ジャパンダイジェスト
独断時評


RAFテロの全容解明を

RAFテロの全容解明を

赤軍派(Rote Armee Fraktion)は、ドイツの犯罪史上、最も凶悪な極左テロリスト集団だった。そのRAFが1977年にカールスルーエで、ブーバック連邦検事総長や運転手ら3人を暗殺した事件をめぐり、30年も経った今年、新しい情報が浮かび上がったことについて、意外に思った読者も多いのではないだろうか。

これまで検察庁はクリスティアン・クラーという男が3人を殺害したと考えていた。ところが元RAFメンバーの証言から検事総長の乗ったベンツの横にオートバイで近づき、荷台から短機関銃で射撃したのはクラーではなく、別件で有罪判決を受け、すでに釈放されているシュテファン・ヴィスニフスキーという別のテロリストだったという疑いが浮上したのである。しかも、「憲法擁護庁と連邦刑事局は1980年代の終わりに、すでにこの情報をつかんでいたにも関わらず、突っ込んだ捜査を行わなかった」という疑惑も浮かんでいる。

事件から30年も経った現在、銃の硝煙反応などの物証によって、この情報を裏付けることは不可能だ。鍵となるのはヴィスニエフスキーの証言しかない。もしも本当に彼が銃の引き金をひいていたとしたら、捜査当局にとっては大黒星である。もちろんRAFという組織が連邦検事総長を殺害した事実に変わりはないが、実行犯を特定するのは捜査の基本である。捜査当局は、連邦検察庁のトップ殺害という重大な事件で30年間にわたり、RAFにかく乱され続けるという失態を演じたことになる。

また、今回新事実が浮上したことは30年間にわたり、捜査当局への協力をかたくなに拒んできたRAFの元メンバーの結束がようやく崩れて、証言を始める者が現われたことを意味している。

ブーバック氏の息子は、元RAFメンバーを交えたテレビ座談会に出席し、目をうるませながら「遺族にとっては、誰が肉親を殺したのか真実を知ることは、極めて重要だ」と述べ、捜査当局に対して疑惑の解明を強く求めた。捜査ミスによって、30年間も別の人物を真犯人と思い込まされていたとしたら、遺族には痛恨の極みだろう。彼らは殺された肉親のためにも真実を知ることを求めている。

RAFによるテロには、依然謎に包まれた部分が多い。たとえばドイチェ・バンクのヘルハウゼン頭取が、路側爆弾によって殺害された事件や、ドイツ信託公社のローヴェッダー総裁が、自宅で射殺された事件でも、実行犯は特定されていない。RAFの沈黙の壁が崩れたことを機会に、捜査当局はこれらの事件の全容も、一刻も早く解明して欲しいものだ。

11 Mai 2007 Nr. 662

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:49
 

テロ捜査と人権

テロ捜査と人権

ショイブレ内相は、メルケル政権で最も経験が豊富で、かみそりのように鋭い政治家として知られている。彼が4月末にテロ捜査について行った発言は、国内で大きな波紋を呼んだ。

彼はドイツに住む全市民の指紋やパスポート写真を捜査当局のデータバンクに保管して、犯罪捜査に使用することを提案したのである。さらにトラックが高速道路を走行する際にコンピューターに蓄積される情報をテロ捜査に使ったり、警察が電話回線を通じて個人のコンピューターに入り込んで、データを調べたりすることができるように、法律を改正することを求めている。

またドイツの捜査当局は犯罪事実について動かぬ証拠が見つかるまでは、容疑者を「無実」と推定することを前提としているが、ショイブレ内相はテロ攻撃の防止など特殊な状況では、この原則をあてはめないことも提案している。つまり、捜査官は「容疑者が犯人に間違いない」という前提で尋問するのである。これは刑事事件の捜査の手法に歴史的な変化をもたらす。

約70年前に、ナチスが最悪の警察国家を作り上げたことがあるドイツでは、個人データを警察が犯罪捜査に使うことや、コンピューターの使用記録や携帯電話の盗聴はデリケートな問題である。特にリベラルな勢力は、「監視国家の再来」を危惧するだろう。実際、政界からは同相の発言に「行きすぎだ」という声が出ている。

このテーマがドイツ人を苛立たせるとわかっているにもかかわらず、ショイブレ内相があえて大胆な発言を行った理由は何だろうか。それは、アルカイダなどのイスラム過激派グループが、ドイツで無差別テロを行う危険が刻々と高まっていることにある。ドイツは電子偵察機能を持ったトルナード戦闘機をアフガニスタンに送っているほか、約3000人の将兵を駐留させている。過激組織は、ドイツがアフガニスタンから即時撤退しない場合には、国内でテロを起こすことをインターネット上で示唆している。イラクでドイツ人親子を誘拐したグループも、同じ要求を政府に突きつけている。ロンドンやマドリードで起きたようなテロがドイツで発生する可能性は、もはや排除できない。

