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Tue, 16 December 2025

LISTING イベント情報

待望の再オープン ロンドンの美術館&博物館へ行こう!

待望の再オープンロンドンの美術館&博物館へ行こう!

ロックダウン規制緩和に伴い、ようやく英国の美術館、博物館が再開した。臨時閉館中はオンライン上で展示作を公開していた施設もあったものの、じかに作品を見る喜びはやはり何にも代えがたいもの。万全の感染防止対策のもとに再び開館した、魅力たっぷりのロンドンの企画展を一覧にまとめてみた。お出掛けの際は、各施設で公表している注意事項を一読し、事前予約制のチケットを確保するのを忘れずに。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

ロンドンの美術館&博物館へ行こう!

The British Museum

HISTORY
大司教の死から始まった混沌の歴史
Thomas Becket: murder and the making of a saint

Miracle windows 13世紀初期に制作され、「ミラクル・ウィンドーズ」(Miracle windows)として知られるカンタベリー大聖堂の巨大なステンドグラス。今回は現存する7枚のうちの1枚が展示される。同大聖堂から外部に貸し出しされるのは初

かつてベケットの遺骨や血に染まった衣服が入っていたエナメル製の聖骨箱

時の権力者であったカンタベリー大司教トマス・ベケットの半生と、のちに政治問題へと発展する同司教の殺害事件をめぐる史実に迫る展覧会。12世紀、ヘンリー2世の腹心であったベケットは、王と対立したことから1170年12月29日、4人の騎士に殺されてしまう。中世の欧州を震撼させる事件となったベケットの死とその後の国政への影響を、装飾写本から目撃証言、宝飾品や聖骨箱など、当時の様子を残した数々のオブジェで紐解く。

8月22日(日)まで
10:00-17:00(金は20:30まで)
£17

HISTORY
皇帝ネロは暴君だと言い切れるのか
Nero: the man behind the myth

Nero: the man behind the myth カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)に設置されていたとされるネロのブロンズ製の頭部。1907年に英南東部サフォークのアルド川で発見されたが、長い間第4代皇帝クラウディウスだと間違われていたそう

Nero: the man behind the myth 2014年にコルチェスターにあるショップの地下から発掘されたローマ帝国のコインや装飾具

ローマ帝国の第5代皇帝ネロは、西暦54年、16歳で王位を継承して30歳で自殺するまで、ローマ大火の犯人殺し、自身の母親・最初の妻殺しなど、その残忍さで広く知られている。本展は最新の研究に基づき、暴君ネロを当時のローマ社会における「ポピュリスト的リーダー」と捉え、ネロの新たな側面に光を当てる試みだ。約200点の展示物を通し、暴君ネロは動乱の時代を治めるために戦った救世主だったのか、その行動の真意を改めて検証する。

10月24日(日)まで
10:00-17:00(金は20:30まで)
£20

The British Museum
Great Russell Street, London WC1B 3DG
Tel: 020 7323 8000
Tottenham Court Road/Holborn駅
www.britishmuseum.org

The Design Museum

FASHION
スニーカーから文化史を紐解く
Sneakers Unboxed: Studio to Street

Sneakers Unboxed: Studio to Street ナイキのモナークとロンドン拠点のファッション・ブランド、マーティン・ローズ(Martine Rose)のコラボ・スニーカー。それぞれのブランドの強みや個性を最大限に生かし、実験的なスニーカー作りに取り組んだ

Sneakers Unboxed: Studio to Street リミテッド・アイテムなど貴重なスニーカーも多数展示される

もともと運動の際の専用靴として開発され、今やファッション・アイテムの一つとして生活に欠かせない存在となったスニーカーの展覧会。コンバースやナイキ、アディダスなど、若者の文化的シンボルとなったスニーカーが、どのように生まれ、独自の方法で時代を牽引してきたのかを読み解く。スニーカー愛にあふれたデザイナーへのインタビューや制作過程、活性化するスニーカー市場など、製作者側のストーリーも併せて紹介する。

10月24日(日)まで 
9:30-18:00(金・土は21:00まで)
£14

DESIGN
モダニズムの名作を世に送り出した女性
Charlotte Perriand: The Modern Life

Charlotte Perriand: The Modern Life 金属という画期的な新素材を用いて、ル・コルビュジェとともに製作したシェーズ・ロング(長椅子)のバスキュランテB306に横たわるペリアン。本展では同モデルの復刻版が展示され、実際に座ることができる

Charlotte Perriand: The Modern Life フランスのスキー・リゾート、レ・ザルク内にあるレジデンス、Arc 1600

インテリア・デザイナー、建築家など複数の肩書きを持ち、20世紀のモダニズム・デザインを牽引したフランス人女性シャルロット・ペリアンの大回顧展。ル・コルビュジェ主導のプロジェクト参加に始まり、独立後も万人が使えるインテリアを生み出してきたペリアンが、いかにしてデザインを構想したのかをスケッチや写真、実物の家具とともに紹介。男性優位だったデザイン業界に現れたペリアンの魅力とその功績に光を当てる。

6月19日(土)~9月5日(日)
9:30-18:00(金・土は21:00まで)
£18

The Design Museum
224-238 Kensington High Street, London W8 6AG
Tel: 020 3862 5900
High Street Kensington駅
https://designmuseum.org

Serpentine Gallery

PAINTING / DRAWING
Jennifer Packer: The Eye Is Not Satisfied With Seeing

NJennifer Packer: The Eye Is Not Satisfied With Seeing 描く動機の一つに「自分の弱さを認めつつも、誰かに認められたい」と挙げているパッカー。大胆な色使いに隠されたメッセージは、鑑賞者の琴線に触れる何かがあるはずだ

自分がかつて見たものや昔の記憶、あるいはその時々の気分をカラフルに組み合わせながら、友人や家族のポートレート、花、インテリアなどを描く米アーティスト、ジェニファー・パッカーの展覧会。何気ない風景画のなかに現代の黒人の生活や隠された感情を表現し、個人的なドローイングでありながら重い政治的メッセージを発する独特の作風で、近年注目を浴びている人物だ。英国初となる本展では、過去10年間の作品を一挙に公開する。

8月22日(日)まで
火~日 10:00-18:00
入場無料

Serpentine Gallery
Kensington Gardens, London W2 3XA
Tel: 020 7402 6075
Lancaster Gate/Queensway駅
www.serpentinegalleries.org

Tate Britain

PAINTING
Turner's Modern World

NTurner's Modern World 後期の水彩画「ナポリ」(1851年)は、長らく別のイタリアの街「ジェノヴァ」と題されていたが、最近の研究で場所が異なっていたことが分かり改称された。改称後初のお披露目となる

風景画家J・M・W・ターナーが、産業革命という時代の節目をどのように表現し、記録したのかを探る。同時期に活躍した多くの画家たちはこれらの出来事を無視していたが、ターナーは逆に強く惹かれ、工業化による社会の変化を題材として積極的に取り上げたという。今回は「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」のデッサンと完成版が初めて同時展示される。ターナー・ファンにも新しい発見がある企画展だ。

9月12日(日)まで
10:00-18:00
£22

Tate Britain
Millbank, London SW1P 4RG
Tel: 020 7887 8888
Pimlico駅
www.tate.org.uk

Tate Modern

SCULPTURE
The EY Exhibition: The Making of Rodin

NThe EY Exhibition: The Making of Rodin ロダンが考えた手法「アバティス」(abattis)は、手のひらなど個々のパーツを別々の彫刻から集め、再利用する手法のこと。前例のない型破りなやり方で独自の世界観を築いていった

「考える人」「地獄の門」など数々の名作を残した近代彫刻の巨匠、オーギュスト・ロダン。ブロンズや大理石作品が知られているが、ここでは石膏原型を中心に取り上げた同館初となる大規模な展覧会を開催する。光の当たり方やダイナミックな動きを断片的なパーツを使って調整する制作プロセスを丁寧に解説し、まるでロダンのスタジオにいるかのような錯覚を起こす展示法に注目だ。作品のほか、ロダンを支えたモデルや支援者との関係についても考察する。

11月21日(日)まで
10:00-18:00
£18

Tate Modern
Bankside, London SE1 9TG
Tel: 020 7887 8888
Southwark/St. Paul駅
www.tate.org.uk

Dulwich Picture Gallery

PHOTOGRAPHY
Unearthed: Photography's Roots

NUnearthed: Photography's Roots 旧1000円札の夏目漱石を撮影し、写真文化の発展に貢献した小川一真(1860~1929年)による作品。同氏による菊の写真も展示される。120年以上前に撮影されたとは思えない美しさは必見

植物の撮影プロセスを通し、1840年代から現代までの写真技術の変換と豊かな歴史をたどる。ヴィクトリア朝に活躍したウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット、女性写真家のパイオニア、アンナ・アトキンス、性的タブーを表した作品で物議を醸したロバート・メイプルソープなどを含む100を超える作品が集結。形態を記録する植物学的なアプローチから、エロティシズムの表現まで、技術的進化だけでなく写真そのもののルーツを探る。

8月30日(月)まで
水~日 10:00-17:00
£16.50

Dulwich Picture Gallery
Gallery Road, London SE21 7AD
Tel: 020 8693 5254
West Dulwich/North Dulwich駅
www.dulwichpicturegallery.org.uk

Victoria & Albert Museum

FASHION
Bags: Inside Out

Bags: Inside Out 透明で強固な熱硬化性アクリル樹脂、ルーサイトを使ったイブニング・バッグや16~17世紀に使われたブルザ(エリザベス1世の印章を守るために使われた袋)など、マニアックなアイテムがそろう

ハンドバッグからヴァニティーケース、ミリタリー・リュックサック、英下院本会議場に置かれていた元首相ウィンストン・チャーチルの書類箱まで、ありとあらゆるタイプのバッグにフォーカスした展覧会。新旧問わず300点を超える貴重なアイテムを「機能と実用性」「地位と身分」「デザインと制作工程」の3つのセクションに分けて分析し、物を入れるという本来の機能をはるかに超えたバッグの持つ社会的価値とその魔力の秘密に迫る。

2022年1月16日(日)まで
水~日10:00-17:00
£12

Victoria & Albert Museum
Cromwell Road, London SW7 2RL
Tel: 020 7942 2000
South Kensington駅
www.vam.ac.uk

Hayward Gallery

FILM / INSTALLATION
Matthew Barney: Redoubt

NMatthew Barney: Redoubt バーニーにとって初の屋外展示作となったインスタレーション「Sawtooth Battery」(2019年)が公開。高さ約10メートルのすらりと伸びた作品で、ギャラリーのテラスに設置されている

米コンテンポラリー・アーティスト、映像作家として活躍するマシュー・バーニーの展覧会。澄み切った空気が漂う雪山を舞台に、人間と自然との複雑な関係を表した最新映像作品「リダウト」(2018年、134分)を上映する(上映時間はウェブサイトを参照)。また、40を超える彫刻作品の展示もあるほか、銅板を電気めっきで加工するといった、異素材を掛け合わせるバーニーらしい作品も登場。真っ白な映像作品の世界と溶け合い、幻想的な空間が広がる。

7月25日(日)まで
水~土 11:00-19:00(日は10:00-18:00)
£12

Hayward Gallery
Southbank Centre, Belvedere Road, London SE1 8XX
Tel: 現在休止中
Waterloo駅
www.southbankcentre.co.uk

Barbican Art Gallery

PAINTING
Jean Dubuffet: Brutal Beauty

NJean Dubuffet: Brutal Beauty 精神病を患う人が生み出す、むき出しの生の芸術に惹かれていたデュビュッフェ。ここまでの規模の回顧展は英国初で、個人所蔵の作品など貴重なコレクションが各国から集結する

「アール・ブリュット」(生の芸術)という概念を生んだフランス生まれの画家ジャン・デュビュッフェの大回顧展。デュビュッフェは従来の均整のとれた理想的な美を嫌い、ガラスの破片や小石、砂利などさまざまな素材を使って実験的かつ遊び心のある作品を発表。次世代のアウトサイダーへ道を切り開いたとされ、ジャン=ミシェル・バスキアやデービッド・ホックニーといった現代アーティストにも多大な影響を与えたことでも知られている。

8月22日(日)まで
10:00-19:00
£18

Barbican Art Gallery
Silk Street, London EC2Y 8DS
Tel: 現在休止中
Barbican/Moorgate駅
www.barbican.org.uk

Royal Academy of Arts

PAINTING
David Hockney: The Arrival of Spring, Normandy, 2020

NDavid Hockney: The Arrival of Spring, Normandy, 2020 春の訪れからその終わりまでが豊かな色彩で描かれており、心満たされる作品がずらり。ホックニーが最新テクノロジーで描くのは2007年のiPhoneからで、デジタル機器には相当強いようだ

現在83歳の英国を代表するアーティスト、デービッド・ホックニーがiPadで描いた朗らかな風景画が見られる展覧会。昨年のロックダウン中、ホックニーは春の喜びと自然への賞賛をiPadで描き、ほのぼのとした穏やかな色彩の作品を116点制作した。作品はiPadで制作されたのち、ラージ・プリントで出力。作成画面よりはるかに大きく印刷されたことで、ホックニーの手の動かし方などストロークの詳細が分かるのが興味深い。

9月26日(日)まで
火~日 10:00-18:00
£19

人気のためチケットの入手が困難な状況となっている。今後のチケット情報はウェブサイトまたはSNSでご確認を

Royal Academy of Arts
Burlington House, London W1J 0BD
Tel: 020 7300 8090
Piccadilly Circus/Green Park駅
www.royalacademy.org.uk

The National Gallery

PAINTING
Conversations with God: Jan Matejko’s Copernicus

NJan Matejko’s Copernicus 天文学者の生誕400周年を記念して、1873年に描いた縦2.26メートル 、横3.15メートルの巨大な絵画「天文学者コペルニクス」。ポーランド本国で愛されている作品を見られる貴重な機会だ

19世紀に活躍したポーランド出身のヤン・マテイコは同国ではよく知られている歴史画家で、政治上の出来事を大きなキャンバスに描く壮大な油絵を得意としていた。同館でポーランドの芸術家の作品を飾るのはこれが初めて。今回はクラクフの歴史あるヤギェウォ大学から貸し出しされた迫力ある油絵「天文学者コペルニクス」をメインに、1543年に出版されたコペルニクスの著作「天球の回転について」の複製もRoom 46にて展示される。

8月22日(日)まで
10:00-18:00(金は21:00まで)
入場無料

The National Gallery
Trafalgar Square, London WC2N 5DN
Tel: 020 7747 2885
Charing Cross駅
www.nationalgallery.org.uk

 

今、知りたいFOOD WASTEのこと 英国のゴミ事情

英国のゴミ事情
今、知りたいFOOD WASTEのこと

ここ数年で「フード・ウェイスト」という言葉が定着し、これに対するさまざまな取り組みが世界中で行われている。エコロジーから社会格差まで、フード・ウェイストが現代社会の多くの問題と繋がっているのはご存じの方も多いだろう。今回は、改めてフード・ウェイストの何が問題なのか、問題解決のために英国ではどんな取り組みが行われているかをご紹介しよう。「食べ物を粗末にしてはいけない」という昔からの素朴な教えが、現在驚くほど重く響く言葉になっている理由が分かるはずだ。
文: 英国ニュースダイジェスト編集部

今、知りたいFOOD WASTEのこと

参考: Eco Networks、10 Facts About Food Waste by Biffa、lovefoodhatewaste、insinkerator、 Waste and Resources Action Programme(WRAP)ほか

そもそもフード・ウェイストとは?

