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オーウェルが警告した近未来の全体主義社会 - 反ユートピア小説「1984」出版から70年

反ユートピア小説「1984」出版から70年オーウェルが警告した近未来の全体主義社会

英ジャーナリスト・作家のジョージ・オーウェル(1903~1950年)が1949年に風刺SF小説「1984」を発表し、今年で70年が経過した。オーウェルは1984年の世界で人々が息苦しい監視社会の中で暮らす様を描き、全体主義に警鐘を鳴らしたが、この本が現在再び脚光を浴びているという。それは「もう一つの真実」といった言葉や、国や企業による個人情報のデータ化など、私たちが住む現代の社会が驚くほど「1984」の作中の世界に近づいてきているためだ。ここでは、70年前の本作執筆当時のオーウェルや英国の世相を振り返りつつ、「1984」で描かれた世界と現代社会の類似点を探る。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考文献:Orwell The Life by D.J.Taylorなど

ジョージ・オーウェル
左)ペンギン・クラシックス・シリーズの「Nineteen eighty-four」
右)熱心な民主的社会主義者だったジョージ・オーウェル

「1984」あらすじ

1950年代に勃発した核戦争後、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアという3つの大国に分割され、三国は常に戦争状態にあった。作品の舞台であるオセアニアはビッグ・ブラザーと呼ばれる独裁者に支配された全体主義国家で、市民の思想や言動には厳しい規制が加えられ、その暮らしは巨大なテレスクリーンなどで常に監視されている。

1984年、オセアニア真理省の記録局に勤務し、「過去の歴史の改ざん」を担当する小役人ウィンストン・スミスは、偶然、過去のある新聞記事を見つけたことで、絶対であるはずの党に対する疑問が芽生える。やがて、スミスはテレスクリーンから見えない場所で密かに日記を付けるという「重大な犯罪行為」に手を染める。

小説出版までの経緯と当時の英国

ジョージ・オーウェルは第二次世界大戦中、BBCでラジオ番組制作にたずさわる他、英「オブザーバー」紙の書評家・特派員としても活動。その一方で1945年には寓話政治小説「動物農場」を発表し、一躍ベストセラー作家の仲間入りをするなど、多忙な日々を送っていた。しかし同年に妻を亡くし、自らも肺を患っていたことから、知人の勧めで46年にロンドンを離れ、幼い息子と共にスコットランドの孤島ジュラ島に移り住む。しかしジュラ島の自然は厳しく、特にこの年の冬は「100年に一度の寒波」と言われる寒さが英国を襲った。「動物農場」で反スターリン主義・反全体主義を描いたオーウェルは、これをさらに一歩進めた本格的な政治小説を静かなジュラ島で執筆する計画を立てていたが、厳しい天候、体調の悪化、戦争直後の物資不足などあらゆる方面から苦しめられた。当時の英国は大戦の混乱からまだ立ち直っておらず、依然として配給制度が続いており、ジュラ島に限らず、国民は戦時中から続く厳しい日々の暮らしに疲弊していた。

ジュラ島にあるオーウェルの暮らしていた家ジュラ島のバーンヒルに残るオーウェルの暮らしていた家

対外的には、インドやスリランカなどかつての植民地が相次ぎ独立した時期でもあり、英政府はマーシャル・プランで米国からの資金援助を受け、米国の反ソ・反共政策に協調する政策をとり始める。冷戦時代の幕開けである。世界が次第に変わりゆく中で、オーウェルは47年に結核と診断されながらも驚異的な忍耐力で執筆を進め、48年12月に「1984」を書き上げる。だが翌月49年1月にはイングランド南西部グロスタシャ―のサナトリウムに入院。6月に「1984」を上梓するも、翌50年1月21日にロンドンの病院で死去。46歳だった。

「1984」出版前後の世界情勢

1939 ポーランドを占領したドイツに対し英国が宣戦布告
1940 英国本土への空襲が始まる
1941 米ソが参戦
1945 第二次世界大戦終戦
1947 トルーマン米大統領が世界規模の反ソ反共政策を提唱
1948 マーシャル米大統領が欧州復興計画を発表
ベルリン封鎖やマッカーシズムの台頭
1949 中華人民共和国の成立
「1984」出版
1950 朝鮮戦争勃発
オーウェル死去
1953 スターリン死去
1959 キューバ革命
1961 ベルリンの壁によりドイツが東西分断
1962 キューバ危機
1984 アップル社が一般向けコンピューター、マッキントッシュを発表

タイトルにまつわる5つの仮説

1948年、オーウェルは本作のタイトルを「Nineteen eighty-four(1984)」とするか「The Last Man in Europe(ヨーロッパ最後の男)」とするかで迷っていたという。出版社の勧めで「1984」を採用したが、なぜ1984という年がタイトルに選ばれたかは語られておらず、今ではいくつかの仮説が存在している。

  1. 完成時は1948年。1948年の8と4を入れ替えた。
  2. 1984年はオーウェルの息子リチャードが40歳になる年。ちなみに「1984」の主人公は39歳という設定。
  3. オーウェルが愛読した米作家ジャック・ロンドンの政治小説 「鉄の踵」で舞台となったのが1984年。
  4. 英小説家 G.K.チェスタトンが1904年に発表した 「新ナポレオン奇譚」では、1984年の英国が描かれている。
  5. 1884年に発足した英国の社会主義団体、フェビアン協会の100周年にあたる年。同協会は社会福祉の充実による社会主義改革をめざし、オーウェルもメンバーの一人だった。

1956年作の英映画「1984」の1シーン1956年作の英映画「1984」の1シーン

Big Brother、Thought Police…… 「1984」から生み出された言葉

作中に出てくるオーウェルの造語のいくつかは、現代社会に定着し実際に使われている。ここでは「1984」から生まれた代表的な単語をいくつか紹介する。

Orwellian [オーウェリアン]

「1984」でオーウェルが描いたような極端な監視管理社会を指す。また、「1984」的な反ユートピア作品を「オーウェリアンSF」などと言うこともある。

Big brother[ビッグ・ブラザー]

作中の全体主義国家オセアニアに君臨する独裁者。巨大なポスターや、テレスクリーンで登場する。しばしば「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている(Big brother is watching you)」というフレーズとともに監視社会の例えとして使われている。

Thought police[思想警察]

常に市民たちを監視し、党やビッグ・ブラザーに反対の思想を持つ政治犯を逮捕する機関。そこから、国家組織の根本を危うくする行為を除去するためと称して、疑いのある人物の逮捕を行ったりイデオロギー的な正当性を強制したりするような特高警察を指すようになった。

Room101[101号室]

党に反対する思想を持つ政治犯に対し、精神的拷問と洗脳が行われる部屋のこと。そこから転じて、拷問部屋のような我慢ならない場所という意味で、うんざりするほど長い会議が行われている会議室などに対しても使われる。

Newspeak[ニュースピーク]

作中で、従来の英語を基に思考の幅を縮小するようにデザインされた言語体系。言葉の選択肢を最小まで減らすことで、複雑な思考を困難にするのを目的とする。例えば、「悪い(bad)」という単語がなくなり、「良くない(un-good)」で代用するなど。実際に日本では、数年前にオバマ元大統領の使った「profound mistake(重大な誤り)」を単に「正しくない」と訳している。また、支配者が市民を扇動しやすいように、すばやく発音でき、話す者の頭に最小限のものしか想起させない短く耳触りの良い単語に変換されることもある。

Doublethink[二重思考]

自分の心の中にある対立した考えを同時に信じ込み、対立が生み出す矛盾は完全に忘れられる状態。例えば、2+2は4だが、党や支配者が5といえば5とも考えられる能力。全体主義国家を支配するエリート層が、市民に対して要求する考え方で、本作を表すもっとも象徴的な語の一つ。SNSの登場によって、自身の考えに対する一貫性や責任意識が薄れてしまった現代社会においては、たとえ支配者が不在だとしても二重思考は起こり得ると言える。

「1984」の世界に似てきた現代社会

「1984」は欧米を中心に世界中で読まれている20世紀の名著の一つとして常に一定の人気を保っているが、2017年1月23日に米国で突然アマゾンのトップ10リストに上がり、同25日には1位になった(ロイター調べ)。これはトランプ米大統領就任式の聴衆数が誇張して発表された後、テレビ番組に出演したコンウェー大統領顧問が「オルタナティブ・ファクト」という言葉を用いてそれを正当化したのがきっかけだった。数字の誇張が虚偽ではなく「オルタナティブ(=代案、既存のものに取ってかわる新しい)な事実」、つまり「もう一つの真実」だとする考え方は、まさにオーウェルが「1984」で扱ったニュースピークや二重思考の概念と重なる。

英国でも、2016年6月の欧州離脱を問う国民選挙を前に、離脱派によるさまざまな虚偽の数字や公約がなされ、投票結果に影響が出た。オックスフォード辞典は2016年を象徴する言葉として「ポスト・トゥルース(ポスト真実)」、客観的な事実よりも感情や個人の信条に訴える方が世相にアピールできる状況を挙げている。これは人々がSNSに出回る情報が事実であるか否か注意を払っていないことも指す。また、近年ではGPSなどテロ行為防止のための監視システムや個人識別データの作成といった国民を管理する仕組みも進んでいるため、社会はいよいよオーウェルが危惧した世界になってきたのだと言える。

映画や音楽にも「1984」が後のカルチャーに与えた影響

「1984」の世界観は映画、音楽、小説などカルチャー面にも影響を与え、さまざまなジャンルで反ユートピア的な世界が描かれた。「1984」自体が英国で2度(1956年、1984年)映画化されている他、音楽ではデービッド・ボウイが1974年のアルバム「ダイヤモンドの犬」で同著にオマージュを捧げている。また、外部から隔離され監視カメラやマイクの付いた家で男女が3カ月間生活する様子を追うリアリティー番組「ビッグ・ブラザー」が1999年から世界各国で放映された。英国では「ルーム101」のタイトルで、ゲストが自分の嫌いなものについて語るトーク・ショーが1994~2007年、2012~19年に放映。日本では、村上春樹が2009年に「1Q84」を発表。村上はオーウェルの「1984」を土台に、近未来ではなく近過去を描いた。

 

日本のチャリティー支援のために走った英国人、ロジャー・バーマンさん

日本のチャリティー支援のために走った英国人 ロジャー・バーマンさん Roger Berman

日本在住歴が30年以上になる英中部リバプール出身のロジャー・バーマンさんは、4月28日に行われたヴァージン・マネー・ロンドン・マラソンに海外からの一般ランナーとして参加しつつ、日本のチャリティー団体を支援するチャリティー・ランを行った。自分の行動を社会貢献に結びつけようとするバーマンさんに、そのモチベーションについて話を伺った。

ロジャー・バーマンさん

まず始めに、どのような経緯で日本にいらっしゃったのでしょうか。

昔バックパッカーだった頃、旅行先として訪れたのが最初です。その後一旦英国に戻りましたが、「再び日本に行ってみたい」と思ったので、バイトをしつつロンドンの学校で日本語を学び、1985年に再び日本へ。それから現地で2年半ほど語学学校に通った後、キャラクターやブランドのライセンスを扱う日本の会社へ就職し、英国と日本を結ぶ橋渡しとして働きました。現在は同じ分野で独立し、東京で会社を経営しています。

今回応援した「NPOみらいの森」(以下みらいの森)との出合いを教えてください。

みらいの森を知ったのは今から約3年前、日本在住の英国人が月1回集まる「ブリッツ・アット・ランチ」という昼食会でした。そこでみらいの森のスタッフの方が、日本国内を自転車で500キロ走って資金を募るファンドレイジングで同団体を支援したKIWL*1の活動についてプレゼンをしたのです。みらいの森の理念は「児童養護施設にいる子供たちに、アウトドア活動や多文化を通じて、生きる力を身に付けてもらう」というもので、それまで自分の会社のCSR活動*2に力を入れていた私にとって、スポーツ活動を通じたチャリティーは好感が持てました。

また、学生の頃からトレッキングなどに親しんでいたので、大自然が持つ人間を育てる力を知っていたことも大きかったですね。親がいない、虐待された経験があるといった、さまざまな事情を抱えて児童養護施設で生活する子供たちは、英国と違い日本ではタブー視されることすらあります。こういった子供たちをサポートする団体の活動からファンドレイジングの方法に至る全てが、私の価値観と一致していたのです。

*1自転車やランニングなど、スポーツを通じてファンドレイジングを行う団体Knights in White Lycra
*2「Corporate Social Responsibility」の略称で、企業の自主的な社会貢献のこと

そこからなぜロンドン・マラソンでファンドレイジングを行おうと思ったのでしょうか。

私はランニングが趣味なのですが、その延長で前述のKIWLと一緒に55キロのチャリティー・ランを企画・開催しました。同団体がサポートしている児童養護施設の子供たちとも交流する、という企画で、これを各ランナーたちが企業や友人に宣伝し、寄付金を募るというものでした。既にチャリティー・ランは私にとって身近な存在だったわけです。そんな折、出場倍率がとても高いロンドン・マラソンの海外一般枠に当選したのです。あの舞台で走るなら、チャリティー・ランをやってみたい、と思ったのは自然な流れでした。

私が走り、宣伝することで団体の活動内容がより多くの人に伝わっていきますよね。子供を支援する団体は他にもたくさんありますが、みらいの森なら自分にとって近い関係だし、実際的な活動も見ているので、ここを支援したかった。走ることは自分のためでもあるけれど、それだけでは甘いと個人的に思っています。自分の行動が誰かに対しても意味を持つような、責任を持った活動を行いたい。今回は自己ベストを更新できるよう頑張ります。*3

*3バーマンさんは20分ほど自己ベストを更新されました!

