日本クリケット協会事務局長
宮地直樹さん
[ 前編 ] 昨年9月、スコットランド議会で、ある日本人男性を称える動議が可決された。彼が日本でこつこつと取り組んできた、英国人紳士のスポーツとされるクリケットの普及活動が評価されたのだ。日本ではあまりなじみのないこのスポーツを通して広がる、大きくそして深き世界とは。全2回の前編。
みやぢなおき - 1978年9月16日生まれ。栃木県出身。慶応大学。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。2000年にクリケットの日本代表選手に初めて選抜される。その後、オーストラリアのメルボルンやロンドンのクリケット・クラブでプレー。2008年より日本クリケット協会事務局長に就任。今年9月12日、日本におけるクリケットの普及活動を称える動議がスコットランド議会で可決した。日本クリケット協会の「CRICKET FOR SMILES 東日本大震災復興支援事業」によって、クリケットを通して被災地の子供たちに笑顔を届ける活動を実施している。
www.cricket.or.jp/cricketforsmiles/aid
スコットランド議会の称賛に
「何のことやら分からなかった」
9月12日、スコットランドの首都エディンバラ。ユネスコの世界遺産に登録されている美しき旧市街に立つスコットランド議会の議事堂で「Naoki Miyaji」という日本人男性を称える動議が可決された。日本におけるクリケットの普及活動への取り組みを称賛された男性はそのとき、クリケットの日本代表選手として海外遠征の真っ最中であった。
翌日の夕方。南太平洋に浮かぶ小さな島、サモア独立国。同地で間もなく開幕するクリケットの世界大会に向けての練習を終えて、夕食を食べに行こうと日本代表選手たちが宿泊先のホテルのロビーに集合すると、選手の一人が「こんなのが出ています」とスマートフォンの画面を宮地さんに見せた。画面を覗くと、スコットランド議会が自身を称賛したと報じるニュース記事が。帰国後は日本クリケット事務局での勤務に精を出す宮地さんは「あの時点では何のことやら全く分からなかったです」と苦笑しながら振り返る。
クリケット日本代表メンバー。国際大会が行われたボツワナにて
日本人の父とスコットランド人の母を持ち、日本で生まれ育った宮地さんは、小学校5年生の夏休みをロンドン西部ウィンブルドンに住む叔母の家で過ごした。その短い休みの間に叔母の家から通った、様々なスポーツを体験するキャンプでクリケットと出会う。日本では見たことも聞いたこともないこのスポーツが、宮地さんには「なぜだか強く印象に残った」。中高生のころ、英語の授業で外国語指導助手に話題を振ると、「まさか日本の学生とクリケットについて語るとは思わなかった」とその助手を驚かせたという。息子が自身の母国の文化に興味を持ったことを喜んだ母が買ってくれた道具一式を持ち出して、近所の公園で兄弟そろってクリケットの真似事に興じたこともあった。宮地さんが本格的にプレーし始めたのは大学でクリケット部に入部してから。「正直なところ、それまではルールさえまともに分かっていない状態で。ただクリケット部での練習の初日にバットを持参した新入生は僕だけでした(笑)」。
「選手たちに漂う高貴な雰囲気。
真の紳士だな、と思いました」
小さいころからスポーツが大好きだった宮地さんは、大学のクリケット部に入部して半年後に行われた新人戦から大活躍。クリケットの聖地であるロンドンのローズ・クリケット・グラウンドを本拠地とする名門マリルボーン・クリケット・クラブ(MCC)が初の日本遠征に来た際には対戦メンバーに選ばれた。「MCCの選手たちに漂う高貴な雰囲気。落ち着いているのにエネルギーがある。人の話をきちんと聞いて、かつ賢い答えも持っている。真の紳士とはこういう人のことなのか、と思いました」。
アラブ首長国連邦のシャールジャで行われた対モルディブ代表戦。
中央でボールを投げているのが宮地さん
幼いころからスコットランド生まれの母親と英語で会話をしてきた宮地さんは英語を流暢に話す。日本遠征にやって来た外国チームのお世話役や国際クリケット評議会との連絡役に適任だった。2000年に初のフル代表に選ばれてからは、海外の地を訪れる機会が増大。世界大会への出場でアラブ首長国連邦、親善試合で中国へ。技術を向上させる機会を求めてオーストラリアやクリケットの母国である英国のクラブでもプレーした。宮地さんにとって、クリケットはまさしく世界への扉だったのだ。それでも、宮地さんは海外ではなく、日本を拠点とすることにした。彼と世界各国を繋げたクリケットは、日本では著しく認知度が低いスポーツ。日本代表に選ばれてもコーチがいない。練習するグラウンドがない。この状況を変えなければ、と思ったからだ。(続く)