日本語でもフード・ウェイスト(Food waste)という言葉は定着しつつあるが、つまりは食品廃棄物のこと。食品の製造や加工の過程で発生する廃棄物や、流通時の売れ残り、消費後に発生する調理時のゴミや食べ残しなどの総称だ。フード・ロス(Food loss)という言葉もあるが、こちらは厳密には製造・加工・流通の時点で廃棄されてしまう食品を指す。この特集では、英国でよりなじみのあるフード・ウェイストという言葉に統一する。

世界の食料生産量の3分の1にあたる約13億トンの食料が毎年廃棄されていることから、国連は2015年、世界全体の一人当たりのフード・ウェイストを2030年までに半減させると約束した。ただし、どのような方法でこの目標を達成するかは各国政府や企業にゆだねられており、世界共通のマニュアルがあるわけではない。ただ、もし国連の目標が達成されれば、少なくとも10億人分の食品が無駄にならずに済むという。

英国のフード・ウェイストあれこれ

英国の食料、どれだけムダになっている?

残念なことに、英国のフード・ウェイスト量は欧州一という結果が出ている。1年に1400万トンというこの数字は、スペインの廃棄量のほぼ2倍。スーパーマーケットが乱立するロンドンを見れば驚くにはあたらないともいえるが、企業だけではなく、一般家庭が行動を起こさない限り、この数値は自然に減少することはない。

欧州の年間フード・ウェイスト量 欧州の年間フード・ウェイスト量

英国で出る1400万トンのフード・ウェイストのうち、約50パーセントが一般家庭から排出されたもの。平均的な4人家族の家庭が1年間に無駄にする食料は金額にして約700~800ポンドで、年間で購入した食料の18パーセントを廃棄していることになるという。

フード・ウェイストの原因 フード・ウェイストの原因

製造から流通の過程では、曲がっているなど見た目の悪い野菜が廃棄される、調理済み食品が運送時の温度・湿度で腐敗する、そして店頭での販売期限切れを迎えるなど、どの段階においてもフード・ウェイストが排出されている。

英国家庭でムダになっている食品のベスト10
  1. ジャガイモ
  2. パン
  3. ミルク
  4. 料理(手作り/惣菜)
  5. 炭酸飲料
  6. フルーツ・ジュース/スムージー
  7. 豚肉/ハム/ベーコン
  8. 鶏肉/ターキー/ダック
  9. ニンジン
  10. ジャガイモ(調理済み)
  11. (2020年WRAP調べ)

2020年、英国の一般家庭で食品が廃棄される理由は、「期限までに食べ切れなかった」がトップ。家庭から出るフード・ウェイストで1番多いのは野菜で、なかでも最も廃棄されるのはジャガイモだという。2番目に多いとされるのはパン類だが、ロンドン市民が1日に捨てる食パンは総数260万枚にのぼり、英国全体では1日2000万枚にも及ぶ。

フード・ウェイストは何がいけない?

Reason 1
食料そのものだけではなく、その食料を育てるためには人件費や土地代、飼料代、肥料代、燃料などもかかっているため、それらも無駄になっている。

Reason 2
水資源を無駄にしている。例えば、小麦を育て食パン1斤を作るまでの過程で約バケツ100杯の水が必要だといわれている。

Reason 3
フード・ウェイストを処理するのにも費用が発生する。商品には廃棄費用が含まれているため、フード・ウェイストが増えれば小売価格も上がることになる。

Reason 4
廃棄物の運送や埋め立て、焼却処理には温室効果ガスが発生する。英国のフード·ウェイストは年間約1900万トンの温室効果ガスを排出している。

Reason 5
食料資源の不均衡な分配が社会問題を引き起こしている。先進国では多くのフード・ウェイストを出しながら、一方で毎日の食事に困る家庭があり、地域によっては飢餓に苦しむ人々が依然として存在している。国連食糧農業機関(FAO)の調査によると、世界の栄養不足人口は8億500万人。これは世界人口の9人に1人に相当する。

ロックダウンの影響は?

政府の調査によると、昨年春のロックダウン以降、英国の一般家庭のフード・ウェイスト量はロックダウン以前の3分の1に減少したという。これは、家できちんと料理をする人が増えたため。年代別では18~44歳までの市民によりその傾向があるという。ロックダウンの規制緩和に伴いフード・ウェイストは再び増加しつつあるが、まだロックダウン以前の数値には戻っておらず、70パーセントの市民が、これからも引き続き食品の無駄を出さないように気を付けるつもりだと答えている。規制が緩和され外食が可能になった今こそ、フード・ウェイストについて考え、ロックダウン中に身に付いた良い習慣は守っていきたい。

フード・ウェイスト削減、企業や団体の取り組み

欧州一のフード・ウェイスト排出国という汚名を返上すべく、2015年に政府がlove food hate wasteというキャンペーンを立ち上げ、本格的にフード・ウェイスト削減に取り組んでいる英国。ここでは特にユニークな活動をする2つの団体を紹介しよう。

Oddbox オッドボックス

オッドボックスはロンドンをベースにした野菜・果物配送スキーム。曲がったキュウリや二本足のニンジンなど、農家で収穫されたものの理想の形ではないため、規格外として店頭に並ばず廃棄される運命にある野菜や果実を割引価格で販売する。地元の農場や市場などから直接仕入れられた農産物は、サブスクリプション方式で週あるいは2週間ごとにロンドン市内の住所に配達。その売り上げの10パーセントは食糧不足と闘う慈善団体に寄付されている。

Oddbox

オッドボックスを立ち上げたのは、ディーパクさんとエミリーさんの2人。休暇で訪れたポルトガルの市場で、形は悪いが美味しい野菜を買い、なぜ英国には不格好な野菜が売られていないのかと不思議に思ったのが始まりだったという。ポルトガルから帰国後、サプライチェーンについて調べたところ、豊作で過剰に収穫された、見た目が悪いといった理由で、作物全体の40パーセントが廃棄されていることが分かった。

現在ではオッドボックスは最も成功した野菜・果物配送スキームの一つ。配達はロンドンのみだが、1箱£10.99から始めることができる。一時停止、キャンセルはいつでも可能で、配達の数日前にはオンラインでどんな農作物が来るかが分かる仕組みだ。

www.oddbox.co.uk


ミディアム・ボックスの場合(野菜&果物、£15.99)

リーク、ターニップ、茎ブロッコリー(紫)、ナス、コジェット、レタス、バターナッツ・スクワッシュ、ジャガイモ、オレンジ、リンゴ、キウイ、プラム

The Felix Project ザ・フェリックス・プロジェクト

ザ・フェリックス・プロジェクトは、そのままでは廃棄されてしまう質の良い余剰食品をサプライヤーから救出し、それを慈善団体や学校などに再配布するロンドンのチャリティー団体。2016年に設立されて以来、食糧不足に悩む人々をサポートしつつ、余剰食品の削減も実現させるという二つの活動に同時に取り組んできた。

新鮮な果物や野菜に限らず、パン、サラダ、肉や魚を多く含む、高品質で栄養価の高いものを、スーパーマーケット、卸売業者、農場、レストラン、デリなど、539を超えるサプライヤーから収集。それらの食品を分類し、ロンドンの約1000の慈善団体、小学校などに送っている。それにより、無駄になっていたはずの食べ物が、低収入家庭、ホームレス、メンタルヘルスの問題を抱える人々など、定期的に健康的な食べ物を買う余裕がない人々に届けられる仕組みだ。

The Felix Project

新型コロナに見舞われた2020年、ザ・フェリックス・プロジェクトはかつてないほど多くの食料を提供。19年に640万食だった配布が20年には2110万食に跳ね上がった。同団体は世界的なパンデミックのなか、できるだけ多くの人々を助けるために事業を3倍に拡大し、多くのボランティアが参加。そして、8339トンの余剰食料を救出することで、4万1695トンの温室効果ガス削減にもつながった。これは、1年間に9000台の車が排出する量に相当する。同団体は現在、毎日12万5000食分の食料を廃棄から救出、配達しており、毎週26万6560人のロンドン市民を救っている。

https://thefelixproject.org

フード・ウェイスト削減、個人にできること

英国で出るフード・ウェイストの半分以上が一般家庭から排出されるものであることは先に述べた。では、私たちはまず何を見直せばよいのか。当たり前なのに忘れていることから、ちょっとしたトリビアまで、一人ひとりが食生活を見直すヒントをご紹介する。アプリを使ったフードシェアリング・サービスなどもあるが、ここではいかに自分のフード・ウェイストを削減するかという観点から考えてみた。

計画的に購入

究極の削減法、それは余計な食材・総菜を買わないこと。とは言ってもむやみにストイックになる必要はない。当たり前ともいえる事柄に気を付けていたら、自然と買う量が減るはずだ。労を厭わずこまめに確認、計画すれば無駄な食費も削減できる。

  1. 買い物に行く前に冷蔵庫や戸棚に入っている食材を確認し、何が入っているか把握する。賞味期限にも気を配る。
  2. 買い物に行く前にきちんと献立を考える。
  3. 必要な食材をメモして買い物に行く。
  4. 単に安いという理由で余計なものを購入しない。

期限をチェックする

食材に記されている期限の全てが賞味期限ではないのでよく確認を。

Use by
消費期限: 安全に食べられる期限。期限を過ぎたら食べない方が良い。

Best before / Best by
賞味期限: 美味しく食べられる期限。期限を過ぎても色や味などに異状がなければ食べて良い場合もある。

Display until / Sell by
販売有効期限: 食品の質に関する期限ではなく、店舗側が使用するものなので、買い物する際は気にしなくて良い。

正しく保存

袋入りのジャガイモなど、1度で使い切れない野菜は気が付いたら芽が生えたり根が生えたり、干からびたりと形も味も変わり廃棄される運命をたどりがちだ。大袋ではなくバラで購入するのがベストだが、もしも余ってしまったらカレーやシチューなど野菜を一気に大量消費できるレシピに頼る方法もある。しかし調理したものも余ってしまい、手をかけた挙句に廃棄するという負のスパイラルにはまることもあるのではないだろうか。つまり、なるべく野菜をフレッシュなまま保存できるならそれが1番良いといえる。ここでは、家庭から出るフード・ウェイストで1番多いとされる野菜を、日持ちさせるための方法をご紹介。

ジャガイモ、玉ねぎ

ジャガイモ、玉ねぎ

いずれも新聞紙に包んだり紙袋に入れて冷暗所へ。ジャガイモは日にあたると芽から毒素ができてしまう。また、玉ネギと一緒に保存するとエチレンガスのせいでジャガイモの成長が早まって発芽してしまうため、別々が良い。

トマト、メロン、ナス、ピーマン

トマト、メロン、ナス、ピーマン

暖かい地方の野菜や果物は基本的に常温で保存したほうが良い。冷蔵庫に入れる場合は腐りやすいのでラップをする。

リーク、ネギ

リーク、ネギ

暑さにも寒さにも強いが乾燥に弱いため、新聞紙に包んでビニール袋に入れ冷暗所に立てて保存。

カリフラワー、ブロッコリー

カリフラワー、ブロッコリー

軸の切り口は濡らしたペーパータオルで包み、全体を新聞紙に包んでビニール袋に入れ冷暗所または冷蔵庫に保存。

ニンジン

ニンジン

頭部分を落とし、濡らしたペーパータオルで包んでビニール袋に入れ冷蔵庫へ。

マッシュルーム、きのこ

マッシュルーム、きのこ

新聞紙に包んでビニール袋に入れ冷蔵庫へ。

ほうれん草、レタスなど葉物

ほうれん草、レタスなど葉物

根の部分を洗い、水分の残った状態でそのまま新聞紙にくるみ、冷蔵庫のポケット部分に立てる。

もやし

もやし

水を張った容器に入れ、蓋をして冷蔵保存。水は毎日取り換えるといつまでもシャキシャキ感を維持できる。

そのほかに、冷凍、天日干しなどの方法もある。冷凍したり干したりすることによって、その食材のうまみが凝縮し生の状態より美味しくなることもある。冷凍に向いた食材、干すことで栄養がアップする食材など、千差万別なので詳細はウェブサイトなどで調べてみてほしい。

Store Food Properly https://toogoodtogo.org
キナリノ https://kinarino.jp など

 

意外と知らない、進化を続ける英国のラジオ

意外と知らない
進化を続ける英国のラジオ

進化を続ける英国のラジオ

今や専用のラジオ機器がなくても、インターネットで手軽にラジオを聴ける時代となったが、その歴史は無線通信が成功してから115年あまりと意外にも浅い。その間、英国では国営ラジオ、パイレーツ・ラジオ、コミュニティー・ラジオなど、異なる放送形態のラジオが生まれ、今日まで急成長を遂げてきた。近年は「継続的な聴取が脳を成長させる*」という説もあり、今後ますます注目を浴びていくメディアになるだろう。今回は、これらのラジオが英国で市民権を得るまでや、近年注目のラジオ局を紹介する。文: 英国ニュースダイジェスト編集部

* 株式会社脳の学校調べ。実験によりラジオを聴き続けると、左脳の言語記憶を刺激するだけでなく、右脳の記憶系脳番地も成長させることが明らかになった

参考: BBC Blog、Encyclopedia Britannica、History of the BBC、Engineering Timelines、Redbull ほか

ラジオ発展の軌跡

英国におけるラジオの発展に何が寄与したのだろうか。ラジオの原型を作り出した実験からさまざまなラジオ放送が生まれるまでのターニング・ポイントを見ていこう。

ラジオ発展のきっかけを英国でつかんだイタリア人

一般リスナーへ向けて発信する、今日の「ラジオ放送」の原型と呼べる世界初の音声による無線通信は1906年のこと。米発明家エジソンのもとで修行を積んだカナダ生まれのレジナルド・フェッセンデンは、1900年に約1.6キロメートルの距離で無線通信に成功した。のちに改良を重ね、1906年12月24日のクリスマス・イヴにバイオリンの演奏やメッセージを朗読したラジオ放送を米国で実現。これがラジオ放送の始まりとされている。しかしながらこの成功は、イタリア人発明家と英国の功績なくして語ることはできないだろう。