 

本條秀慈郎 - 三味線奏者 - インタビュー

本條 秀慈郎

三味線の
可能性を切り開く
パイオニア
本條秀慈郎 HONJOH Hidejiro

坂本龍一の2017年のアルバム「async」にもゲスト出演している三味線奏者、本條秀慈郎は、伝統的な邦楽器でコンテンポラリー音楽の世界を追求する異色のミュージシャンだ。現代楽器としての三味線の可能性を若きパイオニアとして切り開き、世界的な作曲家に新作を制作してもらうことで楽器の新たな魅力を開拓すべく、グローバルに活動している。ウィグモア・ホールへの登場は2018年以来2度目となるが、今回はソロ・コンサートで単独で1時間のステージに挑む。三味線を始めたきっかけ、楽器の魅力と可能性、そして今回のプログラムについてたっぷりと語っていただいた。(インタビュー・文: 後藤菜穂子)

PROFILE 本條 秀慈郎(ほんじょう ひでじろう)
1984年生まれ。桐朋学園大学在学中、本條流家元本條秀太郎氏に師事し本條秀慈郎の名を許される。2016年、ACC Nakamura Kimpeiフェローシップによりニューヨークへ渡米。帰国後、自主リサイタル開催など国内の他、欧米、アジアの各地で演奏。NHK教育テレビ「日本の芸能」、テレビ朝日「題名のない音楽会」などに出演。アンサンブル・ノマド、クァルテット・エクセルシオやクレア・チェイス(フルート)、佐藤紀雄(ギター)、宮田まゆみ(笙)と共演。他ジャンルとの試みも多く、舞踊家の平山素子、デザイナーのジャン・リーロイ・ニューとも共演している。現在、桐朋学園芸術短期大学非常勤講師。

子供の頃の夢は指揮者

本條さんのご出身はどちらですか。

生まれは東京で、その後しばらく埼玉県の南浦和に住んでいたのですが、幼稚園に上がる時に父親の実家のある栃木県の宇都宮に引っ越しました。私の父は彫刻家で、主にアルミニウムを使って作品を作っています。父親も母親も音楽、特にジャズが好きで、クラシック音楽もよく聴きに行っていました。

ご自身も幼少の頃からピアノを習っていたそうですね。

母親が好きだったので僕にピアノを習わせたのですが、練習は苦手でした。ただ、ピアノ曲を聴くのは好きで、たとえば、母と一緒にベートーヴェンの「エリーゼのために」をいろいろなピアニストのCDで聴き比べるなどしていました。両親は大量のレコードやCDを持っていて、僕が中学生の頃になると父は現代音楽を聴かせてくれました。たとえばジョン・ケージやシュトックハウゼン*1、メシアン*2などです。そういった意味では、幅広い音楽を聴いていましたね。

*120世紀ドイツの前衛作曲家カールハインツ・シュトックハウゼン 
*220世紀フランスの作曲家オリヴィエ・メシアン

ピアノはその時も続けていましたか。

細々と続けていたのですが、うまくはなりませんでした。当時は楽譜がきちんと読めなくて、耳で聞いて覚えて弾いていたのです。中学生になるとオーケストラ曲も聴くようになり、指揮者が好きになって、トスカニーニ*3のようになりたいとか言い出しました(笑)。あと当時、坂本龍一さんのような作曲家で演奏家、指揮もされプロデュースもできる音楽家に憧れていました。それで高校進学では地元の音楽高校を受けたのですが、見事に落ちまして、しばらくピアノはトラウマになりました。

*3イタリア出身の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ

三味線を始めたきっかけは。

高校に入ってからはバンドでギターを弾いたり、吹奏楽でチューバを吹いたり、中途半端に音楽を続けていたのですが、ある時、渋谷の小劇場「渋谷ジァン・ジァン」で三味線のコンサートを聴いてきた母に、「あなた三味線をやりなさい」と言われたのです。三味線については僕自身、何も知らなかったのですが、少なくとも地元では誰もやっていない楽器でしたし、目立つものをやりたいと思ったので、近所の津軽三味線の先生のところに通い始めました。そうしたらなんと楽譜がないじゃないですか! やったーと思いました(笑)。三味線のお稽古というのは、先生の演奏を見て覚えるわけです。そして次のお稽古で次の部分を覚えるという方法です。週1回ずつ通って、半年に一曲覚えるといったペースでした。

本格的に三味線を学ぶようになったのは大学からですか。

そうです。当時、ちょうど中学校教育に邦楽器が導入された頃で、僕は音楽の教師になろうと思ったのです。学校の先生なら吹奏楽の指揮もできるし、憧れびとにもなれるかなと思って(笑)。藝大に行きたいと思ったのですが、当時は津軽三味線専攻のコースがなかったので、ちょうど開設されたばかりの桐朋学園芸術短大の日本音楽コースに入学しました。そこで長唄三味線の奏者で、現代音楽も演奏される杵屋勝芳壽先生に師事しました。

先生は厳しかったですか。

とても厳しかったです。そもそも、桐朋短大コースのカリキュラムが現代曲を学ぶというものだったので、現代音楽にどっぷり浸かる日々でした。毎週のように新しい現代曲の楽譜を与えられて、次の週までに勉強していかなければなりませんでした。しかもそれまで三味線で五線譜なんて見たこともなかったのに! おかげで中学や高校の頃に楽譜を読めなかったのが一気に解消されました(笑)。また、大学ではアンサンブルの授業もあって、ギターやフルートなど西洋楽器との合奏も経験できて面白かったです。

本條 秀慈郎 三味線は1人で指揮者もオーケストラも全部できる楽器

プロの三味線奏者へ

現代音楽を専門とするプロの三味線奏者を目指すようになったのはいつでしょうか。

大学2年の時に、今の師匠の本條秀太郎先生*4と出会いました。初めて先生のソロの演奏会を聴いた時、最初にチーンと弾いたその一音で、なるほど、三味線というのは1人で指揮者もオーケストラも全部できる楽器なのだと実感しました。それほど圧倒的な存在感で、何よりもすごく良い音でした。それで、大学と並行して先生のもとに通いの内弟子をさせていただきました。当時は先生の偉大さをそれほど分かっていなかったのですが、師事するうちにやがて本條の名をお借りして活動したいと思い、卒業後の2009年に本條秀慈郎としてリサイタルを開きました。それがプロになるスタートでした。

*4日本の民謡・端唄・俚奏楽・現代音楽の三味線の演奏者、三味線音楽の作曲家

本條さんは多くの現代作曲家に新作を依頼してきました。これまで何曲ぐらい委嘱していますか。

たぶん50曲ぐらいでしょうか。僕の音楽活動はリサイタルが主軸になりますが、三味線のための現代曲はさほど多くないですし、また西洋楽器と共演したくても曲がなかったりするので、基本は委嘱します。初めて外国の作曲家に委嘱したのは2014年でした。そうした中で、最近では作曲家が呼んでくれて「曲を書くので弾いてほしい」という依頼も来るようになりました。

昨年、ウィグモア・ホールでの藤倉大さんの個展*5で驚異的な演奏を聴かせてくれた、藤倉さんの「neo」の成立について聞かせてください。

2014年に委嘱して作曲していただいたのですが、初演したのは2年後でした。正直、当時の僕には難しすぎて弾けなかったのです。そのうえ、僕の中では藤倉大という作曲家は難解な現代曲を書くイメージだったのですが、出来上がった曲は「ヘイ、ロックだぜ」(笑)というノリの曲で、戸惑ったこともありました。でも2年間練習したら、自分の中で解決できてものすごく良い曲だと思えるようになりました――もちろん既に良い曲だったわけですけれど。純粋無垢に三味線を捉え、楽器の一番の魅力を引き出してくれる曲と言えるでしょう。今や全世界の三味線の曲の指針になっている名作です!

*5 英国を拠点に活動する日本の現代音楽作曲家。Avexシリーズの一環で、2018年にウィグモア・ホールで音楽の個展(リサイタル)を開催

そんな中、2016年には米ニューヨークに滞在されたそうですね。

はい。アジアン・カルチュラル・カウンシルという、ACC(旧ロックフェラー)財団のフェローシップで半年間滞在しました。かつて作曲家の武満徹さんや一柳慧(いちやなぎとし)さん、画家の横尾忠則さんらもこの制度で留学していました。半年間、グランド・セントラル駅の近くのアパートで過ごし、いろいろと見聞きしてインプットする日々でした。ニューヨークでは他ジャンルとのコラボにも目覚め、レディー・ガガのファッションを手がけるフィリピン人アーティスト、ジャン・リーロイ・ニュー氏とのコラボなども刺激的でした。帰ってからもダンスの平山素子さんとのコラボレーションなどを行っています。

さらに昨年は文化庁文化交流使として世界各地で演奏されました。

はい。6カ月の間に米国、ロシア、チェコ、ドイツ、英国、フランス、イタリア、トルコと回りました。ロシアではシベリアのクラスノヤルスクという地で作曲家の杉山洋一さんの三味線協奏曲を初演したり、トルコではアンカラで伝統楽器の人間国宝級の演奏家とコラボレーションしたり。さらにこれらの国々の作曲家に新作を委嘱し、去年だけで21曲もの新曲を初演しました。 どの国でも観光する暇もなく、ホテルで練習してリハーサルに行ってコンサートをしての繰り返しでしたが、大変充実した半年でした。

ウィグモア・ホールでの
ソロ・リサイタル

7月のロンドンでのリサイタル曲をご紹介ください。全て三味線のソロ曲ですね。

はい。まずキプロス出身のマリウス・ヨアンノー・エリア氏が僕のために書いてくれた「RED」という短い曲を弾きながら登場しようと考えています。続いて、浦田健次郎氏の「碧譚(へきたん)第2番」を演奏します。碧譚というのは中国の言葉で、夜の湖に月の光が入って水の奥まで浸透するという意味で、大変美しい、日本的な作品です。

次に太棹の楽器で、高橋悠治氏の「ハムレット生死(しょうじ)」という弾き語りの曲を演奏します。これは義太夫三味線演奏家の田中悠美子さんのために書かれた曲で、いきなり「To be or not to be」というセリフで始まります。歌もあって芝居風の作品なので役者になったつもりで演じないとなりません。

次の曲を作曲したヴィジェイ・アイヤー氏は、ニューヨーク在住のインド系天才作曲家&ジャズ・ピアニストです。「Jiva」は昨年ニューヨークで初演した曲で、シンプルながらインド音楽のリズムの難しさとうまくマッチングした良い曲です。