ドイツには約170万人のイスラム教徒が住んでおり、捜査当局にとっては国内に潜伏する過激組織を摘発するのは容易なことではない。捜査官にとって個人情報保護法は大きな障壁だろう。インターネットを通じたアルカイダのメッセージに影響されて、ドイツ生まれのイスラム教徒がテロリストになる可能性もある。ショイブレ内相の発言は、無差別テロを防ぐという困難な課題に直面した捜査当局のあせりがいかに高まっているかを如実に示している。

9.11事件を体験した米国は、「テロ捜査のためには、市民の人権が制限されるのはやむを得ない」という立場を取っている。同相の発言には、同じ意図が含まれている。テロ捜査はもちろん重要だが、ドイツ政府には米国のように暴走してほしくない。テロ捜査のためとはいえ拷問を黙認するような国になるべきではない。

4 Mai 2007 Nr. 661

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:52
 

エッティンガー発言の真意は何か

エッティンガー発言の真意は何か

再びドイツで、ナチスの過去をめぐる論争が巻き起こった。バーデン=ヴュルテンベルク州のギュンター・エッティンガー首相が、同州の首相だった故ハンス・フィ ルビンガー氏のための弔辞で「彼はナチスの敵 (Gegner)だった」として、歴史を歪曲するような発言を行ったのである。

フィルビンガーはナチスがドイツを支配していた時代に海軍の軍事法廷の裁判官として、2人の脱走兵に対して死刑判決を下している。(2人の兵士は逃亡したので、刑は執行されなかった)さらに、22歳の脱走兵ヴァルター・グレーガーに対する裁判では検察官として死刑判決の言い渡しに関わり、銃殺刑に立ち会っている。また1945年5月にフィルビンガーは、軍服からハーケンクロイツの紋章を剥ぎ取った兵士に不服従の罪で6カ月の禁固刑を言い渡した。戦後、シュピーゲル誌がフィルビンガーが死刑判決に関わっていた事実を暴露したため、彼は1978年に世論の圧力に対抗できなくなり、州首相を辞任している。

脱走兵に死刑判決を言い渡す裁判官を「ナチスの敵」と呼ぶことは、大きな矛盾である。これはナチスに抵抗運動を行って、死刑にされた人々に対する侮辱でもある。さらにエッティンガーは、「フィルビンガーは当時の何百万人もの人々と同じく抵抗の意志を表に出せなかったのだ」と明らかに擁護する姿勢を見せた。このためエッティンガーの発言に対しては国内外から強い抗議の声が上がった。同じキリスト教民主同盟(CDU)に属するメルケル首相も、「故人に対する尊敬の念だけでなく、犠牲者に対する配慮も必要だった」と公式にエッティンガーを批判している。

エッティンガーは4月16日にようやく発言を撤回して謝罪した。なぜ彼はこのような演説を行ったのだろうか。エッティンガーほど経験豊かな政治家が、この演説の反響を予想できなかったはずがない。スピーチを書いた側近はフィルビンガーの信奉者として有名な人物だった。私はこの演説は失言ではなく、エッティンガーがバーデン=ヴュルテンベルク州の右派の票を獲得するためにあえて行った「確信犯的行為」だと考える。その証拠に彼は、「私たちの地域では葬儀の際に死者に鞭打たず、功績を強調する習慣がある。私はこの演説で、はっきり(フィルビンガーを称える)しるしを残した」と述べている。同州の右派勢力は、エッティンガーの演説に「よくやった」と拍手喝采を送っている。

この演説は作家マルティン・ヴァルザーが98年に「アウシュビッツの映像を繰り返し見せられるのは、もうたくさんだ」と述べ、ドイツの過去との対決を批判する講演を行って右派から強い支持を受けたことを思い出させる。ドイツではナチスの過去と批判的に対決する人々が社会の主流派だった。だがドイツ統一後になって、こうした努力に対抗してドイツ人被害者論を強調したり、ナチスによる犯罪を矮小化したりする動きが見られる。エッティンガーは、そうした波に乗ることによって、支持者を増やそうとしたのであろう。

大連立政権がエッティンガーの行為について批判的な態度を貫いたことは評価できるが、州政府レベルでこうした策動が見られるのは、やはり不気味である。スウェーデンと同じ国内総生産(GDP)を稼ぎ出すバーデン=ヴュルテンベルク州は、ドイツで最も経済力がある州の1つ。「エッティンガーは、この重要な州の首相にふさわしい人物なのか」という疑問の声すら出始めている。

27 April 2007 Nr. 660

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:52
 

イスラム文化とどう向き合うか

イスラム文化とどう向き合うか

学生の頃ドイツに初めて来た時、朝夕に響き渡る教会の鐘の音を聞いて、「ああ自分はヨーロッパにいるのだな」と強く感じた。キリスト教はドイツの生活の一部だ。この国で暮らしていると、人々の行動様式や発想の根底に、キリスト教の思想が横たわっていることに気づく。

だが、いまこの国ではイスラム教徒の数が急速に増えている。現在ドイツに住んでいるイスラム教徒の数は300万人である。その内最も多いのは、トルコ人だ。旧西ドイツは1960年代、70年代の高度経済成長期に、労働力不足を補うために、トルコから多数の労働移民(Gastarbeiter)を受け入れた。トルコ人は家族の絆を大事にすることから、労働移民が家族をドイツに呼び寄せやすい環境まで整えて移民を奨励した。この結果、ドイツには170万人のトルコ人が住んでいる。