ラジオ放送を成功させたレジナルド・フェッセンデンラジオ放送を成功させたレジナルド・フェッセンデン

1874年、グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)は、地主のジュゼッペ、アイルランドでジェムソン・アイリッシュ・ウィスキーを生産する家系を親族に持つアニーの裕福な家庭のもとに、イタリアのボローニャで生まれた。父ジュゼッペは息子に士官候補生として海軍で活躍することを願っていたが、マルコーニの興味はもっぱら海上の治安より科学分野。家庭の献身的、金銭的なバックアップを受けたマルコーニは、幼いころから物理や数学の個人レッスン、そしてレグホーン技術学校とボローニャ大学で教育を受け、20歳の時点ですでに電磁波の実験に取り組んでいた天才だった。1895年には早くも約3.2キロメートル先にモールス信号でメッセージを送信することに成功。この結果はイタリア政府の関心を引いたものの、これの利用で一体どのような利益が生まれるのか検討がつかなかったため、その後の発展はなかったという。

火花送信機やモールス信号機、グラスホッパー電信に囲まれたイタリア人の物理学者、発明家のグリエルモ・マルコーニ火花送信機やモールス信号機、グラスホッパー電信に囲まれたイタリア人の物理学者、
発明家のグリエルモ・マルコーニ

ウェールズでの偉業

先の出来事により、マルコーニは自身の実験結果を活用できる顧客として、遠洋を航行する商人や海軍の艦隊に目を付け、船と陸地間で利用できる通信システムの開発に目標を定める。ロンドンに拠点を移したマルコーニは、当時郵政省のチーフ・エンジニアであったウィリアム・ヘンリー・プリースの支援を受け実験を進めていく。ちなみにプリースも1892年に英北部ニューキャッスルで無線通信に成功し、英国の電信システムの発展に貢献した人物の一人だ。マルコーニは程なくして、シティにあった郵政省の屋上から政府機関へメッセージを飛ばすことに成功。その跡地は現在大手電気通信事業者BTグループが所有するBTセンターになっており、建物の外には「この地からグリエルモ・マルコーニが初めて無線通信の公開実験を行なった」と記されたプラークが設置されている。

フラット・ホルム島でマルコーニの助手が無線機器を検査する様子フラット・ホルム島でマルコーニの助手が無線機器を検査する様子

その後もトライ&エラーを繰り返し、ついに当初の夢であった海上での実験に取り組むことに。「中継地に遮るものがないこと」を条件に、テスト地に選出されたのがウェールズだった。1897年5月10日から数日に渡り、同南部カーディフに近いラヴァーノックからブリストル海峡に浮かぶフラット・ホルム島で実験が行われ、13日、マルコーニはラヴァーノックから約4.8キロメートル先の島にいる助手へ向けて「CAN YOU HEAR ME?」と送信。助手から「YES LOUD AND CLEAR」と返信を受け、世界初となる海上での無線通信に成功した。なお、その際の記録紙片は現在ウェールズ国立博物館に所蔵されている。この実験で、最終的に無線はブリストル海峡を越え、対岸のイングランドのブリーン・ダウンまで届いた。

フラット・ホルム島

公共ラジオ放送への統合

1920年1月15日、マルコーニは郵政省から許可を得て、英東部エセックスのチェルムズフォードに設立した無線電信会社の工場から英国発となるラジオ放送を開始した。同年6月には欧州に向けて音楽放送もスタート。やがてマルコーニ社の他にも、企業発信の商業ラジオが複数生まれ盛り上がりをみせたが、各社が争うことで周波数不足や英国空軍の管理システムの妨害など問題が次々と表面化した。1922年、マルコーニ社ら他の大手通信会社は合弁会社を作り、ここに英国全土へ向けたラジオ放送コンテンツを提供する英国放送会社(British Broadcasting Company)が誕生した。同社は1927年に現在の英国放送協会(British Broadcasting Corporation=BBC)となり、現在のBBC設立に大きな影響を与えた。

パイレーツ・ラジオの台頭

1960年代に入ると、ロックやブラック・ミュージックといった当時のBBCラジオでは選曲されないジャンルの音楽を流すべく、音楽好きの有志が中心となり、公海から発信する「パイレーツ・ラジオ」(海賊ラジオ)の設立が盛んになる。この方法なら英国本土に発信拠点がないので放送自体は違法ではなく、政府が取り締まる地域の対象外であったが、結局放送免許がないことに変わりはないため、「許可されるべきではない」ラジオ放送であった。この手のラジオ局は1967年に外海、またその上に停泊する船舶、航空機からの放送が規制される法律が制定されるまで、グレーな扱いで実質的に野放し状態になっていた。

パイレーツ・ラジオはBBCによって公共の電波が独占されていた30年代からすでに存在しており、当時は娯楽要素を満たすというよりはCMを売って金銭を稼ぐことを第一の目的としていたにすぎなかった。しかし60年代にテレビが登場し、テレビ・コマーシャルが開始。広告主が新しいメディアに流れたことにより、金銭的な目的から離れ、世に出回らない本当に聴きたい音楽をベースにした放送内容にシフトしていくことになる。

多様な運営方法

英国のパイレーツ・ラジオのパイオニアといえば、Radio Caroline(ラジオ・キャロライン)やラジオ・ロンドン(Radio LondonまたはBig L、Wonderful Radio Londonとも呼ばれた)が挙げられるだろう。

アイルランドのビジネスマン、ローナン・オライリー(Ronan O'Rahilly)主導によって1964年に設立されたラジオ・キャロラインは、ライセンスを取得し、現在も放送されているラジオ局の一つ。ナイトクラブのオーナーでもあったオライリーは、自身がマネージャーをしていたアーティストのレコードをBBCラジオで流してもらえないか同局に掛け合ったところ、ラジオで流れる音楽は大手レコード会社によって牛耳られているという業界の事実を目の当たりにし、独自の選曲ができる自身のラジオ局を作ることを決める。入手した船をラジオ発信用に改造し、投資家からの支援を受けフェリックストー沖から放送を開始。ラジオのテーマ曲にはセロニアス・モンクのジャズ・スタンダードやバーミンガム出身のコーラス・バンド、ザ・フォーチュンズの「キャロライン」などさまざまなジャンルの曲を採用して若者の心を掴み、カルト的な人気を博した。

船内に備えられたラジオ・キャロラインの放送機器たち(コッツウォールド・モータリング博物館)船内に備えられたラジオ・キャロラインの放送機器たち(コッツウォールド・モータリング博物館)

多くのパイレーツ・ラジオはラジオ・キャロラインのように大半は停泊中の船内から発信していたが、なかには放棄された建物を使う場合もあった。英東部の海上に建設されたマンセル要塞は第二次世界大戦時に使用された要塞群で、ラジオ・サッチ(Radio Sutch)などが要塞群の一つをラジオ局として利用していた。ラジオ・サッチの代表スクリーミング・ロード・サッチはのちにアーティスト・マネージャーのレジオナルド・カルバートに設備を譲渡するが、カルバートは所有権をめぐり、ライバルのラジオ局に所属していた男性に射殺されてしまう。この殺人事件が先に述べた1967年の規制強化を後押ししたといわれている。

パイレーツ・ラジオに度々占拠されたマンセル要塞パイレーツ・ラジオに度々占拠されたマンセル要塞

伝説ラジオから敏腕DJの引き抜き

パイレーツ・ラジオの繁栄と法規制という攻防戦が繰り広げられるなか、ついにBBCラジオもより幅広いリスナーを取り込むための多様な番組作りに動き出す。1967年9月30日、ポップ・ミュージックなど、若年層を引き込むプログラム構成を売りにしたRadio 1の放送を開始するにあたり、ディスク・ジョッキーにラジオ・キャロラインのトニー・ブラックバーン、ラジオ・ロンドンのジョン・ピールなど、パイレーツ・ラジオの売れっ子DJを採用。これらのDJたちはまだ世に埋もれている才能あるアーティストたちを次々と紹介し、BBCに新たな風を吹き込むことに成功。英国のミュージック・シーンの発展に貢献した。

ベテランDJのジョン・ピール(2004年に逝去)ベテランDJのジョン・ピール(2004年に逝去)

その後1973年には民間ラジオの設立も認められ、多様なラジオ局が共存するようになる。放送に関する規制がより厳格に整えられていき、先のパイレーツ・ラジオはFM放送が始まった1980~90年代に再びピークを迎えたが、英国情報通信庁のOfcomの調べによると、2009年の時点で150ほど存在していたラジオ局は、2020年にそのほとんどがインターネット・ラジオに変わり激減した。

また、2018年の同社調べで、リスナーの約3分の2がデジタル放送でラジオを聴いていることが明らかになり、発信者もリスナーもアナログからデジタルに移行していることが証明された。ラジオの世界は常にテクノロジーの最先端とともに時代を駆け抜けているようだ。

2021年のラジオは?

さて、現在ラジオを楽しむにはどのような方法があるのだろう。多様化するラジオの魅力と手軽に聴けるラジオを調べてみた。

地域で広がるコミュニティー・ラジオ

サフォークのイプスウィッチ発「イプスウィッチ・コミュニティー・ラジオ」の収録の様子。メイン・ストリームで拾われないネタを中心に発信しているサフォークのイプスウィッチ発「イプスウィッチ・コミュニティー・ラジオ」の収録の様子。メイン・ストリームで拾われないネタを中心に発信している

コミュニティー・ラジオとは半径5キロメートル圏内の特定のエリアに住む人々に向けた情報、またそのエリアに適した英語以外の言語で送る非営利目的のラジオのこと。民族、年齢、宗教、ジェンダーなどを考慮したさまざまなニーズに応えることができ、英国内では現在300を超えるラジオ局が運営されている。なお、個人名義で放送ライセンスを持つことはできず、団体に対して許可が与えられる。Ofcomによると、ラジオ局は平均87人のボランティアにより運営され、1週間に約209時間を製作・放送に費やしているそう。大勢の手によって支えられているラジオなのだ。

もともとターゲット層を絞っていることも手伝い、ユニークな放送内容が特徴で、例えば、地元や海外アーティストなどの選曲が好評の、アート・コレクティブが運営する「レゾナンス FM」(Resonance FM、ロンドン)、インドとパキスタンにまたがるパンジャブ地方の言語でコミュニティーを応援する「デシ・ラジオ」(Desi Radio、ロンドン)、多言語の番組や障害のある人々へ向けた番組などマイノリティーへ向けたプログラム編成が充実の「オールFM」(ALL FM、マンチェスター)、85歳のDJも活躍する全員60歳以上のDJが1920~60年代の名曲を選出する「エンジェル・ラジオ」(Angel Radio、ハヴァント(ハンプシャー))、子どもによる子どものための「テイクオーバー・ラジオ」(Takeover Radio、レスター)などがある。オンラインでの視聴が可能なラジオもあるので、気になるプログラムがあればまずはウェブサイトをのぞいてみてほしい。

コミュニティー・ラジオのリスト
http://static.ofcom.org.uk/static/radiolicensing/html/radio-stations/community/community-main.htm

想像力で脳を刺激するラジオ・ドラマ

調査により、ロックダウン中にラジオで孤独を癒やしたリスナーは多かったことが分かった調査により、ロックダウン中にラジオで孤独を癒やしたリスナーは多かったことが分かった

近年はインターネットに接続すれば楽しめるオンライン・ラジオが普及し、世界中どこにいてもラジオが聴けるようになっている。また、新型コロナウイルス感染拡大防止により、以前に比べ自宅で過ごす時間が増えた今、家事や仕事、勉強をしながら気軽に聴けるコンテンツとして、今後もますます活用されていくことだろう。

最新ニュースや音楽を聴くのも楽しいが、ラジオ・ドラマもお勧めだ。聴くだけでイメージができるよう、会話や音楽、効果音を駆使して作られるラジオ・ドラマは英国では、1920年代から多くのリスナーを楽しませてきた。現在はポッドキャストの普及で作り手もリスナーも簡単に恩恵を享受できることから、オンライン・ラジオとともに広く利用されている。

また、英国には優れたラジオ・ドラマを選出する「UKインターナショナル・ラジオ・ドラマ・フェスティバル」というイベントも開催されており、昨年は新型コロナウイルスを題材にした作品が多数応募された。ウェブサイトでは10分程度の作品や、たった20秒で完結する「20 second audio dramas」など、気軽に聴ける面白い作品が公開されている。

UK International Radio Drama Festival
https://radiodramafestival.org.uk

お勧めのオンライン・ラジオ

名の知れたアーティストを多数抱える
NTS
www.nts.live

アンダーグラウンドの音楽シーンを牽引する、ロンドン東部ダールストン発信のラジオ局。スローガンの「Don’t Assume」の通り、コアなターゲット層に届けるパイレーツ・ラジオの集合体と呼ぶにふさわしい、多様性のある選曲が魅力だ。細野晴臣によるレギュラー放送もある。

流行りの曲を手軽に聴ける
Kiss FM
https://planetradio.co.uk/kiss

1985年にパイレーツ・ラジオとして始まり、現在はFM、オンライン・ラジオともに発信する人気のラジオ。男女からほぼ平等に支持されており、ダンス・ミュージック、ヒップホップなどを中心に人気チャートを流すスタイルが特徴。国内外でライブ・イベントも主催している。

世界をリードするグライムの発信局
Rinse FM
https://rinse.fm

今でこそ認知されているジャングル、UKガレージ、グライムなどのジャンルを英国内に根付かせ、その発展に貢献したとされるロンドン拠点のコミュニティー・ラジオ。この局もパイレーツ・ラジオ発で、アンダーグラウンドで活躍するベテランから新人までの音楽を扱う。

 

英国人桜守「チェリー・イングラム」コリングウッド・イングラム

英国に日本の桜を広めた20世紀の園芸家コリングウッド・イングラム 知られざる英国人桜守、
「チェリー・イングラム」を追う

大英帝国の末期に活躍した園芸家、コリングウッド・イングラム(1880~1981年)。彼は桜の魅力にとりつかれ、明治・大正時代の日本を3度訪れた。 イングラムが日本で収集した珍しい桜の数々は海を渡り、ケント州ベネンドン村の彼の自宅の庭に植樹され、120品種を超す見事な「桜園」を創った。今日、英国で多種多様な桜が見られるのは、イングラムのおかげである。知られざる英国人「桜守」の足跡を追う。(文: 阿部菜穂子)

「太白」の原木イングラムが日本に里帰りさせた「太白」の原木。 ザ・グレンジで阿部菜穂子氏撮影

コリングウッド・イングラム(Collingwood Ingram)略歴
1880年、ロンドン生まれ。鳥類研究家及び桜研究家。祖父はヴィクトリア女王時代に人気を集めた日曜紙「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の創設者。20世紀に日本の桜を広く英国に紹介した。英国園芸界では「チェリー・イングラム」として知られる。「観賞用の桜」(1947年)「野鳥を探して」(1966年)など5冊の本を著した。1981年没。
コリングウッド・イングラム
イングラム氏、25歳のとき。
南フランスの父親の別荘にて
(イングラム家提供)

幼少期~桜との出会い

コリングウッド・イングラムは、ヴィクトリア王朝下の1880年、イングラム家の3男としてロンドンで生まれた。祖父ハーバート・イングラムは当時人気を得ていた世界初の絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の創設者。父親ウィリアムは2代目経営者として新聞事業を発展させた。2代にわたる財産の構築により、一家は裕福だった。

