ジャパンダイジェスト
独断時評


コーカサス危機とドイツの無力

真夏の太陽に灼かれながら、広大な原野を進撃する戦車と装甲兵員輸送車。炸裂する砲弾と、燃え上がる民家。着のみ着のままで戦場から逃げる市民たち……。まるで第2次世界大戦の記録映画のような情景が現実になり、戦争が不吉な鼓動を始めた。8月上旬にロシアとグルジアの間で南オセチアをめぐって、本格的な戦闘が勃発し、ヨーロッパの政治家や安全保障関係者にとって、夏休み気分は完全に吹き飛んだ。

背景には、国をまたぎ、モザイクのように複雑に入り組んだコーカサス地方の民族構成がある。南オセチアにはロシア系住民が多く、1992年以来グルジアからの独立を求めていた。ロシアは同地方での影響力を失わないために、南オセチアに平和維持軍を駐留させ、住民にロシアのパスポートを配布していた。だが南オセチアは国際法上はグルジアの領土、グルジア政府にとってロシアの態度は内政干渉である。数週間前から両国間で続いていた小競り合いは、グルジアが南オセチアに戦闘部隊を送ったことで一気にエスカレートし、陸海空で両国の正規軍が衝突する最悪の事態になった。

メルケル首相は、EU議長国であるフランスのサルコジ大統領らと歩調を合わせて、両軍に対して戦闘行為の即時停止を要求。領土紛争を交渉によって解決するように求めた。特にロシアの攻撃は南オセチアだけでなく、ゴリなどグルジアの諸都市にも及んでいるため、EUはロシアに対して過度な武力行使をやめるように要求している。

だがEU諸国の影響力は、きわめて限られている。天然ガスや石油など、エネルギー供給の面でロシアに大きく依存している西欧諸国には、ロシアに圧力をかけるための材料がほとんどない。旧ソ連に比べると弱まったとはいえ、今でも強大な軍事力を持つロシアに対して、武力行使の可能性をちらつかせる度胸は、ドイツなどEU諸国だけでなく、米国のブッシュ大統領すら持っていない。

ロシアのグルジア攻撃は、欧州全体にとって危険な要素を含んでいる。グルジアは米国やEUに対し友好的で、北大西洋条約機構(NATO)への加盟を望んでいる。NATOも領土紛争の解決を条件に、同国の加盟については原則的に前向きな姿勢だ。

ロシアは、旧ソ連に属していた国のNATO加盟を重大な脅威とみなしている。このため、プーチンは今回のグルジア攻撃によって、ウクライナなど、かつてソ連下にいた国に対し、一種の「教育」を施そうとしているのだ。リトアニア、エストニア、ラトビアのバルト三国にはロシア人が多く住んでいるが、こうした国々にとってもロシアは恫喝(どうかつ)を与えたことになる。外国に住むロシア系住民を保護するという名目で、ロシア軍が出動することは、将来もありうる。

メルケル首相は、前のシュレーダー氏と異なり、ロシアに対して批判的な態度を貫いてきた。今回のコーカサス危機は、彼女の洞察が正しかったことを示している。西欧諸国とロシアの関係は冷え込み、ロシアの周辺諸国の間では、「保険」を手にするために、NATO加盟を求める声が一段と強くなるに違いない。

22 August 2008 Nr. 728

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:02
 

市民権取得テストに合格できる?