今回は坂本龍一さんの新作を世界初演されるそうですが、坂本さんとの出会いを教えてください。

坂本さんと親しい藤倉さんが紹介してくださいました。昨年僕がニューヨークのジャパン・ソサエティで演奏した時に聴きに来てくださって、その後でご自宅にお招きいただきました。その時に三味線を弾いてみてほしいと言われ、スタジオで弾きました。その後、もう1度呼んでくださり伺ったら、なんと僕のために曲ができているのです!それを弾いてみて、レッスンもしてくださって、それがレコーディングされ、坂本さんのアルバム「async」の12曲目に収録されている「honj」になったのです。そうしたご縁で、今回のリサイタルのために新曲をお願いしたら、快く引き受けてくださいました。曲が出来上がってくるのが楽しみです。

すばらしい演奏を期待しています。ありがとうございました。

本條さんに聞く!
三味線の特徴とその魅力

三味線

三味線は何種類くらいあるのですか

大きく分けて、太棹(ふとざお)、中棹(ちゅうざお)、細棹(ほそざお)の三味線がありますが、ジャンルや流派によってさらに細やかな部分で変わってゆきます。ジャンルは義太夫の三味線(太棹)、長唄三味線(細棹)、地唄三味線(中棹)、それから津軽三味線など挙げきれないほど多岐の分野に分かれます。僕が現代音楽で使っている三味線は分類としては中棹になります。

ヴァイオリンのように古い楽器の方が良いということはあるのでしょうか

いえ、三味線は消耗品でもあるので、極端に古い楽器はあまり使用しません。江戸時代と今では、楽器の素材も違います。江戸時代の楽器で残っているものもありますが、今使おうと思っても難しいかも知れません。僕は本番用の三味線を2挺持っていますが、三味線はときどき皮が破れ、その張り替えに はやくて2週間ほど必要なので、常に2挺用意しています。また、ずっと弾いているとカンベリと言って棹も減っていくので、1挺を使い続けたら長くもちません。

三味線の糸は頻繁に張り替えるものですか

絹糸なので、すぐに切れてしまいます。多い時は1日に何回も替えることもあります。1本数十円から数百円ぐらいなので高いものではありませんが。糸の太さは違っていて、太いほうから一の糸、二の糸、三の糸と呼びます。

三味線というのは面白くて、舞台に出る直前に糸を張り替えるような楽器です。新しい方が良い音がしますが、その反面調弦は安定しません。でもそれを覚悟で音色の方を優先するが三味線です。よく舞台上で三味線の弦をいじっているところを見たことがあると思いますが、あれは演奏しながら音を調整しているのです。

三味線の魅力とは

三味線というのは縦横無尽かつ臨機応変で、とても柔軟な楽器です。コンパクトですが、ときには打楽器のような音も出せるし、サワリを使えばノイジーな共鳴音も出る、いろいろな効果音を作れる演出力のある楽器なのです。芝居の中でよく使われるのも納得できます。

ロンドン公演

HONJOH Hidejiro Shamisen Recital
Avex Recital Series 2019

2019年7月6日(土)13:00開演
チケット:£18(学生 £12)
本條秀慈郎(三味線)

プログラム

マリウス・ヨアンノー・エリア: RED
浦田健次郎: 碧譚第2番
高橋悠治: ハムレット生死
ヴィジェイ・アイヤー: Jiva
坂本龍一: 新作
藤倉大: neo

会場: Wigmore Hall
36 Wigmore Street W1U 2BP
最寄駅: Bond Street

チケットお問い合わせ先
Tel: 020 7935 2141 
https://wigmore-hall.org.uk

コンサートに関する問い合わせ先
エイベックス・リサイタル・シリーズ
www.avexrecitalseries.com

※止むを得ない事情により曲目・曲順などが変更になる場合があります

 

大英博物館「マンガ展」キュレーター、ニコル・クーリッジ・ルマニエールさん

大英博物館「マンガ展」 キュレーター
ニコル・クーリッジ・ルマニエールさん セインズベリー日本藝術研究所 研究担当所長

大英博物館「マンガ展」のキュレーターを務めるニコルさんは大のマンガ好き。ニコルさんが愛をもって語るマンガの秘められた可能性について、お話を伺った。

ニコル・クーリッジ・ルマニエールさん

Nicole Coolidge Rousmaniere 1998年米ハーバード大学博士課程修了後、99年に英セインズベリー日本藝術研究所を設立し、初代所長に就任。イースト・アングリア大学日本美術文化教授として教鞭をとった後、2006年から3年間、東京大学人文社会科文化資源学の客員教授を務める。09年から大英博物館アジア部日本セクションにIFACハンダ日本美術キュレーターとして出向中。

マンガは私のビタミン剤!

なぜ大英博物館でマンガ展なのでしょう。

2019~20年は、ラグビーのワールド・カップ(W杯)や東京オリンピック・パラリンピックが日本で開催され、日本に注目が集まる「ジャパン・モーメンツ」が来ると思います。密な交流となる記念すべき年のスタートとして、マンガ展という大きなイベントをやりたかったのです。マンガはサブカルチャーと呼べるかもしれませんが、一方で日本で数100年前から始まったビジュアル表現の歴史的な流れを汲んでいるとも言えますよね。マンガの扱い方に諸説あるということは、マンガはある意味、考古学的なテーマだと定義することができます。世界でもトップの文明と歴史を誇る大英博物館ですので、今回は特定のマンガ家や作品に焦点を合わせるのではなく、マンガというものを一つに捉え、文明の中の一形態として紹介するつもりです。

なるほど、ではニコルさんはこの歴史の始まりはいつ頃だと考えていますか。

人によって解釈が違いますが、私は岡本太郎の父、岡本一平(1886~1948年)や北沢楽天(1876~1955年)*1など明治中期に活躍した漫画家が、今日のマンガの原点だと考えています。ヴィジュアル・カルチャーから、ストーリーテリングが確立したのが明治時代ですね。大英博物館は、この時代の日本の新聞を既に19世紀後半から率先して収集してきました*2。ですからここでの開催は突拍子もないアイデアではなく、むしろ起こるべくして起こった、と言えるのではないでしょうか。

*1 横浜外国人居留地の英字週刊誌「ボックス・オブ・キュリオス」社で働いた漫画家 
*2 現在は大英図書館で保存

展示にあたり苦労したことは何ですか。

好きなマンガ家がたくさんいるので、どの方に声を掛けるか困ってしまいました。本当はもっと多くのマンガ家を紹介したかったのですが、マンガは続きものですから1人のマンガ家に対して1枚の原画を展示、というわけにはいきませんよね。1人でも多くの人を紹介したい、ということで漏れてしまった方は展示の本棚に入れ込んでみたり(笑)。ただ偏ったチョイスにならないよう、少女・少年マンガなどのジャンル、マンガ家の性別や年齢などの比率は気をつけました。今回の展覧会は大英博物館で開催されるものの、日本のマンガ研究家やマンガ評論家の伊藤剛さんなど、さまざまな方から展示についてのアドバイスをいただきましたので、日本との共同展示、と言えますね。

日本のマンガと比べた、英国のマンガの特徴はどんな点でしょう。

レイモンド・ブリッグズ*3の「風が吹くとき」は格好良い作品だと思いますが、コマ割りが一定で、イラストより言葉の方が重要ですね。そもそもブリッグズはイラストレーターでマンガ家とも違うので比べるのは難しいところですが。最近ではグラフィック・ノベル*4が勢いがあると思います。英国のグラフィック・ノベルがもっと和訳されて、いつか日本で展覧会ができたらいいなと思っています。

*3 英国のイラストレーター兼作家。代表作は「スノーマン」「さむがりやのサンタ」
*4 長編のコミックス

好きな日本のマンガを教えてください。

大学院生の頃からマンガはほぼ毎日読んでいますが、中村光先生の 「聖☆おにいさん」が大好きです! ブッダとイエスが同じ部屋に住むあの世界観、いいですよね。一見くだらなく思えるシーンも、実は宗教によって異なるものの見方がすんなりと理解できるようになっていたり。また舞台が日本なので、日本の習慣も同時に理解できるため、英訳されればいいなと思っていたのですが、ついに電子版が4月、書籍は9月に出ることになりました。そして電子版のあとがきは私が書きました。ファンなのでとてもうれしかったです!私は工芸の専門家ですが、マンガを展示したいし、人とシェアしたいし理解を深めたいと思っています。マンガは私にとって読むビタミン剤です。

マンガはこれからも英国の読者に影響を与えていくでしょうか。

絶対そうだと思います。マンガは将来の「ヴィジュアル・ストーリーテリング・ランゲージ」として、将来の美的な言語になると思いますね。既にインスタグラムに代表されるように、イメージだけでものを理解できる時代になっています。マンガはそれに代わり得る媒体だと思うし、だからこそ外国人がマンガに理解がないのは危ないことだと思いました。ゲームなど二次的なコンテンツが発展する前に、原点であるマンガを正しく読み解くことが大事だと思います。

海月姫(くらげひめ) 「東京タラレバ娘」など数々のヒット作を生み出す東村アキコ作、オタク女子たちと女装男子が繰り広げるラブ・コメディー「海月姫(くらげひめ)」。ニコルさんは「東村アキコはストーリーテリングの天才!」と評している

日本人では気が付かない、
ちょっと気になるマンガの話

効果音のありがたさ

マンガのコマをさらに盛り上げる効果バック(背景の表現)は、日本語が分からなくてもなんとなく理解はできる。しかし「どーん」「ドドドドド」と言った文字で書かれた効果音の場合、日本人は無意識に経験と照らし合わせその音を頭で反芻することができるが、日本語が分からない人には少々難しい部分である。ニコルさんは、擬音語や擬態語が、背景から出てイラストの上に載ってきたりとユニークな形態をとることもマンガをおもしろくする大事な要素だと語る。ちなみに本展は「マンガ展」と片仮名が採用されているが、ニコルさんは「漢字だと北斎漫画のイメージが強く、平仮名は少女のような幼いイメージがした」ことに加え、「片仮名はもっと国際的な感じがする」という理由から片仮名に決めたという。

マンガで知る多種多様な世界

ニコルさんはインタビューの通り、ブッダとイエスが同じ部屋で暮らす「聖☆おにいさん」の、「宗教の違いが分かり、かつ不快感を持つことなく読後も平和な気持ちでいられる世界観」が好きだそう。このように宗教や性など扱いにくいテーマを描いた作品は、近年特に増えてきた。本展で展示予定の田亀源五郎作「弟の夫」は、父と娘の2人暮らしの家で、既に亡くなった父の弟の旦那と共同生活を営む話。男性同士の結婚について子供にどう教えるか、ストレートの弥一が、ゲイであるカナダ人のマイクと生活する上で抱える悩みなど、ソフト面が大変丁寧に描かれている作品だ。一見難しいと思えるトピックも、マンガという形式を取るだけで理解度が大きく変わる。

展覧会情報

The Citi exhibition Manga マンガ

5月23日(木)~ 8月26日(月)
10:00-17:30(金は20:30まで)
£19.50

The British Museum
Sainsbury Exhibitions Gallery (Room 30),
Great Russel Street, London WC1B 3DG
Tel: 020 7323 8181
Tottenham Court Road / Holborn駅
www.britishmuseum.org

 

大英博物館「マンガ展」The Citi exhibition Manga 大英博物館がマンガの可能性を切り拓く

大英博物館がマンガの可能性を切り拓くThe Citi exhibition Manga 大英博物館「マンガ展」 2019年5月23日(木)~8月26日(月)

ページをめくるごとに未知の世界へ冒険でき、また恋愛のほろ苦さを教えてくれたり、読み手に夢と希望を与えてくれる「マンガ」。日本人にとって身近な存在であるマンガは学術的なテーマとは一線を画すると思われてきたが、5月23日、大英博物館でマンガをテーマにした展覧会が始まる。ヴィジュアル面の強いコンテンツを、なぜ美術館ではなく博物館で開催するのか、そこには確固たる理由があった。セインズベリー日本藝術研究所の研究担当所長を務めながらマンガをほぼ毎日愛読しているという、本展キュレーターのニコルさんのインタビューも併せて読んでいただきたい。 (取材・文:英国ニュースダイジェスト編集部)

星野之宣作「宗像教授異考録」星野之宣作「宗像教授異考録」シリーズの「大英博物館の大冒険」は、古参のファンからの評価も高い

日本のマンガは
未来のヴィジュアル言語だ!

大英博物館はマンガの世界でも名所だった?