そのころ、大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華を極めていた。イングラム家は帝国の繁栄を背景に誕生した「新興富裕層」であった。コリングウッドは幼少時は身体が弱く、ケント州の北端、テムズ河口のウェストゲイト・オン・シー(以下ウェストゲイトと表記)の別荘で育った。彼は結局、学校教育は一切受けなかった。

コリングウッドは、少年時代をウェストゲイトの豊かな自然の中で過ごし、日々沼地や森を探索して野鳥や植物の知識を身につけた。自然環境が絶好の教育の場となって、彼はナチュラリストに成長。親の財産で十分暮らしていけたため、成人後も生活のために働く必要はなく、初めは鳥の研究家、後に桜の研究家となる。

日本への初訪問は1902年(明治35年)、21歳のときだった。彼はこの旅で、すっかり日本びいきになる。19世紀半ば、長い鎖国を終えて姿を現した東洋の国、日本は、独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かで、西洋人は目を見張った。欧州では「ジャポニズム」(日本趣味)が起きて、日本の浮世絵や骨董品などの熱心な収集家が多数、現れていた。そんな時代背景からイングラムも日本に興味をもった。日本訪問で彼が一番惹かれたのは「自然と人が抜群の芸術的センスで調和している」姿だった。

イングラムは1906年、フローレンス・ラングと結婚し、半年後に新婚旅行で再び日本を訪れる。

桜との出会いは、第一次大戦後の1919年。イングラムは妻と3人の子供をもつ一家の主となり、この年、ケント州南部の村、ベネンドンに新居「ザ・グレンジ」を購入して転居した。そのとき、新居の庭に植えられていた桜の大木2本が彼の目をとらえた。鳥の研究に愛想をつかしていたイングラムは、欧州ではまだ知られていない日本の桜を収集して庭に植樹し、研究しようと思い立った。

その後、猛烈な集中力と実行力で桜を収集。日本や米国から多数の品種を輸入し、知人・友人から譲り受けるなどして集めた結果、7年後には100種類を超すコレクションをもつ壮大な「桜園」が誕生した。イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた「多様な桜」であった。

日本への桜行脚

英国で可能な限りの桜を入手したイングラムは、より珍しい桜を求めて1926年(大正15年)、日本へ「桜行脚」に行くことを決意した。

旅の計画を助けたのは、当時、日本で「鳥の公爵」と呼ばれていた鷹司信輔(たかつかさのぶすけ)公爵。公爵は鳥の研究のため欧州に遊学し、英国でイングラムと知り合った。鷹司氏は貴族院議員でもあり、豊かな人脈をもつ有力者だった。まもなく日本の桜愛好家の会「桜の会」の会長になる人物である。公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができた。

1926年3月末、長崎港に着いたイングラムは、すぐに東京へ向かう。このとき彼の目に飛び込んできたのは、前2回の訪日とは全く違う日本の姿だった。関東一円は1923年に起きた関東大震災で破壊され、その後の復興事業によって近代的なビルが林立していた。

「東洋の街並みは消滅し、恐ろしく巨大で醜いビルが立ち並んでいる。日本は西洋の文明をあまりにも速く大量に、ひと息に飲み込もうとしているかに見える。この国は、猛烈な消化不良を起こしている」(1926年4月2日のイングラムの日記より)

伝統文化は近代化の波の中で失われつつあった。園芸界にも商業主義が蔓延(まんえん)し、日本の多様な桜はどれも 絶滅の危機に瀕していた。彼はその現実を見て「日本の大切な桜が危ない!」と危機感を抱いた。そして、桜を英国へ持ち帰って保存しよう、と決意したのである。

京都、吉野、富士山麓、仙台、日光と精力的に回りながら、イングラムは懸命に「珍しい桜」を探した。欲しい桜を見つけると、地元の人をつかまえて「穂木(桜を増殖する際、台木となる樹に接木(つぎき)する若い枝)」を英国に送ってほしいと頼み込んだ。これらの穂木はすべ て、その年の冬に英国のイングラム邸に到着した。

イングラムは日本滞在中に、東京で開かれた「桜の会」の例会に招かれて演説した。例会には、会長の鷹司公爵を始め、当時の日本を引っ張っていた有力財界人や官僚、有識者らが多数出席していた。彼らを前に、イングラムは重大な警告を発した。

「あなた方日本人はかつて、驚くべき数の桜の品種を開発したが、多くが絶滅の危機に瀕している。50年後にはこれらの桜は永久に失われてしまうでしょう」。

1926年当時の小金井街道イングラム氏撮影の1926年当時の小金井堤(イングラム家提供)

桜の権威となる

ケント州・ベネンドン村に生まれたイングラム邸の「桜園」は、1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしか「チェリー・イングラム」と呼ばれるようになった。

桜園にはイングラムが日本での桜行脚の際、京都で見つけた「妹背(いもせ)」や「手弱女(たおやめ)」、富士吉田で発見し、後にイングラムが「アサノ」と名付ける八重桜など、初めて英国にやってきた品種が数多く植えられていた。

イングラムはさらに、野生種を人工交配させて、新種の桜を創り出した。「オカメ」はカンヒザクラとマメザクラを交配させて生まれた品種。鮮やかで愛らしい桜である。チシマザクラとカンヒザクラを交配させてできた桜は、艶やかな紅色の花をつける桜で、「クルサル」と名付けられた。

こうしてザ・グレンジの庭園では、毎春、多彩な桜が3月中旬から5月末まで次々と花を咲かせ、「桜の競演」を繰り広げた。

舩津静作
イングラム氏が撮影した舩津静作
(イングラム家提供)

イングラムは桜を一本一本観察して特徴をメモし、花や葉をスケッチ。それを基に、品種を確定した。彼は園芸雑誌や新聞に桜を紹介する無数の記事を書いた。また時折、桜園を公開して、一般人を「花見」に招待した。イングラムの桜はRHS(王立園芸協会)のフラワー・ショーに出品され、展示会を見に来た植木関係者の手に渡った。

こうして日本の桜は、ザ・グレンジから英国各地へ 広まっていった。また、イングラムの桜は大西洋を越えて米国にも渡り、チェリー・イングラムの名は広く知られるところとなった。彼は名実ともに「桜の権威」としての地位を確立したのである。

イングラムは戦前、日本で絶滅したと見られる品種の「太白(たいはく)」を里帰りさせた。これは彼の大きな功績の一つである。太白は大輪一重の品種で、純白の花は直径が5、6センチもある。優雅でひそやかな美しさをもち、イングラムのお気に入りの桜だった。イングラムは桜行脚の際、東京の桜守、舩津静作氏と出会い、太白の絶滅を知らされた。彼は太白が自分の庭園にあることを舩津氏に知らせ、里帰りさせることを約束したのである。

帰英後の1927年、イングラムは太白の穂木を採取し、京都の桜守、第14代佐野藤右衛門氏に船で送ったが、穂木は枯れてしまい、失敗。5年間の試行錯誤を経て、穂木をジャガイモに突き刺してシベリア鉄道経由で送ったところ、成功した。これを佐野氏の息子、第15代佐野藤右衛門氏が接木して、太白は祖国に甦った。

第二次大戦と戦後の英日の桜

欧州では1930年代にきな臭さが増し、39年に第二次大戦が勃発。アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツは大陸欧州諸国を次々に併合した後、英国侵攻を狙っていた。しかし、英国人の頑強な抵抗に遭う。

1940年夏、イングラム邸の桜園の上空では、ドイツ軍と英国軍が激しい航空戦(バトル・オブ・ブリテン)を繰り広げ、被弾した戦闘機がベネンドン村にも墜落。1機はザ・グレンジの正門に激突し、桜園は間一髪で大きな被害を逃れた。

また、戦争後期になると、ドイツ軍は英国に向けてミサイル弾「V1」「V2」を発射。ベネンドン村にも落下して村人5人が犠牲になったが、桜園は生き延びた。

イングラムは戦争中、銃後を守る「ホーム・ガード(国防市民軍)」のベネンドン部隊指揮官に任命され、村のパトロールなどに当たった。しかし、この間もザ・グレンジの屋根裏部屋で桜に関するメモを書きためていった。

1926年当時の小金井街道
左)1940年代半ばごろのザ・グレンジの桜園(イングラム家提供)
右)イングラム氏の著書「鑑賞用の桜」

一方、祖国日本では、別の桜のドラマが進行していた。戦前、イングラムが懸念したように、伝統の桜はどんどん少なくなり、代わって幕末に開発された新しい品種の「染井吉野(そめいよしの)」が国中に広まった。成長が早く経済的で、見栄えの良い染井吉野は、早急な近代化と富国強兵路線が進められる中で、「新生ニッポン」のシンボルとして注目され、各地に植樹された。

染井吉野が大量植樹されたことで、日本の桜の風景は決定的に変わった。染井吉野はクローンであるため、どの樹も同じDNA(デオキシリボ核酸)をもつ。大量植樹の結果、「花が一斉に咲いて、一斉に散る」光景が誕生した。これがやがて軍国主義に利用され、桜の散り際に焦点を当てる風潮が生まれ、国民は「桜のように」潔く国のために死ぬことを奨励された。しかし、敗戦によって桜は滅び、国も破滅する。日本で滅びた桜はイングラム邸で生き延びた。これは驚異的なことであった。

戦後、イングラムは自らの桜研究の集大成である著書「観賞用の桜」を出版した。この本は英国中に「桜ブーム」を巻き起こした。各地で様々な品種の桜並木が作られ、「多様な桜」の風景が広がった。

一方、日本では戦後の復興事業が進むとともに再び染井吉野が大量植樹され、国土を席巻。全国に植樹された桜の約7割(関東地方では9割)までが染井吉野で占められるまでになった。

現代の英日の桜

イングラムは1981年5月、遅咲きの桜の花びらが舞うなか、ザ・グレンジで100年6カ月の人生を終えた。大往生であった。

英国ではイングラム亡き後も、彼の残した桜の伝統が生き続けた。今日、桜は英国中の住宅街に普及し、著名な庭園には例外なく多彩な桜が植樹されている。 桜は王室にも広まり、ウィンザー城の庭園や故エリザベス皇太后の住居の庭にも植樹された。さらに、桜の保存と育成を担う次世代の英国人たちが現れ、強固なネットワークを作っている。

戦後の英国で桜が人気を集めた一方で、大戦中に起きたある出来事が、長い間イングラム家に影を落としていた。イングラムの義理の娘、ダフニーが、従軍看護師として香港で勤務していた1940年、旧日本軍の捕虜となっていたのである。彼女は3年8カ月という長い時間を捕虜収容所で過ごし、過酷な体験をした。

ダフニーと夫のアレスター(イングラムの3男)一家は戦後、イングラム夫妻の近くに住み、夫妻と緊密な関係を築いたが、日本の桜を愛する父親と嫁の間には意識のずれがあった。

ダフニーだけではない。大勢の旧捕虜たちが、戦後も日本と日本人への憎しみを抱き続けた。捕虜問題は「桜イデオロギー」の下で戦われた太平洋戦争の落とし子であり、捕虜たちはその犠牲者であった。

捕虜問題が日英間で大きな政治問題となった1990年代、北海道の桜守、浅利政俊氏の創った新しい「松前桜」が和解に向けてひと役買うことになった。浅利氏は北海道で長年、地道に捕虜の和解問題に取り組み、市民運動を続けてきた経験があり、日本の過去への償いの意を込めて1993年、ウィンザー城の庭園に58種類の松前桜を贈った。「日本軍の行為の犠牲になった方々とその家族に哀悼の意を表したい。新しい日英間の友好関係構築のためにこの桜を大切に育ててほしい」との手紙を添えて。

これらの桜は、立派に成長して現在もウィンザー城庭園の一角に保存されている一方、増殖されて英国中に広まっていった。更に運命の巡り合わせで、子孫の苗木40本が2000年、旧イングラム邸に植樹されたのである。あたかも、浅利氏の真摯な思いが、松前桜をダフニーのつらい体験が刻まれたザ・グレンジへと向かわせたかのように。こうして「償いの桜」はザ・グレンジで成長を続け、イングラム家の「負の歴史」にも和解がもたらされていく。

チェリー・イングラム 晩年のイングラム氏(イングラム家提供)

「チェリー・イングラム
日本の桜を救ったイギリス人」
(岩波書店)

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’Cherry’ Ingram The Englishman
Who Saved Japan’s Blossoms
(Penguin Books)

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大英帝国末期に活躍した園芸家、コリングウッド・イングラムの生涯を追うノン・フィクション。日本の桜の魅力にとりつかれ、明治・大正期の日本に3 度足を運び桜を英国に紹介したイングラムの足跡をたどる。海を渡った桜のドラマを通じて日英の近代史が浮かび上がる。イングラムの救った桜がいかに英国で生き延びたかや、1000年以上に及ぶ日本人と桜の歴史や近代日本で桜が軍国イデオロギーに利用された経緯なども分かりやすく明らかにする。日本語版希望者は£22(本代£20 +郵送料など)にて阿部氏 このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください から購入可。

阿部菜穂子阿部菜穂子氏 略歴 ジャーナリスト、ノンフィクション作家。毎日新聞記者を経て、2001年から英国在住。「チェリー・イングラム日本の桜を救ったイギリス人」(2016年、岩波書店)で第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同書は著者が全面的に英語で書き直し「‘Cherry’ Ingram The Englishman Who Saved Japanʼs Blossoms」として2019年にペンギン社から出版。英語版はBBC Radio 4 のBook of the Week として朗読されたほか、英米の主要各紙誌で高い評価を得、複数のメディアで最優秀書籍に選ばれた。その後ドイツ語、イタリア語、オランダ語、中国語など8カ国語に翻訳・出版された。www.naokoabe.com
 

薄桃色に染まっていく英国の春 - コロナ禍のロンドンで始まった桜の植樹運動

薄桃色に染まっていく英国の春

現在造園中のロンドン・ブロッサム・ガーデンのイメージ現在造園中のロンドン・ブロッサム・ガーデンのイメージ

ロックダウンから1年。私たちの暮らしは今も新型コロナウイルスに脅かされる日々が続くが、そんななか、誰もが心待ちにしていた春がやって来た。気が付けば、英国の街角には淡い桃色の花を付けた樹木がそこかしこに立ち、その姿にほっと一息つき、癒やされた方も多いのではないだろうか。今回の特集では、現在英国で桜の植樹キャンペーンを行うナショナル・トラストの活動と、かつて英国に日本の桜を広めた20世紀の園芸家コリングウッド・イングラム氏の物語をご紹介。英国の春を、日本ともつながりのある桜の木から見てみよう。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)

コロナ禍のロンドンで始まった桜の植樹運動

歴史的名所や自然景勝地の保護団体として知られるナショナル・トラストは、新型コロナに疲れた市民を癒やそうと、今年3月から英国全土に桜をはじめとした花の咲く樹木を植えるキャンペーン「ブロッサム・サークル」を開始した。目まぐるしく変わる世界情勢のなか、自然は常に人々に慰めや心地よさを与えてくれるということで、同団体はより多くの人が自然とつながる機会を提供していくという。

