹梅」や焼酎、みりんなどを製造・販売する日本有数の酒類製造メーカー、宝酒造。その英国駐在事務所長である伊東さんは、スコットランドで8年間、駐在員生活を送っていた。日本酒のメーカーとスコットランド、その関係とは。全2回の前編。全2回の前編。
いとうひろゆき - 1965年1月24日生まれ。東京都出身。家族の都合で12歳から15歳までをブラジルのサンパウロで過ごす。立教大学文学部卒業後、京都府京都市に本社を置く酒類製造メーカー、宝酒造株式会社に入社。約10年間、東京及び京都で営業に携わった後、米国カリフォルニア州で3年半、ニュージャージー州で3年間を駐在員として過ごす。2005年に英国駐在事務所長に就任、スコットランド・ハイランド地方にある老舗のスコッチ・ウイスキー蒸留所、トマーチン蒸留所勤務。12年にロンドン事務所開設。ロンドンにおける日本酒や焼酎、みりんなどの製品普及に尽力している。 www.takarashuzo.co.jp
日本酒メーカーとスコットランドの関係
ロンドンの人気デパート、リバティーに隣接するオフィス・ビルの一角に拠点を置く宝酒造の英国駐在事務所。同事務所の事務所長を務める伊東浩之さんは、ロンドンにおける日本酒や焼酎、みりんなどの自社製品普及に努める日々を過ごす。そんな中、1カ月に1度は出張に訪れる場所がある。スコットランドの風光明媚なハイランド地方。日本酒とスコットランドというと一見、その関連性が見えづらいが、この地にこそ、宝酒造が推し進める海外グローバル展開のもう一つの活動の源がある。
トマーチン蒸留所にて、従業員とともに
かつて未確認動物が出現したと世界を賑わしたネス湖を有するハイランド地方の都市インヴァネス。ここから車で南に20分ほど行くと、トマーチン村という人口500人ほどの小さな村にたどり着く。村名と同じ名を冠するトマーチン蒸留所は、スコットランドが世に誇るスコッチ・ウイスキーの伝統を支える老舗蒸留所。実はこの蒸留所を宝酒造が傘下に収めているのだ。自社製品の海外普及とともに、海外製品の日本輸入にも積極的に取り組む宝酒造は、20世紀後半から中国酒、米国のバーボン、フランス・ワインの輸入に携わってきた。英国においては1971年、スコッチ・ウイスキーの輸入自由化とともに名門トマーチン蒸留所と提携し、人気ブランドの輸入を開始。80年代にウイスキー業界が低迷期に入り、スコットランド各地の蒸留所が相次いで倒産した際に、某商社とともに同蒸留所を買収した。以来、宝酒造からは同蒸留所に駐在員が派遣されるようになり、伊東さんはその7人目として2005年から8年間をこの地で暮らした。
「蒸留所の中に社宅がありまして、8割以上の従業員はそこに住み込みで働いています。私と家内も同じ社宅で暮らしていました」。民族意識の強いスコットランドの村にある、老舗蒸留所の社宅での生活。長い冬には社宅も倉庫も雪化粧に覆われてしまうこの地での暮らしに慣れるまでにはさぞや苦労があったのではと話を向けても、「つらいことはあってもすぐ忘れちゃいますから」とあっさりしている。「私は仕事があるから良いですが、家内の方が溶け込んでいくのは大変だったと思います。当初は村で毎週開かれるコーヒー・モーニングなどの集まりに参加して、徐々に受け入れられていったという感じでしょうか」。
深い雪に覆われた蒸留所の倉庫
トマーチン蒸留所での日々
伊東さんのトマーチンでの主な役割は、親会社である本社と蒸留所の関係を円滑に保つこと。「親会社の言うことをそのまま蒸留所側に伝えても絶対にうまくいきませんから、双方の妥協点を探って、双方にお願いして、解決する、それが大変と言えば大変です」と言いつつ、「でもそれが仕事ですから」とやはりさらりと締めくくる。昔気質のウイスキー職人たちともなれば、毎晩のようにパブでお酒を飲み交わすのでは、とこちらが勝手にイメージを膨らませれば、「あまりそういうことがないんですよね。勤務時間は8時半から5時まで。5時になったら皆すっと家に帰って犬の散歩をしていたり。仕事が終われば家族、という感じでしたね」。村にあるたった一軒のパブも数年前につぶれちゃいましたし、と豪快に笑う伊東さんの横顔を見ていると、誇り高いスコットランドの職人たちの中にするりと溶け込む一人の日本人の姿が容易に思い浮かぶ。休みの日には、スコットランド内に100カ所以上あるという蒸留所めぐり。これまでに40カ所以上は回ったという。そしてスコットランドの地と人々とともに8年という年月を過ごした伊東さんは2013年、前年開設されたロンドンの事務所へと仕事のベースを移す。