このほかにも、レバノン、イラン、パキスタン、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソボ、アフガニスタンなどからの移住者たちが、イスラム教徒のコミュニティーを作り上げている。ベルリンやミュンヘンなどの大都市では、尖塔を持つモスク(イスラム教寺院)を見ることも珍しくなくなった。

イスラム教徒の出生率は、非イスラム教徒よりも高い。このため2030年にはドイツのイスラム教徒の人口は現在の2倍以上に増えて、700万人になると予想されている。人口に占める比率は、現在の4%から8%に急上昇する。

興味深いのは、キリスト教の価値観に失望してイスラム教に改宗するドイツ人が増えていることだ。ドイツ・イスラム文書館という団体の調べによると、2005年にイスラム教徒になったドイツ人の数は4000人。改宗者の数は前の年に比べて、4倍に増えている。しかも彼らの大半は、イスラム教徒と結婚するための改宗ではなく、信仰上の理由からイスラムの世界に入っている。

ドイツ人の中にはローマ・カトリック教会などの政策に反対したり、給与から差し引かれる教会税に不満を持ったりして教会から脱退する人が増えている。また、欧米社会の価値観に幻滅してキリスト教とは異なる精神世界をめざす人も多いのだろう。これからもイスラムに改宗するドイツ人の数は増えるものと思われる。

将来のドイツで、イスラム教徒の果たす役割が今よりも大きくなることは、間違いない。対テロ戦争に象徴されるような文明の衝突を和らげるためにも、イスラム教徒と非イスラム教徒が互いについて学び合い、相手の立場を尊重するような態度を取ることが、極めて重要である。その意味で、ショイブレ内務相がドイツの穏健なイスラム教徒の団体と定期的な対話を行い、相互理解と信頼関係を深めようとしていることは高く評価できる。4月に入って、これまでばらばらだったイスラム教徒の団体が、政府などと交渉する際に意見をまとめやすくするために、一種の連合会を結成したことも、喜ばしいことだと思う。

20 April 2007 Nr. 659

最終更新 Montag, 19 Januar 2015 13:06
 

働く女性に朗報!託児所増設へ

独断時評「連邦政府、州政府、自治体は、2013年までに、託児施設を大幅に増設することで合意しました。これで、3歳未満の幼児の3人に1人は、託児所に入れるようになります」。自分自身も母親である、フォン・デア・ライエン家庭相は、今月2日、ほっとした表情で発表した。社会保障サービスが削除されるというニュースの多かったドイツでは久々の朗報である。

連邦政府や州政府は、総額37億ユーロの資金を投じて、55万カ所の託児所を新しく建設する。現在、託児所に入ることができる子どもの比率は、旧西ドイツ地域が7.8%、旧東ドイツ地域が39%となっており、特に西側で託児所が大幅に不足している。政府は2009年には3歳未満の幼児の内、5人に1人が託児所に入れるようにする予定だ。

これまでドイツでは、フランスや英国に比べて託児所が少なく、料金が高かったので母親が仕事を続けにくかった。出生率も欧州で最も低い水準に達していた。託児所が少ないために出産後は仕事を続けられなくなるので、子どもを作るのをやめようと考えるカップルもいたに違いない。

私の回りにも出産後も仕事を続けたいが、託児所が見つからず困っているドイツ人が何人もいる。ミュンヘンでは、託児所に空きができるのを、何カ月も待っていたり、昼間に会社で働いている間は、両親に子どもを預かってもらったりしている母親は少なくない。だが託児所の数が今の約3倍に増えれば、女性が仕事と家庭の両立を実現しやすくなる。

その意味で、フォン・デア・ライエン家庭相が託児所増設に関する合意をまとめ上げたことを高く評価したい。彼女が属するキリスト教民主同盟(CDU)や、姉妹政党であるバイエルン州のキリスト教社会同盟(CSU)には、「女性は子どもができたら、職場で働かないで子どもの面倒を見るべきだ」と考える頑固な保守主義者たちが少なくない。

そうした党内の抵抗を打破して、同相が託児所合意を達成した背景には、旧東ドイツ出身のメルケル首相が、援護射撃をしたこともあるに違いない。労働力が不足していた社会主義時代の旧東ドイツでは、女性の90%が働いており、国営の託児所が完備されていた。メルケル首相が育った国では、母親が働くことは当たり前だったのだ。

さらに、人口減少が進むドイツでは将来労働力が不足することは確実と見られており、女性の労働力の活用は極めて重要なテーマである。政府がこうした長期的な視点に立って、女性にとって働 きやすい社会環境の整備に着手したことはメルケ ル政権の大きな功績の1つとして記憶されることになるだろう。

これまでメルケル首相は外交面では華々しい活躍をしてきたが、内政面ではヒットが少なかった。だが今回の託児所合意は市民や経済界からも高く評価されるに違いない。

13 April 2007 Nr. 658

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:50
 

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