ナショナル・トラストには今後10年間で都市部とその周辺に2000万本の植樹をし、緑地を作る大きな計画があるが、「ブロッサム・サークル」も、その一部。3月23日には手始めとして、ロンドン東部のクイーン・エリザベス・オリンピック・パーク内に、桜、プラム、サンザシ、リンゴなどのバラ科の樹木がロンドン行政区数と同じ33本、円状に植えられた。現在そこは「ロンドン・ブロッサム・ガーデン」として造園中だ。ロンドン以外では、ニューカッスル、ノッティンガム、プリマスでの造園が現在までに決定している。

ナショナル・トラストの関係者は、日本のお花見の伝統にも触れ、「花の美しさを愛でる行事だ」と説明し、この機会に英国人もこの良き日本の風習を取り入れてはどうかと述べている。その一方で、こうした庭園が「新型コロナで命を落とした全ての人々を思い出し、医療従事者を称え、この経験を振り返る場所になれば」という。また、ロンドンで植樹に参加した市長のサディク・カーン氏も、「花の咲く木々は、この信じられないほど困難な時期をずっと忘れず、ロンドン市民が互いに助け合うためにどのように協力してきたかを象徴したものになる」と語っている。

ちなみに、クイーン・エリザベス・オリンピック・パークに植樹された33本のうち主な桜は、白色の八重桜「白普賢(しろふげん)」、英国産で半八重咲きの「アーコレード」、次ページで紹介するコリングウッド・イングラム氏が愛した「太白(たいはく)」、日本で代表的な桜「染井吉野(そめいよしの)」。そして桜の仲間では、ピンクの花に赤紫の葉が出るブラック・チェリー・プラム、欧州原産のブラックソーン、サンザシなどが並ぶ。この春に開園予定だが、現時点ではまだ詳しい日程は発表されていない。いずれにしても、将来、見事な桜に囲まれながら2021年のロンドンを思い出す日がやってきそうだ。

National Trust

ブロッサム・サークルについて
www.nationaltrust.org.uk/features/helping-communities-blossom

London Blossom Garden

Queen Elizabeth Olympic Park, Honour Lea Avenue, London E20 1DY
Stratford/Hackney Wick駅
www.queenelizabetholympicpark.co.uk/the-park/things-to-do/blossom-garden

 

RAH開場150周年
ロイヤル・アルバート・ホールの歴史をひもとく

ロイヤル・アルバート・ホール

ドーム型の屋根と赤レンガ建築が印象的な、ロンドン中心部に位置するロイヤル・アルバート・ホール。1871年の開場以来、コンサートをはじめとしたさまざまなイベントが行われる多目的ホールとして使用されている。毎年夏に開催される、世界最大規模のクラシック音楽祭BBCプロムナード・コンサート(プロムス)の会場としても知られるが、昨今のコロナ禍でほかの芸術施設同様、1年以上の閉鎖をやむなくされている。そんななか、ロイヤル・アルバート・ホールは3月29日に開場150周年を迎える。本号では、ホールに観客たちが戻る日が早く訪れることを願いつつ、ロイヤル・アルバート・ホールが時代とともに歩んできたこれまでの軌跡を紹介していこう。

文: 英国ニュースダイジェスト編集部
参考: Royal Albert Hall: A Celebration in 150 Unforgettable Moments ほか

I.誕生のきっかけはアルバート公

英国が芸術・工業・商業のあらゆる方面でまい進中だったヴィクトリア時代。1851年にロンドンのハイド・パークで開催された万国博覧会の大成功に満足したヴィクトリア女王の夫アルバート公は、公益のために恒久的な施設を創設することを提案する。サウス・ケンジントン地区にある領地を博覧会の収益で買収するなど準備は進んだものの、61年にアルバート公が志半ばで死去。ヴィクトリア女王が愛する夫の遺志を継いで71年に完成させた。

当初はセントラル・ホール・オブ・アーツ・アンド・サイエンシズ(Central Hall of Arts and Sciences)と呼ばれるはずだったが、アルバート公を偲びロイヤル・アルバート・ホール・オブ・アーツ・アンド・サイエンシズ(Royal Albert Hall of Arts and Sciences)と名付けられた。女王は館内にアルバート公と自分の胸像を配したばかりでなく、優雅なカーブを描く階段の手すりにアルバートの頭文字である「A」をいくつも装飾させるなど、亡夫への愛をふんだんに盛り込んだ。また女王は、ホールの向かいにあるハイド・パークにも、金色に輝くアルバート公の記念碑を建立している。

仲睦まじかったヴィクトリア女王(写真左)とアルバート公(同右)仲睦まじかったヴィクトリア女王(写真左)とアルバート公(同右)

1871年3月29日のグランド・オープンの模様を描いた銅版画1871年3月29日のグランド・オープンの模様を描いた銅版画

II.屋根のドームにまつわる物語

ロイヤル・アルバート・ホールの建築デザインは、アイルランド人の建築家でエンジニアとしても活躍したフランシス・フォーク(Francis Fowke)と、万国博覧会を手掛けたヘンリー・スコット(Henry Young Darracott Scott)の2人が担当。特徴ある鉄筋のドームはスコットの作で、骨組みだけで重さ338トン、そこに装着されたガラスは279トンと当時としては英国でもっとも巨大にして重い屋根を持つ建築となった。完成当時多くの人が、重すぎて今に落ちてくるのではないかと噂したものの、実は、冬には158トンの積雪にも耐えられる頑強な設計だという。

第一次世界大戦中、上空からも目立つガラス張りのドームは夜間の灯りが漏れないように巨大な黒い布で覆われ、大きなダメージを受けずに生き残った。続く第二次世界大戦でも、3発の爆弾を受けたにもかかわらずひどい損傷もなく済んだ。これは、ドイツ軍が上空からでも分かるユニークな形のドームを、空爆の際の位置確認の目印として使っていたからだとも言われている。つまり、ロイヤル・アルバート・ホールはドームのデザインのおかげで生き抜くことができたということになる。

鉄筋ドームは当時の英国エンジニアリング技術の結晶鉄筋ドームは当時の英国エンジニアリング技術の結晶

現在でも上空からユニークな形状が識別できる現在でも上空からユニークな形状が識別できる

III.とばっちりを受けた巨大なパイプ・オルガン

高さ21メートル、パイプ数は9999本。1871年の制作当時に世界一と言われたこのパイプ・オルガンは、ロンドン北部にあるヘンリー・ウィリスの工房で造られた。多くのオルガンと同じく、風をパイプに送り空気を振動させることで音を出す仕組みで、現在は電気がメイン動力であるものの、1970年代ごろまでは水蒸気が使われていたという。初演は1871年7月。「まるで木星の声のよう」と形容された深い響きと音色で多くの観客を動員し、やがてこのオルガンはホールのメイン・アトラクション的な存在になった。1914年7月、そんなオルガンの人気にサフラジェット(女性参政権運動家)たちが目を付ける。当時、進展の見込みのなかった女性参政権運動に世間の目を向けさせるため、過激な直接行動を起こしていたサフラジェットたちは、パイプ・オルガンの隣室にあるカフェのシンクをふさぎ、水を出しっぱなしにして周囲を浸水させた。水はパイプ・オルガンにも流れ込み、オルガンは修理に3カ月以上、2000ポンド(現在の額で約18万ポンド、日本円で約2700万円)の費用がかかったという。

ちなみに1920~50年代には、アルバートと名付けられた猫が、オルガン専属のネズミ捕り長官として代々勤務していた。

迫力満点のパイプ・オルガンは、ホールの「顔」的な存在迫力満点のパイプ・オルガンは、ホールの「顔」的な存在

IV.さまざまなイベントは時代を映す鏡

今でこそクラシックやロックなどの音楽イベントが中心になっているロイヤル・アルバート・ホールだが、元々はアルバート公が「公益のために」と考えたこともあり、これまでに多くのチャリティー・イベントが開催された。それだけではなく、「誰もが使える」という理念を掲げていたため、さまざまな政治的立場の人々によっても利用された。1909年にはサフラジェットの女性社会政治連合(WSPU)が創設者エメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)の講演会を開催。1923年には、現在も続く第一次世界大戦の戦没者追悼式典が初めて行われたほか、1928年にはジャマイカ生まれの作家で活動家のマーカス・ガーヴェイ(Marcus Garvey)が黒人解放についてのスピーチを行った。また、1933年には独ナチス政権を逃れてこの後すぐ米国移住を果たす物理学者のアルバート・アインシュタイン博士が、知的活動と人権の自由について大勢の聴衆の前で熱っぽく語っている。

もちろん個人が政治的見解を表すだけでなく、政治家もロイヤル・アルバート・ホールの壇上に立った。最も回数の多い一人に、元首相ウィンストン・チャーチルがいる。チャーチルは1925~53年の間にホールで28回のスピーチを行った。

1933年6月17日、ホールで講演するアインシュタイン博士(写真左)1933年6月17日、ホールで講演するアインシュタイン博士(写真左)

V.オペラから映画まで

オペラはロイヤル・アルバート・ホールが1871年に開場した当初から開催されていた。8000人余りを収容できるホールは円形劇場であることから、張り出し舞台を突出させその三方を客席が取り囲むほか、客席がステージを取り巻く円形スタイルにもできるなど、オペラの劇的な演出にはぴったりだったに違いない。バレエでは1997年にイングリッシュ・ナショナル・バレエ団が初めて円形ステージを使って「白鳥の湖」の公演を行ったほか、2006年の米ブロードウェイ・ミュージカル「ショー・ボート」では、アリーナ部分に実物大の蒸気船を登場させるなど、ステージの形と広さを十二分に活用した演目が並ぶ。映画もまた早い時代からホールで上映されていた。これはサイレント映画上映の際に、オーケストラによる伴奏が必要だったためだが、初めて上映されたのは1905年。トラファルガーの海戦から100年を記念した戦争の記録映画だったという。現在でもホールでは映画上映は行われているが、それは007シリーズなどブロックバスター系作品の大規模な宣伝活動を兼ねたプレミア上映のほか、「ロード・オブ・ザ・リングス」といった人気作品をフル・オーケストラ演奏とともに楽しむ特別イベントであることが多い。

VI.RAHでまさかの相撲観戦

ロイヤル・アルバート・ホールではスポーツ・イベントも開催される。開場当初は国民の体力増強を狙った、兵士たちによるデモンストレーションなどだったが、次第に屋内マラソンほかの競技系種目が始まり、やがてボクシング、レスリング、卓球、テニスのトーナメントなども開かれるようになっていった。1971年と79年にはヘビー級チャンピオンのモハメド・アリがロイヤル・アルバート・ホールのリングに上がっている。だが特筆すべきは、1991年にジャパン・フェスティバルの一環で行われた、大相撲のロンドン公演だろう。通常の15日を5日間に短縮した「ロイヤル場所」には、幕内力士40名が出場。アリーナに作られた土俵で勝負をした。

土俵には通常東京の荒川流域から運んだ粘土質の土を使うが、ロンドン公演ではロンドン西部ヒースロー近くから掘り出した土を利用したという。旭富士、北勝海の両横綱に加え、豪快に塩をまくことからソルト・シェイカーの異名を取った水戸泉、小さいながらも多彩な技で大型力士を倒しマイティー・マウスと呼ばれた舞の海、そして体重238キロの小錦らが、英国人たちの声援を浴びながら、連日ソールド・アウト、満員御礼の幕の下で戦った。

「ロイヤル場所」の開始に先立ち、清めの儀式が行われた「ロイヤル場所」の開始に先立ち、清めの儀式が行われた

小錦(写真手前左)をはじめとした力士集団が勢ぞろい小錦(写真手前左)をはじめとした力士集団が勢ぞろい

VII.やっぱりプロムス

毎年夏になるとロンドンで華やかに幕を開ける世界最大級の音楽祭「プロムス」。世界に名だたる演奏家やオーケストラが7月からの約2カ月間、毎日演奏を披露するこの音楽祭の魅力は、普段はあまり音楽を聴かないという人から小さな子どもまで、ありとあらゆる人を楽しませるユニークなプログラム構成にある。初回は1895年クイーンズ・ホールだが、1942年からはロイヤル・アルバート・ホールを中心に、現在では市内で100近くのクラシック音楽コンサートや関連イベントが開催されている。

特に最終日に同ホールで行われる「ラスト・ナイト」は、国民的行事と言っても過言ではない。毎回プログラム後半には「威風堂々」や「ルール・ブリタニア」など、かつての大英帝国の栄光を想起させる名曲で盛り上げ、観衆が手を組んで「蛍の光」を合唱する大興奮のフィナーレは、異様なまでの高揚感がホールを満たす。その模様はテレビ放映およびハイド・パークに巨大スクリーンを設置して同時中継する「プロムス・イン・ザ・パーク」でも観ることができるが、ロイヤル・アルバート・ホールで実際に体験するのが1番だろう。毎年壮絶なチケット獲得戦が繰り広げられるが、その苦労を補って余りある特別な一夜を楽しめるはずだ。昨年は、新型コロナウイルスの影響を受けて放送用の無観客公演のみが行われた。果たして今年のプロムスはどうなるのか、現時点で正式発表はまだされていない。

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カジュアルにして華やか、世界最大級の音楽祭「プロムス」カジュアルにして華やか、世界最大級の音楽祭「プロムス」

Royal Albert Hall にまつわるトリビア

天井にあるたくさんの丸いオブジェ

天井にあるたくさんの丸いオブジェ

これはホール天井のカーブによって引き起こされる反響音を緩和させるための拡散器。ホールは長年ひどいエコーに悩まされていたが、1960年代後半にさまざまな実験が行われた結果、85個のファイバーグラス製の拡散器を天井から吊るすことで解決した。この装置はその形から「マッシュルーム」と呼ばれている。

建物外観に帯状に彫られている装飾

建物外観に帯状に彫られている装飾

英語ではモザイク・フリーズと呼ばれる、古典建築によくある装飾スタイルで、「芸術と科学の勝利」が表現されているそう。デザインはヴィクトリア時代の7人のアーティストによるもの。1枚30センチ四方のテラコッタを繋ぎ合わせたモザイクは、16セクションごとに分けて制作されたが、全長にすると243メートルにもなる。

大相撲ロンドン公演の事前準備

大相撲ロンドン公演の事前準備

力士たちの体のサイズが特大であるため、控室のトイレが重さに耐えられるかテストをしたほか、椅子にも補強を施し、シャワーも大きなサイズに付け替えた。入場料は土俵際の「砂かぶり席」(タマリ席)と呼ばれている1番良い席で95ポンドだったが、これは日本の様式にのっとり、床にクッションを用意した。

拡張工事で発掘されたもの

拡張工事で発掘されたもの

2017年から始まったロイヤル・アルバート・ホールの地下拡張工事は、オフィスや倉庫エリアを増築するためのもの。おかげで、ヴィクトリア時代の日用品が約150年ぶりに発掘され日の目を見た。陶器製のパイプや液体調味料ボヴリルの瓶、当時は庶民の食べ物だった殻つきの牡蠣など、市民の暮らしが伺えるものばかりだ。