ショイブレ内務大臣は今年9月1日から、ドイツへの帰化を希望する外国人に全国共通テストを受けることを義務付ける。フンボルト大学の教育研究所が編集した政治、歴史、社会に関する310の設問のうち、毎回33問が出題される。このうち最低17問に正しく答えなくてはドイツの市民権を得ることはできない。

試しに、いくつかの設問例にチャレンジしてみた。「ドイツの州の数はいくつですか?」――これは簡単、16州。「DDRとは何の略でしょうか?」――これもやさしい、ドイツ民主共和国。「1970年にブラント首相が、ワルシャワ・ゲットーの慰霊碑の前でひざまづいた時、首相は何を表現したかったのでしょうか」――おっと、これはかなり難しい設問だ。ドイツの現代史についてかなり詳しく学んでいなくては答えられない。彼はナチスドイツがユダヤ人を迫害したことについて、ドイツ人として謝罪したかったのである。

出題される設問の中にはドイツ人ですら、すぐに答えられないものもある。ただし、310の設問は事前に公開されるし、各州は市民権取得テストに備えるための授業も行うので、テストを受ける外国人は、ドイツ語に堪能で、十分に予習をすれば合格することは不可能ではない。

このテストの導入は、ドイツ政府が一定の学力を持ち、社会保障に頼らずに自分の力で収入を得られる外国人を、積極的に迎え入れようとしていることを示している。この国の社会保険制度は火の車であり、自活できずに失業保険や生活保護に依存する外国人にドイツのパスポートを渡そうという気はないのである。これに対し、社会民主党(SPD)の左派や緑の党は、「テストの導入は、外国人の受け入れにブレーキをかける」と批判的だ。

ナチスが外国人を迫害したことに対する反省から、戦後の旧西ドイツは亡命申請者や帰化希望者の受け入れに寛容だった。しかし統一後、台所事情が苦しくなってからは、ドイツ経済が必要とする知識や技能を持った外国人を、優先的に受け入れようとする傾向が強まってきた。だが、世界には自国から政治犯として迫害されているために、ドイツの戸を叩く外国人もいる。いくら台所事情が苦しくても、政治的信条を理由にこの国にやってくる外国人には扉を閉ざすべきではないだろう。

ドイツでは8年間真面目に働き、税金を納めれば帰化申請を出すことができる。日本よりもはるかに寛容である。この国では少子・高齢化が深刻なため、今後人口が大幅に減少するとみられている。従って、勤勉な外国人を受け入れることは、社会保障システムを維持するためにも重要なのだ。

私はドイツに18年間住んでいるので、帰化申請の資格はある。税金や社会保険料を納めているのに選挙権がないことは、いささか不満である。だが、ドイツ国籍を申請する気はない。ドイツ・日本政府ともに2重国籍を認めていないからだ。ドイツのパスポートを得るために、祖国日本のパスポートを捨てる気にはならない。

15 August 2008 Nr. 727

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:02
 

ベルリンの光と影

ベルリンの光と影 ベルリンのヴェディング地区。信号が赤になったので車を停めたら、外国人らしき子どもたちが、頼みもしないのにフロントガラスに洗剤の混ざった水をかけ、ブラシでこすろうとする。掃除の押し売りによってドライバーから小銭をもらおうとする、新手の物乞いである。ただ金をせがむのでは恵んでくれる人も少ない。そこで窓を拭けば、お金をもらえる確率が高まるかもしれないという計算である。ドライバーの中には、窓を拭かせて、小銭を払わないで走り去る者もいる。2週間の滞在で3回、こんな子どもたちに遭遇した。ベルリンには車で何度も来ているが、「窓拭き押し売り」にあったのは初めてだ。

実は、シチリア島など南イタリアの貧しい地域では、何度かこのような子どもたちに出会ったことがある。このため、「ベルリンもシチリア島並みになってきたのかなあ」と、複雑な気持ちだった。

首都ベルリンの貧しさは様々な統計に表れている。ハンブルク市当局が、ドイツの各州の経済パフォーマンスを比較した統計によると、2004年から06年のベルリンの市民1人当たりの国内総生産(GDP)は2万3300ユーロで、ハンブルクよりも51%、バイエルン州よりも27.4%少ない。市民1000人当たりの生活保護受給者の数はベルリンでは143人。バイエルン州の39人、バーデン=ヴュルテンベルク州の40.9人を大幅に上回っている。