人類の歴史を凝縮したといっても過言ではない、膨大なコレクションを収蔵する大英博物館。「考古学」や「発掘」といった研究色の強いワードと結びつく同館は、現在も研究者が新たな発見にいそしみ、同時にそれらを展覧会という形で分かりやすく公開している。世界に名だたるこの知の殿堂は、これまでに数々のマンガ作品の舞台として登場してきた。

1940年代、米国のコミック「ザ・スカラベ」で、考古学者のピーター・ワードがリサーチのためエジプト関連の展示室にあるパピルスの巻物を調べるシーンは、同館が「知的探求の場」という観点から作品の舞台として取り上げられた初期の例の一つ。その後もエジプト文明の展示室はアメコミ界で頻繁に登場することになる。

2010年の日本の作品「大英博物館の大冒険」でも大英博物館は取り上げられている。本作は星野之宣作の伝奇ミステリー「宗像教授異考録」シリーズ内のエピソードである。主人公の宗像伝奇(むなかたただくす)教授が、同館の収蔵品を狙う敵とめまぐるしくバトルを繰り広げる様子は、緻密なイラストと知的好奇心を刺激する展開で好評を博した。本作は同館で初となる英訳版のマンガ「Professor Munakata's British Museum Adventure」(British Museum Press)として出版された。

日本のマンガ文化を加速させた風刺とディズニー

日本のマンガの起こりは諸説あるものの、一般的には12世紀ごろに作られた「鳥獣人物戯画」に始まり、その後江戸時代に流行した軽妙なタッチの戯画「鳥羽絵」、洒落や風刺を織り交ぜた草双紙の一つ「黄表紙」などが市井の人々の間で手に取られた、という説が有名である。江戸時代にこういった戯画や書物が一般に広まったのは、当時の識字率の高さも大きく関係しており、日本のマンガ文化は文明とともに発展していったと言える。このようにある程度大枠が確立していたところに新たな風を吹き込んだのは、鎖国の終了によって入ってきた外国文化だ。

1861年、日本の文明開化に貢献した英国出身のチャールズ・ワーグマン(1832~91年)が世界初のイラストレーション入り英国新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の海外特派員として来日。報道写真がなかったこの時代、異文化のニュースを理解するのに挿絵は大変効果的であり、同紙で記事と挿絵を提供する報道画家として働いていたワーグマンは、通常の業務をこなしつつ1862年に日本初の風刺漫画雑誌「ジャパン・パンチ」を横浜で創刊した(1887年廃刊)。

また、ワーグマンと個人的に知り合いだった可能性の高い絵師の河鍋暁斎(かわなべきょうさい・1831~89年)は、「ジャパン・パンチ」に似せて「絵新聞日本地」を刊行したことでも知られる人物で、暁斎がかつて東京にあった歌舞伎座劇場、新富座のために作成した長さ17メートル、横4メートルの引幕「新富座妖怪引幕」(下図)は、当時の人気役者をモデルにした妖怪や幽霊が、幻想世界から現実へ飛び出してくるように描かれており、どことなく現代のSF作品の世界観を思わせる。暁斎を始め、「ポンチ絵」と呼ばれた風刺画を近代マンガとして確立した北沢楽天(1876~1955年)など、西洋から影響を受けた画家が続々と現れ、その時代はその後もしばらく続く。

川鍋

*横にスクロールしてご覧ください
大迫力の河鍋暁斎画「新富座妖怪引幕」(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵)は制作されて130年以上が経ち、国外での展示は今回が最後だと言われている

日本のマンガ史を大きく変えた第2の新しい波は米国のウォルト・ディズニーによってもたらされた。ディズニーはアニメーション(漫画映画)部門で日本の技術のはるか先を歩いており、幼少時の手塚治虫(1928~89年)に大きな衝撃を与えた。手塚がマンガを描いたのは、アニメーションを制作するための資金稼ぎだったと言われているほどで、ディズニーが持つ映像の技術力には勝てないと思った手塚は、自身がアニメーションを制作する際、見た目の格好良さよりストーリー性に重きを置いたと言われている。

世界を巻き込む一大産業へ

この50年余りでマンガ文化が大きく進化を遂げた要因として、ファンの存在をなくして語ることはできない。媒体によってその制度は異なるものの、読者アンケートなどで、読者の反応が芳しくなければ掲載が打ち切りになることもある週刊・月刊マンガ雑誌のシビアな世界において、読者=ファンはマンガ家の自尊心を満たす以上に大切な存在となった。

一方、ファンの中には、コミック・マーケットで同人誌を販売したり、好きなキャラクターの格好を真似するコスプレなど積極的な楽しみ方をする人も現れた。日本のマンガやアニメが諸外国へ輸出されるようになってから、欧米、アジア各地で同様のファン・イベントが開催されるようになったのもなんら不思議なことではなく、一般社団法人日本動画協会が発表した「アニメ産業レポート2018」(サマリー版)によると、2017年の日本アニメの海外市場規模は9948億円。いまや巨大な産業として無視できない存在となったマンガは、ある意味世界の共通語として機能しつつある。

ゴールデンカムイ大英博物館の公式ウェブサイトの顔になっている野田サトル作「ゴールデンカムイ」のヒロイン、アシㇼパ

マンガを正しく理解するための展覧会

マンガの展覧会として日本国外では最大級となる大英博物館の「The Citi exhibition Manga マンガ」は、マンガとの正しい付き合い方からその面白さ、社会との関係、そして世界に与える影響を6つのセクションを通して紹介し、初心者から既にファンの人まで存分に楽しめる構成となっている。  

まず、ゾーン1でマンガとは何か、読む上で知っておくと理解が深まる基本的なことを解説。また編集者、出版社など原案者であるマンガ家を支える縁の下の力持ちにも言及し、マンガが出版されるまでの過程を余すことなく紹介する。続いてゾーン2では、マンガのルーツから現在に至るまでの歴史を解説。日本のマンガ文化発展のきっかけとなった明治時代の新聞から手塚治虫など著名なマンガ家の作品と共にその変遷を探る。鳥山明の「ドラゴンボール」の原画は、今回が日本国外で初の展示となるので、往年のファンも必見だ。また、実際のマンガが手に取れるよう日本語版・英語版のマンガを収めた本棚を設置したり、電子版をダウンロードできるようにしたりとインタラクティブな仕掛けにも注目したい。2019年3月をもって閉店となった東京・神田のコミック専門店「コミック高岡」の内部を撮影し、スクリーン投影した貴重な映像もここで見られる。

ゾーン3では、スポーツ、冒険、恋愛、SF、BL(ボーイズラブ)などマンガのジャンルについて紹介。ゾーン4は昨年12月のコミケ取材や日本国内で流通している学習マンガ、世界コスプレ・サミットなど、社会への影響も紹介する。ゾーン5は河鍋暁斎の「新富座妖怪引幕」や人気キャラクターの原画、ゾーン6は陶磁器や彫刻など、マンガの世界を超えた3D作品を展示する。

ポーの一族萩尾望都作「ポーの一族」は少女マンガの草分け的存在として、連載から40年以上たった今も愛される名作。2018年には宝塚歌劇団花組による同名ミュージカルが上演された

展覧会情報

The Citi exhibition Manga マンガ

5月23日(木)~ 8月26日(月)
10:00-17:30(金は20:30まで)
£19.50

The British Museum
Sainsbury Exhibitions Gallery (Room 30),
Great Russel Street, London WC1B 3DG
Tel: 020 7323 8181
Tottenham Court Road / Holborn駅
www.britishmuseum.org

 

知られざる英国宝くじの歴史 - 大混乱した450年前のロッタリー

大混乱した450年前のロッタリー知られざる
英国宝くじの歴史

英国では1994年にナショナル・ロッタリー(国営宝くじ)が始まり、以来多くのミリオネアを生んできた。今でこそオンラインなどで誰もが気軽に楽しめる宝くじだが、450年前に初めて英国で抽選が行われた当時はどんな様子だったのだろうか? 1569年1月11日、ロンドンの旧セント・ポール大聖堂横で抽選が行われるまで、一筋縄ではいかない状況が待ち受けていた。それはあたかも、英国の欧州からの離脱のように……。

文:英国ニュースダイジェスト編集部
資料文献:Fate’s Bookie:How the Lottery Shaped the World by Gary Hicksなど

宝くじのチケット1814年にイングランドで行われた宝くじのチケット

海外進出のための港づくり

時は大航海時代、当時イングランドを統治していたエリザベス1世(1533年~1603年)と政府は貿易をめぐり強国スペインとの戦争を意識していた。しかしイングランド海軍の装備や港はあまりに貧弱であり、軍事費の調達が必要だった。女王の重臣ウィリアム・セシルは欧州西部のユトレヒトやアントワープといった地域で要塞の建設費に宝くじが当てられていることを知り、イングランドでもこれを採用しようと思いたった。ちなみに世界で最初の宝くじは紀元前の中国と言われているが、それは万里の長城の建設資金を作るためだったといい、また、古代ギリシャの宝くじは戦費の調達に活用されている。

1等はお金と豪華賞品!

セシルのアドバイスを受けたエリザベス1世は、1567年8月23日、「ハズレなしの超豪華な宝くじ(A very rich Lotterie generall without any Blankes)」の販売を布告。ロンドンのシティには、賞金や景品の詳細を示した縦150センチ横50センチの大きなポスター(下図)が至る所に貼られた。そのポスターによると、チケットは1枚10シリング(現在の約119ポンド=約1万8000円)と、一般市民にはなかなか手の届きにくい額ではあるものの、1等は当時にしては考えられないほど豪華な5000ポンド(現在の価値で約10万ポンド)相当の賞品で、内訳は現金で3000ポンド、銀のプレートで700ポンド、残りは良質のタペストリーと最高級のリネンだった。

また、なるべく多くの市民がチケットを購入するように、宝くじの購入者は全ての犯罪における逮捕を7日間免れることができる(ただし、殺人などの重犯罪や海賊行為、国家への反逆は除く)という特典を付けた。チケットはロンドンだけでなく、ヨーク、コヴェントリー、オックスフォード、ケンブリッジ、さらにはダブリンなど計18カ所で一斉に発売された。販売期間は翌1568年の4月15日まで(ロンドンは5月1日)と、現代の感覚からすれば随分長い。

ポスター1567年に告知された、英国初の宝くじを宣伝したポスター(部分)。「A very rich Lot terie gener all without any Blankes(ハズレのない豪華な宝くじ)」とある。並んでいる食器の絵は、当選商品を表している

全然売れない理由とは

ところが宝くじ販売の意図を知らないであろう市民たちは、自分が払う宝くじの代金がエリザベス1世の懐を潤わせるだけなのではないかと疑い、なかなか手を出さなかった。当初、港の修理費として10万ポンドを得るために、女王と政府は40万枚のチケットを販売しようと考えていた。総額約5万5000ポンドの賞金を3万枚の当選チケットに分散し、37万人の不運な人々にはチケット代の25%を還元するという計算だ。しかし、すぐにこれが楽観的な考えであることが明らかになった。ギャンブル好きの住民が多いとされるアイルランドですら500枚も売れず、エリザベス1世は「宝くじが女王の小遣いになる」というデマを広めた人間は処罰すると発表したほどだった。女王とウィリアム・セシルは徹底的な宝くじ販売キャンペーンを展開し、世界に先駆けた「ダイレクトメール」方式を使い、盛んに宝くじを宣伝した。

度重なる抽選日の延期に市民はプンプン

集客に苦労しただけでなく、当選番号の発表もまた混乱を極めた。なるべく多くのチケットを売りたい女王と政府は何度も抽選日を延期。ロンドン市長は、混乱し不満を抱く市民をなだめるために「1568年6月よりも抽選日が遅れることはない」と告知を出さなければならなかった。しかし政府はその後も延期を繰り返し、最終的にようやく抽選が始まったのは1569年1月11日。旧セント・ポール大聖堂の西口ドア横に簡易の抽選小屋が設置され、付近ではパイや果物、酒類を売る市が立ち、酔っ払いが徘徊する、カーニバルのような、騒がしくも祝祭的な雰囲気に包まれたという。米歴史家のロレーン・ダストン氏によれば、当選チケットは目隠しなどをした子供によって1枚ずつ選ばれ、ずいぶん手間と時間がかかった。そのため抽選は同年の5月6日まで毎日続いたという。それでも当選番号が発表されるたび、見物人からはヤジや歓声が上がった。

旧セント・ポール大聖堂1569年にロンドンの宝くじ販売場所となった旧セント・ポール大聖堂。西口ドア横に宝くじの抽選小屋ができ、隣接する庭には市が立った。1666年のロンドン大火以前の大聖堂は、ドームではなく尖塔だった

最高額がまさかの12分の1に

しかし、いくら延期をして宝くじの購入を市民に奨励しても、エリザベス1世と政府は元の計画だった40万ポンドのうちの12分の1の収益金しか集められず、賞金総額を9000ポンドに減らさなければならなかった。従って、このシステムの下では、最高額も当初の5000ポンドからその12分の1の416ポンドに減額。一方で、1等当選のチャンスは増加した。

宝くじの歴史を著したギャリー・ヒックス氏の「フェイツ・ブッキー(Fate’s Bookie)」によると、この時の1等当選確率は1万6000分の1だったという。ただし賞金額が減ったことで損をする当選者も現れ、宝くじのシステムが破たんしていることが明らかになった。例えば、シティでも特に力のある組合組織の一つである毛織物ギルド(The Drapers)は、54ポンド分のチケットを購入したにもかかわらず、取り立てて価値も特徴もない兜(かぶと)など、武具をいくつか引き当てただけだった。兵士でもない組合には何の役にも立たず、同ギルドは仕方なく、抽選小屋の係員に2シリング、使い道のない甲冑(かっちゅう)をホールに運び込んだ使用人に6シリングのチップを与えたという。

やっぱり女王が怪しい?