ピーター・ブレイクの壁画

ピーター・ブレイクの壁画

ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバム・カバーをデザインしたピーター・ブレイク(Peter Blake)が、2014年にこれまでロイヤル・アルバート・ホールに出演したミュージシャンたちの姿をコラージュした壁画を制作。400人余りの人物が、横3メートルの作品内に収まっている。

Royal Albert Hall

Kensington Gore, London SW7 2AP
Tel: 020 7589 8212 (新型コロナによる規制のため現在は利用不可)
地下鉄: South Kensington / High Street Kensington
www.royalalberthall.com

 
この記事は2021年に掲載された記事です

インタビュー No.2
地震をさまざまな角度から考察できる作品を

ヴィジュアル・アーティスト / ルーク・ジェラム氏

続いてインタビューしたのは、英国を代表するヴィジュアル・アーティスト、ルーク・ジェラム氏。同氏はこれまで大規模なインスタレーションから繊細なガラス彫刻まで、多様な手法を用いてきた。 その情熱は作品作りにとどまらず、あるときは大学で教鞭を執り、またあるときは知覚表現についての研究結果をまとめた書籍を刊行するなど、多岐にわたるものだ。東日本大震災の地震の波形データを用いて表現した作品「Tōhoku Japanese Earthquake」に、同氏はどんな思いを込めたのだろうか。

Luke JerramLuke Jerram

1974年生まれ。彫刻、ライブ・アート、インスタレーションなど多岐にわたる表現方法で、国際的に活躍する英西部ブリストル在住のヴィジュアル・アーティスト。代表的な作品の一つに「ミュージアム・オブ・ザ・ムーン」(「Museum of the Moon」)が挙げられる。NASAの月面画像を用いた直径約7メートルの球体を屋内、屋外で吊るし幻想的な空間を世界各地で創る作品で、英国ではグラストンベリー・フェスティバルやロンドン自然史博物館などで展示された。日本では東京の公共スペースにピアノを配置し、他者と音楽を共有する「プレイ・ミー、アイム・ユアーズ」(「Play Me, I’m Yours」)を行った。
www.lukejerram.com

アート作品
「Tōhoku Japanese Earthquake」

東日本大震災の強震波形データを、ラピッドプロトタイピングを用いて3Dプリントした彫刻作品。縦20センチメートル 、横30センチメートルのなかに、約9分間計測した地震の揺れを立体的に表現している。初公開はロンドンのアート・ベニュー、ジャーウッド・スペース(Jerwood Space)で開催されたエキシビション「テラ」(TERRA 2011年11月9日~12月11日)。その後、米国、フランス、中国など世界各地をまわり、現在は米ノックスヴィル美術館に収蔵。同作品はガラス製も作られ、こちらは米ニューヨークのヘラー・ギャラリー(Heller Gallery)にて展示された。

Tōhoku Japanese Earthquake

東日本大震災のニュースを聞いたときのことを覚えていますか。どのようにこの災害を知りましたか。

世界中の多くの人が知ったのと同じように、テレビの報道を通して知りました。目にしたのは海の近くの公衆電話から撮影された映像で、津波が陸地に押し寄せてくる様子が映されていました。とてもショッキングな光景で、目を覆いたくなるほどに恐ろしい映像でした。

この震災から作品「Tōhoku Japanese Earthquake」を作るに至った経緯について教えてください。

当時、私は2004~12年のニューヨーク証券取引所と、1980~2012年のダウ平均株価のデータを元にした作品「ストック・エクスチェンジ・アートワークス」(「Stock Exchange Artworks」2012年)に取り組んでいる最中でした。これは平面的であるグラフ・データを回転させることで、起伏のある円柱状のガラス彫刻に結晶化させるというもので、私たちがメディアで触れる無機質な数値やその背後に隠された意味を、より深く理解しようとする試みです。この時期は、このようなグラフの新しい見方やその体験方法を新たに生み出すことに興味がありました。

また、かねてからシリーズものとしてウイルスやバクテリアの形状を表現した一連のガラス彫刻「グラス・マイクロバイオロジー」(「Glass Microbiology」2004年~)を制作していました。透明な見た目で美しいものの、そのテーマだけにゾワゾワと人を不快にさせる何かがある。地震の彫刻も、オブジェ自体の美しさ、シンプルさと、それらが表す事実の間には、独特の緊張関係が存在しています。

グラス・マイクロバイオロジー」の一環で、パンデミックと戦う科学的、医学的な努力に敬意を示し、制作されたガラス彫刻作品「COVID-19」「グラス・マイクロバイオロジー」の一環で、パンデミックと戦う科学的、医学的な努力に敬意を示し、制作されたガラス彫刻作品「COVID-19」

日本人は地震の強震波形データを目にする機会が比較的多くありますが、これを3D化する、という発想はなかったように思われます。3Dプリントしようと思ったのはなぜなのでしょうか。

ニュースの映像で見た言葉にできない惨状と、地震計が吐き出した無機質なデータには感覚的な隔たりがあるように思われます。立体作品を作ることで、人々がほかの方法でこの災害を捉える価値があるのではないかと思いました。地震計のデータを統合し、なんとかして命を与える方法が欲しかったのです。

そこで鑑賞者がさまざまな角度から地震のことを考え、数値を眺めることができる9分間の揺れを記録したデータを含むオブジェを作りました。

CADデータを用い、3DでプリントするCADデータを用い、3Dでプリントする

なぜラピッドプロトタイピング*を使おうと思ったのでしょうか。

ラピッドプロトタイピングは当時の最新技術であり、その可能性を探ることに興味がありました。作品を3Dプリントで出力するのが最も簡単な方法だったので、使ってみることにしました。

* 3Dテクノロジーを活用して迅速(rapid)に製品の試作品を作成する方法。設計図だけでは見抜けない構造状の問題点を浮きぼりにし、開発プロセスを短縮させる方法として用いられている

使用した強震波形データの画像はどのように手に入れたのでしょうか。

言葉の壁があり、正確な出典先を自力で見つけることは難しかったため、地震に関するテレビの報道ニュースから入手しました。

この強震波形データを元に作品が作られた(出典不明)この強震波形データを元に作品が作られた(出典不明)

制作にあたって苦労したことはありましたか。

プリンター自体がとても小さかったため、作品を二つに分けて制作する必要がありました。幸いにも、それ以外は特に大きな問題はありませんでした。

作った直後のご自身の感想や周りの反応について教えてください。また、10年が経過し、改めて作品に対して思うことはありますか。

作品の仕上がりも、オンライン上での肯定的な反応も満足のいくものでした。今後、私たちに提示されているただの波形データの代替表現として、この作品を見ることが一般の人々にとって有益な意味を持ち続けていることを、心から願っています。

ジェラムさんの作品は自然現象や社会問題、また新型コロナウイルスのように社会と人がテーマの作品作りが多いように感じます。なぜ、そのようなテーマを選ぶのでしょうか。また、今後新たに取り組みたいテーマやイメージがあれば教えてください。

アーティストは自分たちの作品を通じて社会の変化に反応を示すことが多々あります。私の作品はそういった要素が強いものもあれば、そうでないものもあったりとまちまちですね。個人的には、物事を別の視点から見てみようと呼び掛けることに興味があります。それで真実が明らかになることもありますからね。

最近では、先に述べた「グラス・マイクロバイオロジー」シリーズの一環で、製薬会社アストラゼネカとオックスフォード大学が共同開発した新型コロナウイルス・ワクチンの接種1000万回を記念し、ガラス彫刻「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」(「Oxford-AstraZeneca Vaccine」2021年)を新たに作りました。試験管や蒸留器など、医療の現場で使用されているホウケイ酸ガラスを用いた作品で、こちらも美しい仕上がりでとても気に入っています。この作品の収益は、新型コロナウイルスの影響を大きく受けているコミュニティーを支援するため、国境なき医師団に全額寄付される予定です。人々がこの作品を見ることで、予防接種に行くきっかけになることを願っています。

ジェラム氏の最新作「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」。
直径34センチメートルで、実際のナノ粒子の100万倍サイズに当たるジェラム氏の最新作「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」。直径34センチメートルで、実際のナノ粒子の100万倍サイズに当たる

 
この記事は2021年に掲載された記事です

東日本大震災から10年
英国のジャーナリスト&アーティスト インタビュー
2人の英国人が見たあの日のこと

2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の激しい揺れが東北地方を中心に東日本を襲ったあの日。地震と津波で1万8000人以上の犠牲者が出たあの東日本大震災から、今月11日で10年を迎える。まずは、改めて亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。今回は、未曾有の事態を「本と活字」で世に伝えた「タイムズ」紙のアジア・エディター、リチャード・ロイド・パリー氏と、「彫刻作品」として新しい解釈を広めた英国を代表するヴィジュアル・アーティスト、ルーク・ジェラム氏にインタビューした。表現を生業とする2人の英国人にとって、東日本大震災はどのように映ったのだろうか。

「タイムズ」紙 アジア・エディター
リチャード・ロイド・パリー氏 Richard Lloyd Parry

ヴィジュアル・アーティスト
ルーク・ジェラム氏 Luke Jerram

インタビュー No.1
ジャーナリストとして、感情にのまれず犠牲者に共感し続けること

「タイムズ」紙 アジア・エディター / リチャード・ロイド・パリー氏

1人目は「タイムズ」紙のアジア・エディターのリチャード・ロイド・パリー氏。1995年より東京在住のロイド・パリー氏は、2011年3月11日、東京のオフィスにいた。長期間に及ぶ取材を経て、被災者の心の動きに迫った「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」(2017年)は、翌年に日本語翻訳版も発行され、「英国人記者が日本人の特性を正確に捉えつつも、俯瞰的な視点で震災を見つめたルポ」として、好評を博した。本インタビューを通し、記者らしい的確な言葉選びに垣間見える、同氏の日本に対する温かなまなざしを感じてみてほしい。

Richard Lloyd ParryRichard Lloyd Parry

1969年生まれ、オックスフォード大卒。「タイムズ」紙のアジア・エディター。1995年より東京在住。「インディペンデント」紙の特派員として来日、2002年からは「タイムズ」紙のエディターとして、日本だけでなく北朝鮮、アフガニスタン、イラクなど29カ国をカバーし、ニュースを伝えてきた。書籍は本作のほか、1990年代後半に訪問したインドネシアのスハルト政権下における闇を描いた「In The Time Of Madness」(2006年)、2000年、神奈川県で英国人女性がバラバラ遺体で発見されたルーシー・ブラックマンさん事件を記した「People Who Eat Darkness Love, Grief and a Journey into Japan’s Shadows」(2012年、 翻訳版は早川書房「黒い迷宮─ルーシー・ブラックマン事件 15年目の真実」)がある。
Twitter: @dicklp

書籍
「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」
「津波の霊たち─ 3・11 死と生の物語」

東日本大震災発生直後から現地に通い、6年の歳月をかけ、震災が人々にもたらした心の傷とその後を丹念に追ったルポ。津波に巻き込まれてしまった宮城県石巻市立大川小学校の74人の児童と10人の教職員の遺族たち、被災者が紡ぎ出す言葉に耳を傾ける仏教僧など、さまざまな立場の人物を通じ、同地に残る震災の余波を取材した。本作は2018年、優れた英文学作品に贈られるラスボーンズ・フォリオ賞を受賞、2019年にはジャーナリズムの発展につながる活動をした者に贈られる日本記者クラブ賞特別賞を受賞した。

Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan(英語版)Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan(英語版)

発行元: Vintage Books
定価: £7.99(キンドル版、ハードカバーもあり)

www.penguin.co.uk/authors/1016706/richard-lloyd-parry.html

津波の霊たち─ 3・11 死と生の物語(日本語翻訳版)津波の霊たち─3・11 死と生の物語(日本語翻訳版)

発行元: 早川書房
翻訳: 濱野 大道
定価: 1122円(キンドル版、ソフトカバーもあり)

www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014726

あの日、何が起こったか

2011年3月11日は、どこで何をされていましたか。

地震が発生したとき、私は銀座にある10階のオフィスにいました。当時すでに16年の在住歴があり、小規模の地震には慣れていましたが、あの日の揺れは私が今まで経験したなかで最も強いものでした。私は生まれて初めて自分の机の下に潜り込みました。窓ガラスがブーンと低くと唸り、ブラインドのビニール部分の端同士がぶつかり合いシャーッと震えたあの音を今でもはっきりと覚えています。後になって振動が6分間続いたことを知りましたが、揺れている間、時間の経過を測るのは困難でした。恐ろしかったのは、揺れそのものではなく、いつ終わるか分からないまま揺れが強くなり続けたことでした。

幸いにも、私のオフィスで被害はありませんでした。ようやく電話で連絡が取れたとき、パートナーも幼い娘も無事でした。2日後、別の地震(この地震の余震)がありましたが、大きな事故はなくおさまりました。私はこの地震もある程度の被害の原因になると考えましたが、「災害」と呼ぶレベルではありませんでした。巨大な波が野原、家、車を襲う空撮の映像を見て、先の地震がどんな大惨事であるかを理解し始めたのは後になってからのことでした。

震災後、すぐに取材のため現地に向かわれたようですが、そのときに目にした光景や感じたことを教えてください。

翌朝、同僚のジャーナリストの小さなグループと一緒に現地へ向かいました。高速道路は閉鎖されており、東京から仙台まで24時間かかりました。最初に訪れたのは、波で浸水した仙台空港で、木の枝に押し上げられている軽飛行機があったのを覚えています。

約2週間三陸海岸沿いをあちこち移動し、波にさらわれた町を訪ね回りました。南三陸町はおそらく最悪の被害状況で、町のほぼ全域が壊滅状態でした。最も変わり果ててしまったのは気仙沼でしたね。津波で港に停泊していた大型外航船が岸に激突し、燃料が漏れて発火。これによりある地域ではまず浸水、次に火災に見舞われました。巨大な船の一つは町のなかに漂着し、そのまま道路に残っていました。

最も奇妙なことは、この種の破壊は私にとって初めてみる光景ではなかったという点です。2004年のスマトラ島沖地震の津波について報告したインドネシアのアチェ州で、同じような惨状を見ているのです。あのとき、私はこう思いました。「人間が100年に一度見るか見ないかくらいの異常な経験だ。ひどすぎる。ぞっとする意味での『名誉』とも言える。私はこのようなものを目にすることは今後二度とない」と。

しかし、7年も経たないうちに、今や故郷となった日本で再びそれを見ることになってしまいました。

この本を書いたり、新聞に津波の記事をレポートする過程で、私は悲嘆に暮れ、耐え難い苦悩に直面しました。時に悲しさで満たされてしまうこともありました。これは、戦争や災害を報道するジャーナリストや、そのような状況下で働く援助労働者や医療の専門家が直面する課題です。どうすれば痛みに圧倒されることなく、大惨事の犠牲者に共感し続けることができるのでしょうか。