連邦労働庁によると、今年5月のベルリンの失業率は14.1%で、全州の中で3番目に高い。バイエルン州やバーデン=ヴュルテンベルク州の失業率(4.1%)の3倍を上回る数字だ。一方ノイケルン地区では、青少年による暴力事件が増えているため、昨年から一部の公立学校では、校門の前に警備員を立たせて、出入りする生徒の身元を確認している。

ベルリンの失業率が高い原因の一つは、多くの従業員を雇用する大企業がないことだ。ジーメンス、アリアンツ、ダイムラーなどの大企業は、旧西ドイツ、特に南西部に集中している。ベルリンは政治、外交、ジャーナリズムの中心地ではあるが、企業活動のメッカではないのだ。連邦制を採用しているため、企業が政府のお膝元に集まる必要はないのだ。

かつて住んだことのある米ワシントンDCもそうだった。議員や記者、外交官、ロビイストは多いのだが、大手企業の本社はほとんどない。テレビの画面に映ることはめったにないが、北西部の住宅街やホワイトハウスの周辺を除けば、ワシントンは貧しい町である。

もっとも、ベルリンは裕福ではなくても、異文化を吸収するエネルギーと歴史の重層性を持った、ドイツで最も興味深い町であることには変わりない。特に文化と知識の面では、バイエルン州やバーデン=ヴュルテンベルク州にはないパワーを秘めていることを忘れてはならない。

8 August 2008 Nr. 726

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 11:59
 

旧東ドイツをどうするのか?

ゲーテの「ファウスト」にも登場する古都、ライプツィヒ。中世以来栄えた商業都市である。社会主義時代には車の排気ガスや埃で真っ黒に汚れていた歴史的建築物は、統一後美しく修復されている。バッハが聖歌隊指揮者を務めたトーマス教会の周辺は、特に観光客で賑わっている。1718年に店を開けた世界最古の喫茶店の一つといわれる「カフェ・バウム」も、見事に蘇った。西側と全く遜色のないショッピングセンターには、寿司屋まである。

ライプツィヒの中央駅は、ベルリンの中央駅が完成するまでドイツで最も立派な駅だった。これほど巨大なホールを持つ駅は珍しい。だが駅の西側には大きなホテルの廃墟がある。1915年開業の「ホテル・アストリア」は、社会主義時代には「インターホテル」という名前で営業していたが、97年から11年間も空き家になったままである。建物を買って修復しようという投資家が現れないのだ。街では、以前来たときに比べて更地が目立つようになった。古い建物を空き家にしておくと街のイメージが悪いので、取り壊して駐車場などにしているのだ。特に市東部では、空き家となった建物が多い。

ライプツィヒから15キロ西方に位置するザクセン=アンハルト州のハレの状況は、ライプツィヒよりも気を滅入らせるものだった。ヘンデルが生まれたこの街も中世にはたいそう栄えたが、社会主義時代には建物の傷みが目立った。人々が街の中心部を去り、郊外の高層団地に住むようになったため、旧市街には空き家が非常に多くなった。私が92年に訪れた時に比べると、廃墟と化した建物の数は減っていたが、それでも中心部の聖母教会の裏にすら、今にも崩れ落ちそうな民家が残っていた。なぜこうした建物を放置しておくのだろうか。

ハレから南の方角にあるメルゼブルクに車を走らせると、窓ガラスが割れた空き家がずらりと並んでいる道もあった。火災で焼けたまま、放置されている民家もある。ゴーストタウンのような雰囲気だ。ベルリンの壁崩壊から20年近く経っているのに、今なお投資家が見つからないのである。街がこのような状態で放置されていれば、東側のイメージはさらに悪くなり、投資家は近づかない。悪循環以外の何物でもない。

旧東ドイツの人口は今も減りつつある。連邦統計局によると、同地域の人口は2001年から06年までに47万人減少した。人口が2.7%減ったことになる。同時期に西側の人口が0.5%増えていることと対照的だ。仕事を求めて、テューリンゲン州やザクセン州からバイエルン州などに移り住む人は後を絶たない。