こうして英国初めての宝くじは失敗のうちに終わった。結局、女王と政府は港の整備費用を捻出するために、ロンドンの商人たちから枢密院を通していくらか借金する羽目になり、残りは今後新しく建設されるパブからライセンスと称して1軒に付き2シリング6ペンスずつ徴収することにして賄った。しかし、当時のフランス大使ド・ラ・モット・フェヌロン氏は「この宝くじで一番得をしたのはエリザベス1世であると思われる」と報告書に記している。女王が集まった多額の掛け金を自分用に下ろしてしまったのだと大使はいう。女王は与えられた財源内でやりくりするのが苦手だからと。実際のところは分からないが、多くの人々はこの中傷を信じたという。エリザベス1世はその後、このような形で資金を集めようとはしなかったので、宝くじは以後「流行遅れ」のレッテルを貼られ、しばらくひっそりと英国の歴史の中に沈むことになる。

エリザベス1世エリザベス1世。ヘンリー8世とアン・ブーリンの間に生まれ、1558年に25歳で王位に就いた。一生結婚しなかったことから「処女王」と呼ばれる。44年間の在位期間に治世を敷き、イングランドには演劇や文学が花開いた

ナショナル・ロッタリーにまつわるトリビア

ナショナル・ロッタリー

英国の国営宝くじ(ナショナル・ロッタリー)は、英国が慢性的な経済低迷からやや立ち直りつつあった1994年、ジョン・メージャー首相が率いる保守党政権下に誕生した。運営は民間会社のキャメロット社に委託されており、宝くじの収益金の一部はさまざまな団体への補助金交付といった形で社会貢献のために使われている。

収益金の内訳は?

収益金の内訳は?

これまで英国で出た最高当選額は?

1億6165万3000ポンド(約234億円)

2011年にユーロミリオンズの特賞(ジャックポット)に当選した、スコットランドのコリン・ウィアーさんと妻のクリスさんの記録は今も破られていない。当選後2人は「サンデー・タイムズ」紙が毎年発表する英国の資産家リストに名を連ね、その順位は元ビートルズのリンゴ・スターや大御所シンガーのトム・ジョーンズよりも上位になった。

当選者は賞金をどうしている?

高額当選者は車を平均4~5台購入し、親せきや友人にプレゼントすることが多い。新しい家を購入する人も多く、その65%近くが現在住んでいる家の近くを選ぶという結果が出ている他、隣家を購入しパブにするという強者も。また、ひいきのスポーツ・チームや政党などに寄付するなど、使い方はさまざまだ。ドラッグや酒類で身を滅ぼす当選者もいるそう。

実はよく出る数字がある

数字選択式の宝くじを購入する人は、誕生日や記念日など自分に関わる数字を選ぶ傾向があると言われている。しかし頻繁に当選番号として出てくる数字というのがあるようで、これまでの統計によると、ナショナル・ロッタリーが1994年に始まってから2015年までの間に最も頻繁に当選番号として出た数字は、多い順に23、38、31、25、33、11だそう。

1等の当選確率は?

ナショナル・ロッタリーで1等のジャックポットを獲得する確率は、同サイトによると4505万7474分の1(2018年12月時点)。また、現在欧州9カ国で販売されているユーロミリオンズの1等当選確率は、1億3983万8160分の1だとか。それでも宝くじは「買わないと当たらない」。希望を持つことは健康を保つのに良いと医学的にも証明されている。

 

EU離脱 ブレグジット(BREXIT)にまつわる10の疑問

EU離脱まで秒読み開始!or Not?EU離脱-BREXIT-
まつわる10の疑問

「まだ決まってないの?」、「もう聞き飽きた」。そんな声すらちらほら聞こえる「ブレグジット(英国の欧州連合からの離脱)」。2016年6月の国民投票で離脱が決まってから2年半以上が過ぎ、ここにきて離脱日(3月29日)が延長される可能性が大となってきた。ここで改めて、ブレグジットとは何か、基本事項を確認してみよう。(文: 小林恭子)

Q1そもそも 「ブレグジット
(Brexit)」とは?

「英国の欧州連合(EU)からの離脱」を指す。「英国または英国の(BritainまたはBritish)」と「退出する(Exit)」を組み合わせた造語。オックスフォード英語辞典によると、発案者は親欧州のシンクタンク「ブリティッシュ・インフルエンス」の創設者ピーター・ワイルディング氏。2012年、債務超過状態となったギリシャがユーロ圏から出る可能性が取り沙汰され、「ギリシャの退出」という意味で「グレジット(Greece+exit=Grexit)」という言葉が生まれたが、同年5月、ワイルディング氏は、英国が欧州で指導力を明確にしなければ、ギリシャのユーロ圏からの退出に続いて「ブレグジット」が発生するかもしれないとブログに書いた。その後、自分がこの言葉を使ったことをすっかり忘れていたワイルディング氏は、オックスフォード大学出版局から辞典に「ブレグジット」が加えられるという知らせをもらい、驚いたという。「人生には、時々、突拍子もないことが起きるものだね」と語っている。

ちなみに、「Exit」の英国読みはカタカナにすれば「エクスィット」。そこで「Brexit」を「ブレクスィット」と呼ぶのが英国風だが、ブレア元首相を始め「ブレグジット」と発音する人も少なくない。

Q2なぜReferendum(国民投票)を することになったのか?

国民投票結果

2013年1月、保守党と自由民主党(LDP)との連立政権を率いるデービッド・キャメロン首相(当時)が、演説で「次の総選挙で保守党が過半数の議席を獲得したら、国民投票を行う」と投票の実施を宣言した。党内の欧州懐疑派によるEUからの脱退を求める声が強まり、国民の中にも反EU感情が高まっていたことを受けての決断だった。2015年5月の総選挙では、保守党が単独で過半数の議席を獲得し、宣言通り国民投票の実施が確定した。

その結果、2016年6月23日に行われたEU残留か離脱かを問う国民投票は、離脱支持が51.9%(1741万742票)、残留支持が48.1%(1614万1241票)となり、僅差で離脱派が勝利。離脱が決定した。誰もが「残留」になると考えていたため、政治家だけではなく、多くの国民がこの結果を驚きをもって迎えた。

Q3これまで英国の首相は欧州統合にどんな対応をしてきたか?

エドワード・ヒースエドワード・ヒース首相保守党 在任1970~74年

親欧州度
100%

1973年、英国をEUの前身となる欧州共同体(EC)に参加させた。英国は当初欧州統合の動きに加わらなかったが、経済的利点を目的に1960年代に2度加盟申請。ドゴール仏大統領の反対で実現しなかったが、欧州との積極的な関係を望むヒース首相の下、ドゴール氏の退任(1969年)後、加盟が実現。

マーガレット・サッチャーマーガレット・サッチャー首相保守党 在任1979~90年

親欧州度
-100%

徹底した欧州懐疑派。1984年、ECへの拠出金が多い割りに恩恵が少ないとして、一定の払戻金が英国に支払われるようにした。ECの委員長ジャック・ドロール氏が欧州の統合深化を促したのに対し、「欧州の超国家主義者がブリュッセルで新たな支配を目指している」と演説(1988年)した。

ジョン・メージャージョン・メージャー首相保守党 在任1990~97年

親欧州度
50%

EUの創設を決めた「マーストリヒト条約」発効(1993年)時の首相。統一通貨不参加、欧州社会憲章からの適用除外を獲得した。サッチャー首相よりは親欧州だが、ECの連邦化の動きには警戒。1992年のブラック・ウェンズデー事件で欧州為替相場メカニズム(ERM)を脱退し、英国は変動相場制に移行。

ブレア・ブラウンブレア・ブラウン政権労働党 在任ブレア1997~2007年、ブラウン2007~10年

親欧州度
50%

1980年代前半まで、欧州懐疑派の労働党だが、ニール・キノック氏が党首となった頃(1983年)から親欧州路線に。トニー・ブレア首相は欧州社会憲章への参加、欧州安全保障・防衛政策(ESDP)の樹立を認め、ユーロ参加も視野に入れた。しかし、ゴードン・ブラウン財務相の反対で実現しなかった。

デービッド・キャメロンデービッド・キャメロン首相保守党 在任2010~2016年

親欧州度
20%

EU残留か離脱かを問う国民投票を実施させた。2010年以降、ユーロ危機が拡大し、ユーロを導入していない英国も欧州の財政支援を求められるようになった。このため反EU感情が募る中、EUを改革し英国の要求を通した上で国民投票実施し、残留が選択される構図を描いた。

テリーザ・メイテリーザ・メイ首相保守党 在任2016年から現在

親欧州度
?%

元残留派だが離脱強硬派の姿勢を維持する。「ブレグジットはブレグジットを意味する」が当初の口癖で、何としても離脱をやり遂げると確約。また、「EUの関税同盟からも、単一市場からも出る」、「悪い離脱条件であれば、EUとの合意がないままでも離脱する」と離脱強硬派であることを宣言した。

Q4離脱すると
どうなるのか?

「人、モノ、サービス、資本」の自由な移動を基本とする統合体としてのEUから離脱することで、「自由な移動」が停止する。例えば、EU域内の市民の英国での就労に制限がかかり、逆に英市民にはEU域内での就労が制限される。医療サービス、飲食業界などに多大な影響が出るかもしれない。また、これまで域内の国同士でのモノやサービスの移動、つまり貿易にはこれまで関税がかからなかったが、離脱で関税が発生する。英国はEUの加盟国として71カ国と40の特恵貿易協定(Preferential Trading Agreements)を結んでいるが、離脱によってこれが消えるので同様の協定を新たに結ぶ必要もある。さらに、EUの規則や法制度から抜け出ることになるが、離脱でビジネス及び生活面で支障がないよう国内で新たに規制、法律を整えなくてはならない。

Q5Article 50(リスボン条約の第50条)とは?

EU基本条約(リスボン条約、2007年締結)の第50条を指し、離脱の手続きを規定するもの。離脱を行う国がEU加盟国の代表らで構成される欧州理事会(首脳会議)に離脱の意思を通知することで、50条の発動となる。メイ首相が50条を発動したのは2017年3月29日。2年間で将来の英国とEU側との関係の枠組みを交渉し、合意を得ることを目指す。移行期間は全EU加盟国が同意すれば、延長もあり得る。2017年6月から、第1段階として英国に住むEU市民、EUに住む英市民の権利保障、英国がEUに払う清算金、北アイルランドの国境問題について協議が始まった。2018年11月、英国とEU側が離脱協定案(Withdrawal Agreement)に合意。議会での承認を経て、交渉の第2段階は通商関係が中心となる。

Q6Withdrawal Agreement(離脱協定案)とは?