まだ自分のキャリアが浅いころは、それが難しく感じられました。しかし、しばらくすると、分離のコツを会得できるようになります。重要なことは仕事に集中すること。もし痛みに押しつぶされてしまうならば、良いインタビュアーやレポーターになることはできません。状況を分析し説明することは、ある程度状況から身を引くことを余儀なくさせます。結局のところ、ジャーナリストとしてどんなに辛く感じても、友人や家族、家を失った人々の悲しさに匹敵するものではありませんから。

だから私は職務を果たすことができました。代わりにその年はたくさんの悪夢を見ましたけれど。今でも海が近い場所でぐっすり快適に眠ることはできません。

書籍「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」について

「タイムズ」紙でのお仕事を抱えながら、書籍の執筆に取り組まれたその原動力は何だったのでしょうか。また、震災にまつわる痛ましい出来事が数多くあったなかで、大川小学校を選んだ経緯を教えてください。

新聞を通したジャーナリズムで災害の規模と恐怖を捉えるのは非常に難しいことだと早い段階で認識しました。私は以前に本を出版していたので、今回のことが書籍レベルの長さに値する物語であると理解していましたが、それを伝える方法を見つけるのには苦労しましたね。この災害全体を網羅する本を作ることはできない。ならば入口を狭く、一個人についての人間的なストーリーを追うことで、より大きな部分、自然の脅威やコミュニティー、そして当局の対応が見えてくるのでは、と。鍵のかかったドアの開け方を見つけるようなもので、私にとって大川小学校と幽霊の話がそれでした。

全ての死は痛ましいことで、悲劇をランク付けするのは間違っています。しかし、大川小学校と石巻市釜谷地区で失われた命よりも悲惨な事件を特定するのは困難です。

本書を書くにあたり、現地の人に多くのインタビューをされたと思います。そのときはどのような気持ちで行われたのでしょうか。その中で記憶に残っている印象的な話、また本に書ききれなかったエピソードがありましたら教えてください。

東北でたくさんの方々に会いました。その人々は私と話したいと思った人、話したくない人の2つのカテゴリーに分類されました。

執筆した本に登場した人物は、明白な理由で、私と話した方々です。私は数年にわたり、この本の中心となる何人かと会話を重ねました。会話を続けるなか、私はその方々に親しみを覚えました。話し手の気持ちや経験を書くことに最善を尽くし、それ自体はある程度の成功を収めたと信じています。しかし、私はほかの全ての人々、沈黙を守る被災者の存在を心に留めていなければなりません。その人たちにも一人ひとり異なる物語や感情があります。東北地方には震災について話さない、あるいは話したことが一度もない人が多いように感じます。私には謎ですが、きっと目には見えない悲劇があったかもしれず、それは10年後も続いているのでしょう。

私がそう思う一人に、大川小学校の被災校舎に行くたびに見掛けていた男性が挙げられます。その男性の7歳の息子は学校で亡くなりましたが、遺体はまだ回収されていません。男性は雨の日も晴れの日も、息子を探しに毎日出掛けました。時に泥を掘り、時にボートに乗って海にも出ました。ジャーナリストと一切話すことはありませんでした。

ラスボーンズ・フォリオ賞を受賞し、多くの人が本を手にしました。執筆後、何か心境の変化はありましたか。

質問を正しく理解しているかどうか分かりませんが、本の書き方について考えを変えたかどうかを尋ねられた場合、答えはノーです。書き直したいことは何もありません。

地震発生時刻に大川小学校の前で黙とうする人たち=2020年3月11日、宮城県石巻市「時事(JIJI)」地震発生時刻に大川小学校の前で黙とうする人たち=2020年3月11日、宮城県石巻市「時事(JIJI)」

東日本大震災から10年。これからのこと

岩手県陸前高田市立気仙小学校では迅速な避難により全児童の命が守られました。一方、大川小学校は天災に加え、人災によって拡大した被害がありました。命の明暗を分けたのは防災意識にあったと言われていますが、そうした意識は時間の経過とともに薄れてしまうのが現状です。数年にわたり足繁く被災地へ通われたロイド・パリーさんだからこそ言える、これだけは覚えていて欲しいと思うことは何でしょうか。

私は日本人に講義をするためにこの本を書いたのではありません。私の役割は、読者が各々の結論に到達することを期待して、可能な限り完全かつ示唆に富んだ物語を伝えることです。

日本は私が知るほかのどの国よりも、自然災害に対する備えが整っています。遅れているのは政治です。私の経験から言うと、日本人は政治を自分たちからかけ離れているものと見なしているように感じます。まるで政治が「別の自然災害」であり、その国民は無力な犠牲者であるかのようです。しかし、民主主義下では、自分でリーダーを選び、そしてある程度のふさわしいリーダーを獲得するものです。

新型コロナの影響で、国内移動が制限されている昨今ですが、状況が落ち着いたら東北地方へ足を運ぶ機会があることを祈っております。

英国とは異なり、国内旅行に法的な制限は現在ありません。来週は4年以上ぶりに大川小学校に行ってみたいと思っています。

 

没後200年を迎えた私たちの知らない
ロマン派の詩人ジョン・キーツ

1819年に友人のチャールズ·ブラウンが描いたキーツ1819年に友人のチャールズ·ブラウンが描いたキーツ(枠内)
John Keats, by Charles Brown, 1819. Print from a drawing. Image courtesy of Keats House, City of London Corporation, K/PZ/01/110.

19世紀英国を代表するロマン派の詩人ジョン・キーツ(John Keats 1795~1820年)。自然や人間の美をうたうことを自らの使命としながら、25歳という若さで死去して今年でちょうど200年を迎える。詩人としての活動期間はわずか4年あまりであるにもかかわらず、ロード・バイロンやパーシー・ビッシュ・シェリーとともに、ロマン派の第2世代の詩人として、その作品は今も色あせることなく人々を魅了し続けている。キーツの作品は生前、批評家たちに受け入れられなかったものの、死後にその評価が高まり、19世紀の終わりまでには全ての英国詩人のなかで最も愛された一人になった。世界中の多くの詩人や作家に大きな影響を与え、南米出身の幻想作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスも、キーツの名を挙げている。今回はキーツの人物像や作品、後世への影響などを改めて探っていこう。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Poetry Foundation、English Poetry and Literature、「イギリス文学入門」石塚久郎 編集、ウィキペディアほか

キーツが詩と巡り合うまで

ジョン・キーツは1795年にロンドンのシティ、モーゲートで4人兄弟の長男として誕生した。父親は、*1「スワン・アンド・フープ」(Swan and Hoop)という宿屋に付属する厩舎で馬丁として働いていたトーマス・キーツ、母親は宿屋の娘フランシス。キーツは当時のほかの多くの文学者がそうであったように、上流家庭に生まれたわけではなかった。

夢見るような瞳を持ったキーツの肖像画(ウィリアム·ヒルトン作)夢見るような瞳を持ったキーツの肖像画(ウィリアム·ヒルトン作)

一家はキーツをイートンやハーローなど、良家の子どもたちが通うパブリック・スクールに送ることはできなかったものの、1803年、8歳のキーツをロンドン北部エンフィールドの学校に入学させた。近代的で進歩的なカリキュラムで知られる、ジョン・クラーク・アカデミーというその小さな学校で、キーツは古典と歴史に興味を持つ。また、校長の息子であるチャールズ・カウデン・クラークが重要な指導者、かつ友人となり、キーツに16世紀イタリアの詩人タッソーをはじめとするルネサンス文学を紹介した。若いキーツは「極端で不安定な性格」と評されながらも読書と勉強に力を注ぎ、13歳で学術賞を受賞している。

一方、1810年にキーツが学校を卒業するまでに、一家の暮らしには大きな変化が起きていた。1804年に父親が落馬事故で死去。同年、母のフランシスが再婚し、キーツを含む4人の子どもたちは祖父母の元に引き取られた。しかし1805年の祖父の死により「スワン・アンド・フープ」が売却され、祖母は子どもたちを連れてロンドン北部エドモントンに引越す。1809年、そこへ結核を患った母親が戻ってきた。学校の休暇中にはキーツも献身的な看護をするが、1810年に死去。キーツはこのときまだ14歳だった。

同年、祖母の計らいでキーツは一家の家庭医である外科医・薬剤師のトーマス・ハモンドの見習いになる。肉親を次々に失っていたキーツにとって、医師という職業は自然な選択だったに違いない。約5年の見習い期間を終えたのち、サザークの*2ガイズ・ホスピタルで研修医として学ぶ。1815年、薬剤師の資格を獲得した。当時の薬というのは薬草であり、キーツはロンドン西部のチェルシー薬草園(Chelsea Physic Garden)にも足しげく通ったという。同時に、このころからホメロスの神話詩やエドマンド・スペンサーの長編寓意詩「妖精の女王」(「The Faerie Queene」)を耽読。やがて、詩人で批評家のリー・ハントが編集する文芸誌「エグザミナー」を愛読するうち、詩作に傾倒するようになっていった。1816年、ついにキーツは医者ではなく詩人として生きることを決意する。

*1 当時の建物は現存しないが、現在ここにはKeats at The Globe(83 Moorgate, London EC2M 6SA)というパブになっており、外壁には「In a house on this site the ‘Swan & Hoop’ John Keats Poet was born 1795」と記されたブルー・プラークが見られる。
*2 病院の中庭にはキーツの彫像が座るアーケードがある(St Thomas Street, London SE1)。2007年にアーティストのスチュワート・ウィリアムソンによって制作・設置された。

キーツの生きた時代

18世紀後半から19世紀初頭にかけての英文学界は、それ以前の啓蒙時代の形式主義と理性ある科学的探究とは正反対の、個人の感情や内面世界を重要視した美を見つけようとしている最中だった。詩人トマス・パーシーの編纂した「古英詩拾遺集」(「Reliques of Ancient English Poetry」1765年)には中世の吟遊詩人たちによる古いバラッドやソネットなどがまとめられ、これがロマン派の詩人たちの制作欲を刺激した。ウィリアム・ワーズワース、ウィリアム・ブレイク、サミュエル・テイラー・コールリッジといった人々が活躍し、また、ロード・バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリーも、論理ではなく創造性を賛美する作品を次々に発表していた。

キーツと同時代の詩人ロード·バイロン(トーマス·フィリップ作)キーツと同時代の詩人ロード·バイロン(トーマス·フィリップ作)

パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画

キーツがペンを執ったのは、そんな自然の摂理をうたう詩や中世の騎士道精神がリバイバルしていた時代だった。キーツはソネットの実験的作品をいくつも作り、1816年5月、「ああ孤独よ」(「O Solitude」)が「エグザミナー」誌に掲載された。翌年には処女詩集「詩集」(「Poems by John Keats」)を出版するなど意欲的な活動を開始。ただし、この詩集の評判は芳しくなかった。影響力のあるリー・ハントと知り合い、出版者や作家、有力なパトロンなどと交流を深めながらも、キーツは「気分が定まらず、人前でおどおどと気後れしている様子」だったと友人の弁護士、リチャード・ウッドハウスが記述している。当時からキーツの才能にほれ込み、その天才を確信した数少ない一人であるウッドハウスは、文学者サミュエル・ジョンソンの一語一句を記録した弁護士ジェームズ・ボズウェルのように、キーツにまつわるものなら何でも集めて保管した。後年、これがキーツを知るうえで非常に貴重な研究資料になったと言われている。

1808年にリー・ハントとジョン・ハントによって創刊された「エグザミナー」誌1808年にリー・ハントとジョン・ハントによって創刊された「エグザミナー」誌

恋愛を創作の原動力に

1817年、処女詩集の出版直後に大英博物館に出掛けたキーツは「エルギン・マーブル」と呼ばれる古代ギリシャの大理石彫刻群を見て、ショックを受ける。キーツは詩集のなかで詩とは「至高の力」であり「人間の苦悩を癒やし、思想を高めるもの」でなければいけないと説いているのだが、「エルギン・マーブル」から受けたのはまさにキーツが理想とする芸術の姿だった。間もなく、ギリシャ神話を題材にした4巻からなる大長編叙事詩「エンディミオン」(「Endymion」)を出版。ところがこの大作は批評家たちから酷評されたうえ、これまで看病を続けていた弟のトーマスが結核で死去するという不幸に見舞われ、公私ともに災難が続いた。

落胆するキーツを気遣う友人チャールズ・ブラウンの勧めで、1818年12月からキーツはブラウンの住むハムステッドのウェントワース・ハウスに間借りをする。その隣家に住んでいたのがファニー・ブローン(Fanny Brawne 1800~65年)という当時18歳の少女。自分の服は自らデザインし、詩を学ぶなど進取の気性に富んだファニーと23歳のキーツはすぐに恋に落ちた。ただし、キーツはこの先も金銭的な安定が保証できない身分であるうえ、弟の看病から体調不良となり、自分も結核に感染しているのではないかという恐れを抱いていた。心が通じ合っているのに成就することのないこの恋愛は、キーツの創造力を研ぎ澄ませ、やがて「秋に寄せて」(「To Autumn」)、「ギリシャの古壺のオード」(「Ode on a Grecian Urn」)、「ナイチンゲールに寄す」(「Ode To A Nightingale」)などの代表的オード(頌歌と呼ばれる抒情詩の形式)を次々と生むきっかけとなった。

「ナイチンゲールに寄す」の草稿(キーツ・ハウス所蔵)。
キーツは筆跡の美しさでも知られている「ナイチンゲールに寄す」の草稿(キーツ・ハウス所蔵)。キーツは筆跡の美しさでも知られている

翌1819年に秘かに婚約した2人だが、喀血(かっけつ)するなどしてすでにキーツの病状は悪化の一途をたどっていた。文学仲間たちは療養させるため見舞金を集め、キーツを暖かいローマへと送り出した。キーツはこれがファニーとのこの世の別れになるだろうと確信しつつも、1820年9月13日に英国を離れた。キーツが死んだのは翌21年2月23日。ローマのプロテスタント用墓地に葬られた。遺言により、墓石にはキーツの名は刻まれず、「その名を水に書かれし者ここに眠る」(「Here lies one whose name was writ in water」)とだけ彫られている。

ローマにあるキーツの墓ローマにあるキーツの墓

うたい継がれる美意識

傷心のままローマに没したキーツは自分の作品が後世に読み継がれるようになるとは、夢にも思っていなかった。しかし、同時代の詩人シェリーはキーツの死を悼み、壮大な挽歌にして自身の最高傑作「アドネイス」(「Adonais」)を書いた。また、若き日のオスカー・ワイルドにとってもキーツは理想の詩人だった。長髪で病弱な美の殉教者キーツは、その作品ばかりか生き方やファッションすらも憧憬の対象となったのだ。ワイルドはキーツをラファエル前派の先駆者であるとも述べている。産業革命の反動として現れた英国ロマン主義の詩人の一人として、ジョン・キーツの名は今もしっかりと歴史の中に根を下ろしている。

キーツの住んだハムステッドのウェントワース・ハウス。キーツの住んだハムステッドのウェントワース・ハウス。現在はキーツの資料館「キーツ・ハウス」(Keats House)として一般に公開されている(10 Keats Grove, London NW3 2RR)