ドイツは毎年、国内総生産の5%にあたる資金を旧東地域に注ぎ込んでいるのに、経済は独り立ちできず、人口が流出する。このままでは過疎地帯になってしまうかもしれない。連邦政府は、東側の病状があまりにも深刻なので、さじを投げたように見える。統一以来、この国を観察し続けている者としては、非常に残念である。

1 August 2008 Nr. 725

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:02
 

躍動都市ベルリン

ベルリンは今、ヨーロッパで一番面白い都市である。この街ほど、急速に変化している場所は他にない。来年は、ベルリンの壁崩壊から20年目にあたる。今、ヨーロッパの若者の間では、この街に対する関心が急激に高まっており、仕事や観光でベルリンを訪れる人の数は、ここ数年大幅に増加している。ベルリン統計局の調べによると、2006年には観光客の数が前年に比べて11%増えた。特に外国からの訪問者が13.8%増加したのが目立つ。旧東ドイツの街では人口の減少が目立つのに対し、ベルリンの人口は少しずつ増えている。

かつて壁の東側だったプレンツラウアー・ベルク地区では、幼い子どもの手を引いたり、ベビーカーを押したりする市民の姿が目立つ。ベルリンで最も人気があるこの地区では、20歳から40歳の市民の比率が飛び抜けて高くなっているのだ。同地区では100年以上前の豪壮なアパートが美しく修復され、しゃれたカフェやレストラン、ギャラリーが目白押しである。しかも、ミュンヘンのシュバーヴィング地区などに比べて気取りがなく、庶民的で気さくな雰囲気だ。住みたい人が多いのも、うなずける。

現代建築に関心を持つ人にとっては、ベルリンは魅力に満ちた街に違いない。連邦議会議事堂(ライヒスターク)、連邦首相府、議員会館、中央駅、外務省など、この国の最新建築はベルリンに集中している。首都としての貫禄を少しずつ備えつつあるのだ。

だがベルリンで最も私が興味深く思うのは、「人」である。ここほど千差万別の背景を持った人々が寄り集まって生活している街はドイツでも珍しい。民族、文化、宗教のサラダボウルである。キリスト教会の尖塔がそびえているのはドイツでよく見かける光景だが、同じ街にイスラム教寺院が次々と建てられている。トルコ人が多いクロイツベルク地区だけでなく、ミナレット(モスクの尖塔)はベルリンの他の地域にも広がっている。ドイツ社会でイスラム教が存在感を強めつつあることを感じさせる光景だ。

ベルリンはミュンヘンやシュトゥットガルトほど裕福ではない。しかしここには、金だけでは測れない知性と文化の厚み、そして外国人を包含する懐の深さがある。バイエルン州の人々などに比べるとベルリン市民は外国人慣れしているし、知らない人でも気軽に話しかける傾向が強い。わずか2週間の滞在でも、そのことを強く感じた。

ドイツの政治と外交、ジャーナリズムの中心であるため、国内で最も国際的な都市だ。ラジオで、ワシントンDC、ロンドン、パリからのニュース番組が24時間にわたって原語で聴けるのも、ベルリンならではである。

そしてベルリンのもう一つの特徴は歴史である。第二次世界大戦、敗戦後の東西分割、冷戦、壁の崩壊から統一。これほど現代史のドラマが凝縮された街は、世界のどこにもない。街の至る所に、歴史を思い起こし、保存しようという試みを見つけることができる。ブランデンブルク門近くにあるユダヤ人虐殺追悼モニュメント、壁で分断されたベルナウアー・シュトラーセのベルリンの壁資料館は、ほんの一例にすぎない。ベルリンを訪れて、そのダイナミズムにぜひ触れてほしい。

25 Juli 2008 Nr. 724

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:02
 

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