2018年11月、英政府とEU側が合意した、離脱の条件を決める協定案を指す。文書は600ページ近くにまで達しており、これとは別に26ページにわたる、将来の英国とEUの長期的な関係を定める「政治宣言」も作成された。

離脱協定案の要旨

2020年12月31日まで、ほぼこれまで通りの状態が続く「移行期間」を定めた。英国はEU加盟国のとしての地位を失うが、期間中はEUの規則に従う必要がある。2020年から1年か2年の延長も可能だ。延長には英国と全EU加盟国の合意が必要で、2020年7月までに申請することが必要。

英国はEUに対し、「清算金の支払い」を求められており、その額は390億ポンド相当(約5兆7200億円)と言われている。数年間で払うことも可能。移行期間中の費用も含み、もし移行期間が延長された場合は追加金を払う。ちなみに現行では英国のEUへの支払いは実質で年間108億ポンド。

英国内のEU市民、およびEU域内の英市民は離脱後もこれまで通りの居住権と社会保険へのアクセスが保障される。同じEU加盟国に5年以上住む市民は永住権の申請ができる。ちなみに、政府は英国に住むEU市民でアイルランドの国籍を持つか永住資格を持っていない人は新たな在留資格の取得を申請する仕組みを整えている。

英領北アイルランドとアイルランド共和国の国境には「バックストップ(安全策)」が設定される。

Q7Backstop(安全策)
とは?

「バックストップ」(安全策あるいは緊急対策)は、離脱によって英領北アイルランドとEU加盟国であるアイルランドとの国境に問題が生じることを防ぐ方策を指す。離脱後、通常であれば物理的な国境検査(「ハード・ボーダー」)が必要となる。しかし、北アイルランドではアイルランドとの帰属を志向するカトリック住民と英国の一部であることを望むプロテスタント住民の間で私兵民兵組織を介してのテロ行為を含む暴力事件が発生し、3000人以上が命を落とした歴史(「北アイルランド紛争」)がある。国境検査所は、しばしば暴力行為の発火点となった。1998年の「ベルファスト合意」によって和平が成立し、現在、北アイルランドとアイルランドとの間にハード・ボーダーはない。

もしハード・ボーダーが再開すれば治安に悪影響を及ぼす恐れがある一方で、ハード・ボーダーがなければEU域内でのみ実現する人、モノ、サービスなどの自由な往来が離脱国英国でも可能になってしまう。

将来的に離脱した英国とEUがどのような通商関係を持つかは、今後の話し合いによるため、もし移行期間が終わる2020年末までに長期的な通商関係について両者が合意していない場合でもハード・ボーダーができないように、バックストップを設定した。

この案では、EUと英国の間には一種の関税同盟が締結される。北アイルランドについては単一市場のルールも部分的に適用されることになるが、バックストップを解消するためには、英国とEUの両方の合意が必要となる。離脱強硬派はそれが原因で「永遠にEUの規則から逃れられない」ことを危惧し大反対した。

北アイルランドとアイルランドの国境付近北アイルランドとアイルランドの国境付近

Q8合意なき離脱(No Deal)
とは?

離脱後の英国とEUの関係をどうするかを決める離脱協定に合意がなされず、3月29日の離脱予定日に英国の離脱が実現する状態を指す。離脱条件を決めずに離脱するので、2年間の移行期間は設けられず、「崖から飛び落ちるような離脱」になるとも言われている。北アイルランドとアイルランドの間には、ハード・ボーダーが復活する可能性が出てくる。また、英国は世界貿易機関(WTO)を通じてEUや他の国との通商関係を決めていく一方で、自由貿易を行う国を探すことになる。

3月13日、「いかなる状況でも合意がない離脱はしない」とする動議が下院で可決された。採決には法的拘束力がないものの、「合意なしの離脱」も離脱交渉の手段として重視する与党・保守党内の離脱強硬派への圧力となった。翌14日には、下院は離脱交渉の延長を申請する動議を可決した。

Q9なぜそんなに議会で
もめているのか?

2019年1月15日、メイ首相がEUと合意した離脱協定案が大差で否決され、議会は迷走状態に入った。代案が決まらず膠着状態となっている最大の理由は、意見を異にするグループが混在し、互いに譲らないからだ。まず、下院議員全体では残留派が大部分を占める。内閣は「ハード・ブレグジット(EUの関税同盟からも単一市場からも離脱)」を前面に出す離脱強硬派と「ソフト・ブレグジット(なるべく現状に近い離脱)」を望む穏健派とに分裂している。保守党内には、平議員ジェイコブ・リースモグ氏が指導者となる離脱強硬派の「欧州リサーチ・グループ(ERG)」があり、親欧州的な離脱案にならないよう、メイ首相に圧力をかける。一方の最大野党労働党は「離脱を実行する」というマニフェストで2017年の総選挙を戦ったものの、議員らは本音では国民の生活に負の影響が出ると予測される離脱に反対だ。コービン党首は姿勢を明確にせず、再度の国民投票を支持すると議会で述べたのは2月末だった。2月には、労働党議員8人と保守党議員3人による、中道政治勢力「独立グループ(TIG)」が発足した。メンバーは全員が残留派で、再度の国民投票の実施を望んでいる。

EU離脱における2大政党勢力図

Q10メイ首相の案と
他のグループの争点とは?

  3月29日、予定通りに離脱 バックストップ案 清算金の 支払い 合意なき離脱の可能性 再度の国民投票
メイ首相案
1月15日否決、
3月12日修正案否決
支持 賛成 賛成 あり 反対
欧州リサーチ・グループ
(ERG)
支持 反対 反対 あり 絶対反対
労働党 反対・
延長支持
メイ案に反対 メイ案に反対 なし 賛成
スコットランド独立党
(SNP)
反対・
延長支持
メイ案に反対 メイ案に反対 なし 賛成
独立グループ
(TIG)
反対・
延長支持
メイ案に反対 メイ案に反対 なし 賛成
民主統一党
(DUP)
支持 この設定そのものに反対 メイ案に反対 なし 反対

参考:www.bbc.co.uk(2019年3月19日時点)

第二次世界大戦後の欧州統合の歩み

1950 ロベール・シューマン仏外相がドイツとフランスの石炭・鋼鉄産業の共同管理を提唱(「シューマン宣言」)
1952 ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダによる、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)成立
1958 欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(EURATOM)設立(ローマ条約)
1967 ECSC、EEC、EURATOMの主要機関を統合。
3共同体の総称が欧州共同体(ECs)に
1968 関税同盟完成
1973 英国がアイルランド、デンマークとともに加盟
1981 ギリシャ加盟
1986 スペイン、ポルトガル加盟
1993 単一市場始動。マーストリヒト条約発効によりEU創設
1995 オーストリア、フィンランド、スウェーデン加盟
1999 統一通貨「ユーロ」導入(流通開始は2002年)
2004 チェコ、エストニア、キプロス、ラトビア、リトアニア、ハンガリー、マルタ、ポーランド、スロベニア、スロバキア加盟
2007 ブルガリア、ルーマニア加盟
2009 リスボン条約(EU基本条約)発効
2013 クロアチア加盟
2016 英国がEUからの離脱を国民投票で決定

2019年、今後の予定

3月21~22日 EU首脳会議
3月29日 英国がEUから離脱(予定)

現在のEU加盟国

イギリス
オーストリア
ベルギー
ブルガリア
クロアチア
キプロス
チェコ
デンマーク
エストニア
フィンランド
フランス
ドイツ
ギリシャ
ハンガリー
アイルランド
イタリア
ラトビア
リトアニア
ルクセンブルク
マルタ
オランダ
ポーランド
ポルトガル
ルーマニア
スロバキア
スロベニア
スペイン
スウェーデン

現在のEU加盟国

英国で「反EU感情」が高まった深い理由とは……

独立独歩の精神にあふれる国民性

地政学的には「欧州」のくくりに入る英国だが、国内では「欧州に行く」という表現があるように、英国人にとって「欧州」とは「欧州大陸」、つまり「外国」という感覚がある。何世紀も前から欧州大陸にある国々との戦争を経験した過去を持つ英国。かつての大英帝国の歴史を自負し、独立独歩の精神にあふれる国民性から、第二次世界大戦後の欧州大陸で起きた統合の動きを、常に一歩離れた場所から見てきた。経済的利点を目的に、1973年にはようやくEUの前身となる欧州共同体(EC)に加盟したものの、その後もEUの統一通貨ユーロは導入せず、国境検査を通さないシェンゲン協定にも不参加だ。

押し寄せた移民と世界金融危機

2004年、旧東欧諸国を中心とした10カ国がEUに新規加盟したことで、ポーランドやチェコなどからの移民が増えた。新移民たちが教育、医療、雇用に圧迫感を与えていく中、2007年に世界金融危機が発生。2011年、ユーロ圏国家の危機を防ぐために英国も財政支援を求められた。もともと不満を抱えていたところにこうした動きが加わり、保守党内の右派「欧州懐疑派」や英国のEUからの脱退を求める英国独立党(UKIP)の運動活性化に火を付けた。UKIPが従来の保守党支持者を奪うことに危機感を抱いたキャメロン首相は国民投票という形で「ガス抜き」を試みたものの、大きな代償を払うことになった。

タブロイド紙が報じた英国の「離脱劇場」

その時々のニュースのトピックを、大げさにかつユーモアを交えて伝えるのが英国の新聞の特徴だ。特にタブロイド紙は「そこまで言わなくても……」と思うようなきつい表現も使うが、これは「権力者を徹底的に批判する・ちゃかす」反骨精神の表れとも言えそうだ。2016年の国民投票と翌17年の総選挙、そして今年になって行われた離脱案をめぐる動議の際の、各紙の見出しを拾ってみた。

「ADIEU」EUよ、さようなら

英国の新聞国民投票の結果判明後、各紙の1面はそれぞれ大きく異なる論調を掲載したが、「サン」紙は「EUよ、さようなら(Adieu)」を意味する見出しでEUを青くした。青はEUの色である(2016年6月)

「COR-BIN」コービンをゴミ箱に入れよう

The Sun「総選挙は保守党に投票しよう」と、コービン労働党党首をゴミ箱に入れた、「サン紙」の1面(2017年6月8日付)

「Dismay」困惑

Daily Expressメイ首相の離脱協定案が大差で否決された翌日、「Dismay(困惑)」の見出しが「デーリー・エクスプレス」紙に躍った。メイ(May)首相の名前の語呂合わせである(2019年1月16日付)

「BREXTINCT」ブレクスティンクト

The Sunメイ首相を絶滅した ドードー鳥に見立てた「サン」紙。「ブレグジット(Brexit)」と「絶滅した(extinct)」を組み合わせた造語が見出しだ(2019年1月16日付)

*この特集記事は3月19日現在の情報を基に作成されています。最新の離脱関連ニュースは、弊社サイト内の「英国のEU離脱をめぐるニュースまとめ」をご覧ください。
http://www.news-digest.co.uk/news/features/uk-brexit.html

 

倭–YAMATO 小川正晃

欧州ツアー真っ只中、肉体一つで生み出す和太鼓の波動 小川正晃倭–YAMATO代表

小川正晃

過去25年間で3800回を超える公演を行ってきた和太鼓パフォーマー集団、倭 – YAMATO。和太鼓の音に、魅せる、聴かせるという徹底した演出を施し、世界で通用する舞台芸術へと昇華させた代表の小川さんに、今回の英国公演についてお話を伺ってみた。

倭 – YAMATO プロフィール1993年、奈良県明日香村を拠点に小川正晃氏が創設。現在20名のメンバーは共同生活でチームワークを高め、演奏だけでなく演出から衣装までその全てを独自に考案する。和太鼓のパワフルな世界観を「肉体の音楽」と称し、年間の半分以上を海外公演に費やしている。http://www.yamato.jp

英国で公演ツアー中ですね。今回のツアーのテーマや見どころを、教えてください。

今回は新プログラム「情熱 – Passion」の公演ツアーとなります。今年2月から2年かけて世界各地で300~400公演を予定しています。ツアーはイタリアのミラノを皮切りに欧州を回り、現在英国全土で17公演を行なっているところです。人々の身体の中にある「情熱の炎」を、和太鼓の爆音と倭メンバーの鍛え上げた肉体を使って舞台上で表現します。現在のツアー・メンバーの平均年齢は22歳。日本の伝統を背負い、新しい未来を創る今を生きる若者たちの情熱を感じていただければと思っています。

これまで54カ国で演奏されていらっしゃいますが、国によって派手な演出にするなど、変化を付けるのでしょうか。

倭の舞台は世界中どこへ行っても変わりません。日本の伝統楽器を用いてこれまで聴くことのなかった新しい和太鼓の音楽、人を元気にするパフォーマンスを創造することが私たちの目標です。国によってリアクションに違いはありますが、皆さん楽しんでくださり、その笑顔や拍手にエネルギーを乗せて僕たちに届けてくれます。皆さんが私たちのエネルギーをどのように受け止めてくれるか、またどのように返してもらえるかを想像する、それが醍醐味です。

英国では「ストンプ」などの打楽器のショーが人気ですが、英国の観客のノリはどうですか。

倭が全英ツアーを開始して15年が経ちますが、毎回どの都市に行っても熱狂的な拍手、歓声をいただけることを大変うれしく思っています。舞台を楽しんでくれることと同時に、パフォーマーを良い気分にさせてくれる英国の観客の皆さんはマジで最高です。

倭 -YAMATO

オランダには倭による和太鼓の学校がありますが、この学校ができた経緯を教えていただけますか。

欧州で活動を始めてもう20年近くになりますが、学校ができるまでは、公演を観ていただいて終わり、でした。聴くのも楽しいですが、和太鼓は自分で打ち鳴らす方がもっと楽しい。オランダに和太鼓を置けるようになったこともあって、是非とも和太鼓に挑戦してほしいと思い教室を始めました。今ではオランダ各地で教室を開催し、200名以上のメンバーが和太鼓演奏で汗をかいています!