現代に通じるキーツの哲学

ネガティブ・ケイパビリティーとは

キーツが現代にも影響を与えているものの一つに「ネガティブ・ケイパビリティー」(Negative Capability)という言葉がある。これは、キーツが不確実なものや未解決のものを受容する能力を説明する際に編み出した考え方で、弟へ向けた1817年12月21日の手紙に出てくる。「シェイクスピアがこの能力を著しく有している。作家ばかりでなく、詩人もこの能力を持つべきだ」とキーツは書く。

この理論は、第二次世界大戦中に精神科医のウィルフレッド・ビオンがキーツの言葉を再発見したことで広まった。日本の小説家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)は、精神分析の世界ではこれは「答えの出ない事態に耐える力」と説明され、せっかちな見せかけの解決ではなく、共感の土台にある負の力が発展的な深い理解へとつながる能力だと説明する。複雑なものをそのまま受け入れず、単純化やマニュアル化したり、答えがすぐ出ないものは最初から排除しようとする傾向がある現代社会とは対極の理論と言える。

キーツの代表作を詠む

繊細な美的感覚と豊かな言語構成能力を持つキーツの魅力が十分に発揮された大作「エンディミオン」(1718年)は、羊飼いの美青年エンディミオンに恋をした月の女神が、青年を独占するため、永遠に眠らせておいたというギリシャ神話にアイデアを得た作品。ここでは有名な冒頭の部分の口語訳を紹介しよう。

Endymion
John Keats

A thing of beauty is a joy for ever:
Its loveliness increases; it will never
Pass into nothingness; but still will keep
A bower quiet for us, and a sleep
Full of sweet dreams, and health, and quiet breathing

Therefore, on every morrow, are we wreathing
A flowery band to bind us to the earth,
Spite of despondence, of the inhuman dearth
Of noble natures, of the gloomy days,
Of all the unhealthy and o'er-darkened ways
Made for our searching: yes, in spite of all,

Some shape of beauty moves away the pall
From our dark spirits. Such the sun, the moon,
Trees old and young, sprouting a shady boon
For simple sheep; and such are daffodils
With the green world they live in; and cleasr rills
That for themselves a cooling covert make
Gainst the hot season; the mid forest brake,
Rich with a sprinkling of fair musk-rose blooms:

And such too is the grandeur of the dooms
We have imagined for the mighty dead;
All lovely tales that we have heard or read:
An endless fountain of immortal drink,
Pouring unto us from the heaven's brink.

美しいものは永遠の喜びだ
それは日ごとに美しさを増し
決して色あせることがない
わたしたちに安らぎをもたらし
夢多く健康で静かな眠りを与えてくれる

それ故毎朝わたしたちは花輪を編み
自分たちを大地に結び付けるのだ
落胆していようとも 暗澹とした日々に
生きるのがままならないとも
なにもかもが意に反して
むしゃくしゃしていようとも

わたしたちの心の暗闇から不吉なものを
追い払ってくれる美しさがある 
太陽や月の美しさがそうだ
また若葉を芽吹いて繁みとなる木々
緑に包まれてのびのびと咲く水仙たち
灼熱の季節にも自分のために
涼しさを生み出す小川の流れ
麝香バラの咲き乱れる森の繁み

またわたしたちが偉大な死者について
思い描く運命の壮大さや
聞いたり読んだりした美しい物語の数々
天空の一端からわたしたちに降り注ぐ
不死の飲み物の尽きせぬ泉に 
そんな美しさを感ずるのだ

(出典: 壺齋散人訳 English Poetry and Literature)

 

映画「キッド」にまつわる6つのストーリー - 公開から100周年

< 公開から100周年 > 映画「キッド」にまつわる
6つのストーリー

映画「キッド」の主役、チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)映画「キッド」の主役、チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)

喜劇王チャールズ・チャップリンが手掛けたサイレント映画「The Kid」(邦題「キッド」)が、米ニューヨークのカーネギー・ホールで1921年1月21日に公開されてから今年で100年を迎えた。故郷の英国を離れ、米国を拠点に活躍していたチャップリンは、本作公開前も一定のヒット作品を出していたが、「キッド」はそれまでの映画史を大きく変えるマイルストーン的作品となった。自身初となる長編喜劇映画の監督として、また脚本、製作、約50年後のサウンド版の音楽にいたる全てを自身で徹底して作り込んだわけだが、天才が作る作品には一般人には想像できないさまざまなエピソードが付随している。今回は、数あるその中から英国との接点や、ハリウッドらしい名声や富にまつわる印象的なエピソードを6つ紹介しよう。(文・英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Charlie Chaplin(Official representative of Charlie Chaplin)、University of Southampton Special Collections、Encyclopædia Britannica ほか

1笑って泣ける作風は実生活から生まれた

「キッド」が生まれる前まで、サイレント映画業界では、「コメディー」「ドラマ」など、基本的には1作品に対し一つのジャンルに絞られていた。2つ以上の要素が入ってしまうと、ストーリーに一貫性がなくなる、というのが当時の映画業界における共通認識。また、すでに映画が一大産業として発展していた米国では、コミカルな動きで視覚的に笑わせる「Slapstick comedy」(ドタバタ喜劇)が1920年代の流行りだった。しかし、その常識は本作によって突如打ち破られることになる。

人生に浮き沈みがあるように、ドラマとコメディー要素を自然に織り交ぜることで、笑って泣けるストーリー展開に仕立てた本作は映画史における革命だった。情景描写が妙にリアルで、観客の感情に直接訴えてくるストーリーは、チャップリンの実生活におけるさまざまな体験に基づいて作られた緻密なものであった。例えば、「(チャップリン扮する)リトル・トランプが捨てられた子ども(キッド)の父親になる」という大まかなプロットは、1人目の妻、ミルドレッド・ハリスとの間にもうけた男の子が生まれて3日で亡くなり、埋葬されたわずか10日後に完成した。また、孤児院の職員がキッドを施設へ無理やり連れて行こうとする描写は、同じように幼少時代に母親から引き離され、孤児院での生活を余儀なくされたチャップリンの辛い記憶にリンクしている。

撮影期間は数週間の休みを除き約9カ月。チャップリンは各シーン納得がいくまでリテイクを重ね、結果的に上映68分の映画に対し、50倍以上ものフィルムを回し続けた。

チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)

1922年に撮影されたチャーリー・チャップリン。その素顔は青い目をしたチャーミングな顔立ちの男性だった1922年に撮影されたチャーリー・チャップリン。その素顔は青い目をしたチャーミングな顔立ちの男性だった

2天才子役、ジャッキー・クーガン

母親に捨てられ、リトル・トランプに拾われる孤児を演じたジャッキー・クーガン(John Leslie Coogan, 1914~84年)とチャップリンの出会いは諸説あるものの、とても運命的だったと言われている。

「キッド」に出演する前から生後18カ月にしてサイレント・コメディー映画「スキナーズ・ベイビー」(1917年)に出演していた。クーガンの父親もまた舞台で活躍するコメディアン兼ダンサーで、その公演を偶然見に来ていたチャップリンに息子を引き合わせた。

クーガンはチャップリンの軽快な動きを完璧にコピーすることができた。驚きを隠せないチャップリンは、クーガンに職業を尋ねると、「僕は早業の世界の手品師なんだ」と即答した。ウィットの効いた返答にチャップリンは胸を打たれ、この時5、6歳のクーガンを次作の子役に抜擢した。ダンスの才能はもちろんのこと、クーガンは子どもながら目元に悲しみをたたえた印象的な顔でも皆を魅了した。映画のプロットに合わせ、「キッド」は別名「The Waif」(浮浪児、顔色の悪い子ども)とも呼ばれた。

2人は約50年後の1972年、米ロサンゼルスで再会を果たしている。この時の様子についても、いろいろなエピソードが残されているが、「チャップリンがクーガンに『誰よりも会いたかった』とささやいた」「クーガンとの再会を喜び、同席していたクーガン夫人に、『あなたの旦那は天才だ、これだけは決して忘れてはいけないよ』と伝えた」など、総じて心温まるものである。

1920年ごろに撮影されたジャッキー・クーガン1920年ごろに撮影されたジャッキー・クーガン

3離婚騒動で秘密裏に行われた編集作業

「ミルドレッドは息をのむ(美しさ)というのではなく、かわいらしかった」。チャップリンは後の妻となるミルドレッド・ハリス(1901~44年)に出会った瞬間をこのように回想している。1918年、映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィン主催のパーティーで初めて会ったとき、チャップリンは29歳、ハリスは16歳。ハリスもチャップリン同様、若くして俳優キャリアをスタートさせていた。

同年、ハリスから突然妊娠を知らされたチャップリンは大慌てで結婚することを決める。しかし初めこそ良かったものの、互いに相手の人物像を大きく勘違いしており、特に若いハリスは夫の並外れた才能やそれによる劣等感など、複雑な思いを抱えていた。無論結婚生活は長続きせず、「キッド」の撮影中に離婚訴訟が進む。ハリスの弁護士らが映画の製作を妨害するのではないか、と考えたチャップリンは、編集前のフィルムをコーヒーの缶に詰め、信頼できる製作メンバーと共に米西部ソルトレイクシティのホテルとニューヨークの匿名スタジオへ飛び、秘密裏に編集を進める羽目になった。

チャップリンの最初の妻であるミルドレッド・ハリス。「キッド」の撮影期間と離婚訴訟がまるかぶりで、チャップリンは公私ともに忙しかったようだチャップリンの最初の妻であるミルドレッド・ハリス。「キッド」の撮影期間と離婚訴訟がまるかぶりで、チャップリンは公私ともに忙しかったようだ

4一躍スターになった子役クーガンの功罪

世界恐慌の真っ只中の当時、ハリウッドでは子どもが親のために金を稼ぐ手段になることに疑問を抱く者はいなかった。本作で一大子役スターになったクーガンは、その後も数々の映画に出演し、週に2万2000ドル(現在で32万1200ドル、日本円で約3351万円)を稼ぐ超売れっ子になったが、母親と元マネージャーの継父(実の父親は離婚後、1935年に自動車事故で他界)の金銭の管理はずさんだった。数百万ドルはあるはずだった財産は、ギャンブルなど2人の浪費によって、ほとんど手元に残っていなかったのだ。これをきっかけに、1939年、子役の収益の一部を本人に残すよう義務付ける「クーガン法」がカリフォルニア州で成立。「子どもは楽しんで撮影しているから」という親の言い分は法をもって阻止できるようになった。近年は映画子役のみならず、YouTubeで子どもを使って金を稼ぐ親が増えているため、何かと引き合いに出される法律となっている。

5「キッド」の裏で公開されなかったもう一つの作品

米国を拠点に活躍していたチャップリンには、英国に意外な交友関係を持っていた。その人物とは、フィリップ殿下の叔父にあたる、ビルマの初代マウントバッテン伯爵ことルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン(1900~79年)だ。詳細は語られていないものの、ミルドレッド・ハリスを通して出会ったとされている。

1922年、マウントバッテン伯爵はエドウィナ・アシュレイ夫人とハネムーンでハリウッドを訪れる。伯爵がハリウッドにいる間、チャップリンは結婚のお祝いとして短編映画「Nice and Friendly」(「ナイス・アンド・フレンドリー」)を即興で製作。これはアシュレイ夫人の真珠のネックレスをめぐり、さまざまな人物がそれを盗もうとする物語で、新婚2人のほか、チャップリン、ジャッキー・クーガンなど「キッド」のキャスト、ワシントンDCの英国大使館スタッフなど、周囲にいた人物を役職関係なく巻き込んだ豪華なホーム・ムービーだった。撮影は米俳優ダグラス・フェアバンクス、元妻のメアリー・ピックフォードが住む邸宅の庭で行われた。

ルイス・マウントバッテン伯爵(写真右)とエドウィナ・アシュレイ夫人(同左)。ハネムーンで米ニューヨークも訪れたルイス・マウントバッテン伯爵(写真右)とエドウィナ・アシュレイ夫人(同左)。ハネムーンで米ニューヨークも訪れた

6独特の山高帽スタイルは米国生まれ

チャップリンのトレードマークである、山高帽にちょび髭、ぶかぶかのズボンのキャラクターは米国で誕生し、「トランプ」「リトル・トランプ」と呼ばれ親しまれ、「キッド」を含む一連の作品に登場した。そもそもチャップリンはどのような経緯で米国へ拠点を移したのだろうか。

チャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin, 1889~1977年)の俳優キャリアは英国で始まった。1889年4月16日、歌手で俳優の両親のもとに、ロンドンで生まれたチャップリンは、両親の離婚後、幼くして母親に引き取られた。しかし後に母親が精神病に侵されてしまったため、異父兄のシドニーと共に孤児院を転々とする困窮した生活を強いられる。しかし、両親の才能を受け継いだチャップリンが、ライブ音楽を提供するミュージック・ホール(ヴォードヴィル)でデビューを飾るのに時間はかからなかった。

転機となったのは、コメディー劇団として有名だったフレッド・カーノー(1866~1941年)率いるファン・ファクトリー(the Fun Factory)への入団だった。当時、ミュージック・ホールでの演目がそのままサイレント映画になることもあり、舞台と映画は強固な関係で結ばれていた。

「Jimmy the Fearless」(「ジミー・ザ・フィアーレス」)など、数々の演目で活躍し、注目を浴びたチャップリンは、1910年に同劇団の海外巡業で米国を訪問する。この公演が大成功に終わり、1913年に公演のため再び米国を訪れた際、現地の映画プロデューサーに声を掛けられたことをきっかけに、活動の拠点を米国に移したのだった。

チャップリンは英国の映画界への直接的な貢献はないに等しかったものの、「キッド」の成功で英国へ凱旋帰国した際は、市民から熱烈な歓迎を受けた。

チャップリンがこの扮装で初めてスクリーンに登場したのは映画「Kid Auto Races at Venice」(「キッド・オート・レーシーズ・アット・ヴェニス」)(1914年)だと言われているチャップリンがこの扮装で初めてスクリーンに登場したのは映画「Kid Auto Races at Venice」(「キッド・オート・レーシーズ・アット・ヴェニス」)(1914年)だと言われている

フレッド・カーノーチャップリンの世界的な活躍を後押ししたフレッド・カーノー。チャップリンは、世話になったカーノーが晩年借金で困窮したときに資金援助を惜しまず、カーノーの葬儀には「深い同情を込めて」と感謝の言葉をおくったという

The Kid

貧しそうなシングル・マザーが置き手紙を添えて、男の赤ちゃん(ジャッキー・クーガン)を道に停めてあった高級車に置き去りにする。しかし泥棒が車を盗み、赤ちゃんを路上に残してしまう。通りかかったトランプ(チャーリー・チャップリン)は、その子を自身で引き取り育てることにする。そして5年の月日が流れ子どもはたくましく育ったが……。

The Kid

(U)68分
監督: Charles Chaplin
出演: Charles Chaplin, Jackie Coogan, Edna Purviance ほか
1921年1月21日米国プレミア公開
(1972年サウンド版リリース)

 
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