英国の倭ファンに向けてメッセージをお願いいたします。

2年ごとに英国に帰って来られることをメンバー一同本当に感謝しています。私たちの情熱と、皆さんの情熱で燃え上がりましょう。どうか倭に会いにきてください。皆さんにお会いできることを楽しみにしています!

Yamato Passion

2019年3月12日(火)~31日(日)19:30
£15〜38
*土・日は14:30もあり、詳細はウェブサイトを参照

Peacock Theatre
Portugal Street, London WC2A 2HT
Tel: 020 7863 8222 
Holborn / Temple駅
http://peacocktheatre.com

 

演出家 藤田俊太郎 - 英国と日本でミュージカル「VIOLET」を演出

梅田芸術劇場 x チャリングクロス劇場 日英共同プロジェクト 英国と日本でミュージカル「VIOLET」を演出 藤田俊太郎

藤田俊太郎

一人の演出家に一つの作品、そして二通りのキャスト。ロンドンのチャリングクロス劇場で上演中のミュージカル「VIOLET」は、実にユニークなアイデアから生み出された。日本人演出家を起用し、ロンドンでは英国キャスト、日本では日本キャストを配して同じ作品を上演するこのプロジェクトで演出を務めるのは、日本ミュージカル界の新鋭、藤田俊太郎さん。ロンドンで英国キャストとともに稽古に励む藤田さんに話を聞いた。(インタビュー・文: 村上祥子)

SHUNTARO FUJITA 1980年生まれ、秋田県出身。2005年、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科卒業。2004年にニナガワ・スタジオ入所。俳優活動を経て、2016年まで蜷川幸雄作品の演出助手を務める。「The Beautiful Game 」(2014年)や「ジャージー・ボーイズ」(2016、2018年)などミュージカルや演劇作品の作・演出を担当。2015年に第22回読売演劇大賞の杉村春子賞と優秀演出家賞、2017年には第24回読売演劇大賞の優秀演出家賞及び第42回菊田一夫演劇賞を受賞。

日本で海外の、または海外で日本のミュージカルや芝居が上演されるケースはみられますが、今回は同じ作品を英国と日本、それぞれ別のキャストで上演するという非常に珍しいプロジェクトになりますね。

この企画は、梅田芸術劇場のプロデューサーである村田裕子さんが、ロンドンで上演されていたトム(・サザーランド)演出の「タイタニック」を観て感動されたことがきっかけでスタートしたものです。日本でも上演したいと考えた村田さんはトムに直接メールを送り、2015年にはトム演出で日本人キャストによる「タイタニック」が上演されました。その後、梅田芸術劇場とトムが組んだ「グランドホテル」(2016年)と「パジャマゲーム」(2017年)の2作が日本で上演されましたが、前者を演出中にトムがチャリングクロス劇場の芸術監督に決まったのです。次の段階として日本人が手掛けた作品を同劇場で上演したいということになり、梅田芸術劇場側と同劇場のプロデューサー、スティーヴン・レヴィさんが話し合って実現に至りました。

英国キャスト版の主役は、ロンドンで好評を博した「ファン・ホーム」に主演したカイザ・ハマーランドさん。選考はどのように行われたのですか。

トムとスティーヴンが英国でオーディションを行って候補者を絞り、その映像を皆で観て決めました。カイザは圧倒的な表現力で、映像を観た瞬間に「この方がヴァイオレットをやるのだな」と分かりました。俳優としての「傷」をちゃんと持っていて、それをきちんと表現できる、陰と陽を併せ持った良い女優さんですね。

現在(昨年12月末)はリハーサル中とのことですが、日英の進め方の違いに戸惑われることもあるのでは?

稽古はとても順調です。俳優たち一人ひとりの作品や役柄に対するアプローチは明快ですし、枠組みをしっかり伝えれば、自発的に動き、こちらを楽しませてくれます。通訳の方が入ることで、通常よりもかなり稽古の進行に時間がかかっていると思うのですが、明確な核やビジョンを持つ演出家ならば皆も待ってくれるし、心を開いてくれる。人種も言語も関係ない。フェアですよね。

舞台は人種差別を禁じる公民権法が制定された1964年の米国。英国も日本も当事者ではない題材を扱うことに難しさは感じますか。

僕は(昨年)2月に米南部に行ってきたのですが、人種差別という概念が根本にある、その感覚は特に日本では実感しづらい面もあるかと思います。1960年代の米国や、物語の背景にある公民権運動の空気感などを伝えるために、色々な仕掛けが必要だなと感じました。

客席が舞台を挟み込む形になるようですね。

対面式で盆(回り舞台)を使う形にしてもらいました。実際にバスで旅をするかのように、あらゆる方向へ進める形にすることに必然性を感じたのです。ヴァイオレットはバスに乗って旅をしますが、この「バス」がメタファーですよね。ここではないどこかへ行くということ、もしくは帰るということ。右に進むのか左に進むのか、前に進んでいるのか、戻っているのか。また、公民権運動のきっかけの一つであるバス・ボイコットもあります。今の時代と1960年代を地続きにし、観客の皆様がパッセンジャーとなるバスという存在が、この作品を取り上げるべきだと直感した一つの大きな理由です。

この作品は、人種問題に外見や父娘の関係、宗教的な要素も絡んできます。藤田さんにとっての肝とは?

不慮の事故によって顔に傷を負ったヴァイオレットが宣教師に会うために旅に出るわけですが、そこで黒人のフリックと出会います。彼は全人生を懸けて闘っている、闘わざるを得ない人。本当に闘っている人と出会った時に彼女の価値観が変わっていくのです。誰しも傷を持っているのではないかというのが、この作品のテーマだと思います。そして自分自身を受け入れられた時に初めて、他者や自分の「美しさ」を受け入れることができるのではないでしょうか。

そう考えると現在の社会にも通じるものがありますね。

稽古場でカンパニーの皆がEU離脱のことを、それぞれが当事者として日々話題にしており、皆の中の社会に対する価値観が変わってきていることを強く感じます。では僕が生活している日本はどうかなのかと顧みます。また米国では現在、1960年代から徐々に積み重ねられてきたものが根こそぎなくなってしまう危険性がある。そしてそれは世界中で見られる傾向でもあります。 特に60年代以降、闘う人たちがいて、新たな価値感が生まれ、それを受け入れた人たちがいた。人はそれぞれ違うのだということがきちんと受け入れられ始めた。そうやって時間をかけて獲得してきた権利がなくなってしまうとするならば、世界は偏った方向に進み始めていると言えるのではないのでしょうか。世界中があらゆる価値観の変革を求めていたという意味で、60年代は人類にとってテーマであり続ける時代だと思いますし、60年代を描いた作品を今、上演する意義を強く感じています。

ミュージカル「VIOLET」

VIOLET米南部の田舎町に住むヴァイオレットは、過去に父親の持っていた斧が飛んでくるという不慮の事故により顔に傷を負い、人目を避けるように暮らしていた。そんな彼女が、さまざまな怪我を治すという宣教師に会うため、長距離バスで旅に出る決意をする。

2019年4月6日(土)まで
月~土 19:30
(水は14:30、土は15:00もあり)
£17.50~42.50
*ロンドン公演終了後に東京・大阪にて日本キャスト版を上演予定

Charing Cross Theatre
The Arches, Villiers Street
London WC2N 6NL
Tel: 0844 493 0650
Charing Cross/Embankment駅
https://charingcrosstheatre.co.uk

「VIOLET」ロンドン公演
チケット・プレゼント!

ミュージカル「VIOLET」ロンドン公演のチケットを9組18名様にプレゼントいたします。ご希望の方は応募フォームに、希望する上演日時(下記から選択)を含む必要事項をご記入の上、送信ください。

● 3月8日(金)19:30 3組(6名様)
● 3月9日(土)15:00 3組(6名様)
● 3月9日(土)19:30 3組(6名様)

*当選された方々には、弊社からご連絡させていただきます

締め切り
2019年2月28日(木)午後6時
※ 応募を締め切りました。沢山のご応募ありがとうございました。

 

小林沙羅 - ソプラノ歌手 - インタビュー

小林沙羅

初めてにワクワクし、
「多彩」な自分でいたい
小林沙羅 ソプラノ歌手

オペラや歌曲というと、オーケストラのコンサートやミュージカルに馴染みのある人でも若干、敷居が高く感じられるかもしれない。ソプラノ歌手の小林沙羅さんは、観客にそうした垣根を感じさせずに作品の言葉の響きやメロディーの美しさを届けるべく日本国内外で活動している。そんな小林さんが、3月2日にロンドンのウィグモア・ホールで英国デビューとなるコンサートを開催することになった。有名オペラはもちろん、日本人作曲家による新作オペラにも積極的に取り組み、作詞・作曲も手掛ける小林さんのオペラや歌曲への思いとは。(インタビュー・文: 村上 祥子)

SARA KOBAYASHI 東京藝術大学卒業。同大学院修士課程修了。2010年度野村財団奨学生、2011年度文化庁新進芸術家在外研修員。2014年度ローム ミュージック ファンデーション奨学生。2010年から2015年にはウィーンとローマにて研修と演奏活動を行う。2017年第27回出光音楽賞受賞。2006年に「バスティアンとバスティエンヌ」バスティエンヌ役でデビュー後、多くのオペラに出演。数々の新作オペラ初演も務める。2012年ブルガリア国立歌劇場「ジャンニ・スキッキ」ラウレッタ役で欧州デビュー、その後「愛の妙薬」アディーナ役でも出演するなど海外へも活動の幅を広げている。日本声楽アカデミー会員。藤原歌劇団団員。大阪芸術大学准教授。 https://sarakobayashi.com

物心つく前から常にそばにあった

人生において初めて音楽を意識したのはいつですか。5歳からピアノを学ばれたとのことですが、ご両親が音楽関係の仕事に携わっていらっしゃったのでしょうか。

音楽は物心つく前から常にそばにありました。両親は音楽とは全く関係のない仕事についていますが、2人とも趣味でピアノやギターを弾いたり、歌ったりすることが大好きでした。私が赤ちゃんのころには子供用の童謡のレコードを常に流していたらしく、2歳のときには既に色々な童謡を歌っていたそうです。父はレクイエムが好きで、日曜の朝から大音量でレクイエムがかかっていたりしました。歌うことは小さいころから大好きで、休日に家族で輪唱したり、合唱したりするのがとても楽しみだったことを覚えています。

ピアノ以外にもクラシック・バレエや日本舞踊など、様々な芸術を学ばれたそうですね。その中で音楽、それも声楽の道を選ばれたきっかけは何だったのでしょうか。

私は人前で何かを発表することが好きで、ピアノやバレエの発表会や幼稚園の劇、学校の学芸会なども大好きでした。日本舞踊を始めたのは10歳のころ、(歌舞伎役者の)坂東玉三郎さんが主宰していた演劇塾「東京コンセルヴァトリー」に入ったのがきっかけです。歌舞伎や演劇、本格的なオペラなどの生の舞台をたくさん見せていただき、いつか私も舞台に立つ人間になりたいとはっきりと自覚しました。そして高校2年生でいよいよ進路を選ばなければならなくなったときに、まずは好きで、そして得意な歌を専門的に学び、それを強みに舞台に立てるようになろうと思い、声楽の勉強を始めました。高校時代は合唱部に入っていて、顧問の先生に「あなた、とてもいい声を持っているから、歌で大学を目指してみたら?」と言っていただいたのもきっかけの一つになりましたね。

いつごろプロの声楽家になろうと決意されたのでしょう。

声楽を始めたときにはもうプロを志していた、ということになります。ただ、初めからクラシックの声楽家、オペラ歌手になるつもりはなく、演劇やミュージカルの方に興味がありました。やがて大学に入って様々な声楽作品やオペラ作品に触れるうちに、その魅力の虜になってしまい、私の進む道はこれだ!と意識するようになったのです。

声楽以外にも、特に身体を使って表現する芸術を身に着けたことは、プロとして活動される上で役立っていると感じますか。

それはとても感じています。特にオペレッタ*1に出演する際は、実際にダンサーと同じくらい踊れないといけないこともありますし、最近は演出家がダンサーで、身体的な表現力を求められることも増えてきています。私は歌い手であると同時に表現者でありたいと考えているので、聴くだけでなく、観ても楽しめる舞台を作りたいと思っています。

*1 台詞と踊りからなる歌劇で、喜劇的な内容の作品が多い

「狂おしき真夏の一日」 三枝成彰のオペラ「狂おしき真夏の一日」でエミコ役を演じる小林さん

どの国でも言葉を大切にしている

東京藝術大学大学院の修士課程を修了後、海外に留学されました。海外での生活はそれが初めてだったのでしょうか。

実は2歳から5歳までドイツのボッフムという街に住んでいたので、それが最初です。父の仕事の都合で家族そろって移住し、私は現地の幼稚園に通っていました。そこでの経験は、私の性格やものの考え方、言語的な感覚などに影響を与えていると思います。

ウィーンとローマ、ベルギーで声楽を学ばれたそうですが、なぜそれらの土地を選ばれたのですか。それぞれの場所では具体的にどのようなことを学ばれたのでしょう。

ウィーンには大学院を修了してから留学し、5年間住みました。毎日、一流の演奏家がウィーンを訪れ、素晴らしいオペラや演奏会が開催されている、留学前から憧れの街でした。とても良い先生にめぐり合うことができ、ドイツ・リート*2やオラトリオ*3、オペレッタなどを学びました。ただ、やはりイタリア・オペラやベルカント唱法*4もしっかり勉強したいという思いが芽生え始め、後半3年間は年の半分ほどはイタリアに行っていました。パルマにも良いコレペティ*5の先生がいたので何度か行きましたし、ローマには声に輝きのあるテノールの先生がいらして、先生の友人宅に泊まり込んで毎日レッスンを受けていました。

ベルギーには留学はしていなかったのですが、留学1年目にエリザベート王妃国際音楽コンクールの世界大会に参加し、2週間ほど滞在しました。賞は取れなかったのですが、あのテレサ・ベルガンツァ*6氏のレッスンを受けられたことは忘れられません。ピアニッシモのパッセージが上手に歌えたときに、興奮したベルガンツァ氏がなんと口にキス(!)をしてくださったのです。ほかにもイタリアでミレッラ・フレーニ氏やマリエッラ・デヴィーア氏を含め、憧れの歌手たちから実際にレッスンを受けることができた経験は私の宝物です。

*2ドイツの歌曲。詩歌に音楽を付けたもの
*317世紀半ばにイタリアで始まった楽曲。聖譚曲(せいたんきょく)。宗教的物語を題材に取る、合唱に重きをおいた音楽作品
*4イタリア・オペラで望ましいとされる歌唱法
*5レペティトゥア。オペラ歌手やダンサーにピアノ演奏をしながら指導するコーチ
*6スペイン出身の世界的なメゾ・ソプラノ歌手

実際にそれぞれの場所で学ばれてどのような部分に共通点や相違点を感じられましたか。一概に言うことは難しいかと思いますが……。

私はウィーンでは歌曲とオラトリオとオペレッタ、ローマではイタリア・オペラというように勉強する内容を分けていたので、その違いを比較するのは難しくはあります。ただ、やはりイタリアでは何より「声」を大事にし、その響きや輝き、明るく遠くまで響く発声法を重んじているように思いました。ウィーンでは声量よりももっと細かい音楽的表現を重視し、最高音も張り上げるよりも抑制をきかせることを大事にしているように感じました。

国によって人の気質も、言語も、好まれる音楽の表現方法も違ってくるな、とはよく思います。ですが、どの国でも言葉をとても大切にしているというのは実感しました。母音の響きや子音の処理の仕方など、いかに伝わりやすく、そして表現豊かに発音するか。これはどんな国でもどんな言語でも、歌にとって重要なことなのだと思います。

2015年からは拠点を日本に移されたとうかがいました。それまではどこを活動拠点にされていたのですか。

2015年まではウィーンに自宅があったので、ウィーンが拠点でした。ただ、休みのたびにローマに行っていましたし、日本やそのほかの国で演奏会があるときは家を空けていましたので、ウィーンで長期間ゆっくり生活する、ということは本当に少なかったように思います。ただ、やはり一番ほっとしてリラックスできるのはウィーンの自宅でした。

小林 沙羅様々な作品に挑戦する小林さん

垣根を設けずチャレンジしたい

日本でも様々な都市を回り、コンサート会場だけでなく、学校や野外フェスティバルなどでも演奏されていらっしゃいます。日本で演奏される上で特に大切にされていることは?

いつもワクワクする仕事をしていたい、そして守りに入らず、常に挑戦し続けていたい、というのが私のモットーです。レパートリーを決め、それを守ってずっと演奏している歌手の方たちもいて、喉のためにはその方が良いとも言われますが、私は自分の活動にあまり垣根を設けず、様々なことにチャレンジしていく方が性分に合っているように感じています。「多彩」な自分でいたい。初めての作品との出合いや、初めての共演者との出会い、初めての場所での演奏はいつもワクワクします。でも一方でオーバーワークにならないようには気を使っています。以前はいただいたお仕事を詰め込めるだけ詰め込むという感じでしたが、最近は本番の前日と本番の次の日は喉と体を休めるために意識的にオフにするようにしています。野球のピッチャーと同じで、演奏会で全力投球をする分、きちんと体を休ませることは練習と同じくらい大事なのだと思うようになりました。

西洋のオペラの名曲のみならず、日本の歌曲も歌われ、数々の新作オペラに出演。ご自身で作詞・作曲も手掛けられています。また、現代詩を研究する音楽グループ「VOICE SPACE」にも所属されるなど、日本語、言葉を非常に大事にされている姿勢が印象的です。

私は祖母が物書きだった影響もあり、小さいころから本や詩集をよく読んでいました。朗読することも大好きで、演劇の台本を手に入れては朗読したり、詩集を朗読したりしていました。海外にいるときは日本語がとても恋しくなり、手元にある新聞や雑誌の広告欄も含めて隅から隅まで読んだりしていました。それほど日本語が大好きなのです。

日本語を歌うと発声が崩れるとおっしゃる先生もいらっしゃいますが、私はそんなことはないと思います。確かに日本語には特有の響きというものがあって、イタリア語とは違います。ただ元来、大多数の言葉が子音と母音の組み合わせ、または母音のみで成り立っている日本語は、イタリア語と同じくらい歌いやすく、メロディーに乗りやすい言葉なのではないでしょうか。日本の歌曲やオペラの歴史はまだまだ始まったばかりです。今という時代を生きて活動している私たちが、新しい作品や表現法を生み出していくのは大事なことですし、とてもやりがいがあり、面白いことだと思うのです。これから先もどんどん、新しい歌曲やオペラの作品を世の中に生み出していくための力になれたらうれしいと考えています。

春間近の英国で行われるコンサート

欧州各地でも精力的に活動されていらっしゃいますが、これまでに英国のステージで歌われたことはありますか。

それが、英国での演奏は今回が初めてなのです!演奏させていただく作曲家の一人、藤倉大さんのコンサートを聴きに行ったり、オペラやミュージカルを観に行ったりしたことはあるのですが、自分が演奏するのは初めて。英国は伝統を大切にしながらも、新しいことを敬遠せず、楽しんで応援する、というようなイメージがあります。非常に文化の成熟した都市だなと感じています。

声楽に関して、英国ならではと感じられる特徴はありますか。

英国で声楽を学んだことがないので発声法に関しては分からないのですが、作品については、イタリアのように情熱とメロディーと声の輝きで訴えかけるのとも、ドイツのように哲学的に論理的に、自然と自分の心の内とを絡めて語るのとも違い、暗くて悲しい内容を明るいメロディーでさらりと歌ってしまうような皮肉さを持ち、しかしあくまで上品に賢く、美しく、というイメージがあります。これは私の勝手なイメージですし、すべての曲に当てはまるわけではありませんが。

ウィグモア・ホールで行われるコンサートが英国デビューとなるわけですが、構成などは決まりましたか。

プログラムが決まりました。今後、変更もあるかもしれませんが、前半はドイツ、英国、フランス、イタリアの歌曲を集めました。テーマは「花」です。まだまだ寒い3月の頭ではありますが、春がもうすぐそこに来ている時期ですので、花にちなんだ曲を集めてみました。後半は日本人作曲家の作品。英国在住の藤倉大さんの作品や、武満徹さんの名作、山田耕筰さんの本格的な連作歌曲、そして実際に踊りながら歌う橋本國彦さんの「舞」をプログラムに入れました。日本語の分からない方でも楽しんでいただけるのではないかと思っています。

コンサートにはオペラや歌曲にはあまり馴染みがないという方もいらっしゃるかと思います。聴きどころ、楽しむポイントを教えてください。

本格的なプログラムではありますが、どれもとても美しく聴きやすい作品を選んでいます。意味の分からない言語であっても、その響きやメロディー、ピアノとの掛け合いなどを楽しんでいただくだけでも素敵な作品ばかりです。前半はそれぞれの国の言葉や音楽的表現、花に対するアプローチの違いなどを感じながら聴いていただくのも面白いかと思います。後半は日本語の名作ばかり。特に最後の「舞」は歌とセリフと踊りが入り混じったような作品で、気合を入れて挑みますので、ぜひ楽しみにしていていただけたらうれしいです。

Sara Kobayashi橋本國彦作品の「舞」で着用の深紅の衣装は、時広真吾氏のデザインによる

ロンドン公演

Avex Recital Series 2019
Sara Kobayashi soprano;
Ayaka Niwano piano

2019年3月2日(土)13:00開演
小林沙羅(ソプラノ)、庭野綾加(ピアノ)
チケット: £18/12

会場: Wigmore Hall
36 Wigmore Street W1U 2BP
最寄駅: Bond Street

チケットお問い合わせ先
Tel: 020 7935 2141 
https://wigmore-hall.org.uk

コンサートに関する問い合わせ先
エイベックス・リサイタル・シリーズ
www.avexrecitalseries.com

プログラム

シューベルト「野ばら D.257」
R・シュトラウス「乙女の花 Op. 22」より 「矢車菊」「ポピー」
クィルター「3つの歌曲 Op.3」より 「第1曲 愛の哲学」 「第2曲 赤い花びら、優しく眠る」
パーセル「薔薇の花よりも甘く Z585」(ブリテン編曲)
ブリテン「夏の名残のばら」
フォーレ「イスファハンの薔薇 Op.39-4」
ドビュッシー「忘れられた小唄」より 「グリーン」
トスティ「アマランタの4つの歌」
藤倉大「Kiite きいて」 「夜明けのパッサカリア」
武満徹「小さな空」 「死んだ男の残したものは」
山田耕筰「風に寄せてうたへる春の歌」
橋本國彦「舞」

※止むを得ない事情により曲目・曲順などが変更になる場合があります

 
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