Nr.2 麗しき誤解
ジャーナリズムの日本記事は意地悪になりがちですが、一般にドイツでは日本にポジティブなイメージがあります。「よくわからないけれど、世界第2位の経済大国になるほどだから、きっとすばらしいものがあるに違いない」と、表面だけ見て判断しないよう気を付けている感じです。もっとも、日本大好き人間もいて、過度な日本賛歌を聞かされるとコソバユイ気持ちとちょっと違うなという感じがしつつも、まあいいかという気になります。
ずっと以前に市民講座で日本語を教えたことがありますが、高校生の男の子が最初の授業に、「必勝」と書いたハチマキを締めて現れました。日本男児の心意気に習うというデモンストレーションだったのでしょうが、私のほうはなんとも気恥ずかしくて、次回からハチマキはしてこないよう苦労して説得しました。そのもっと以前には、ベルリンの小さな靴屋で、「お前は日本人か。日本の兵士は勇敢だ。今度はイタ公抜きでやろう」と本気で言われ、絶句したことがあります。
それほどでなくとも、贔屓の引き倒しのような言葉によく出くわします。「日本人はていねいで親切で愛想がよく、列車の運行は正確で、日本中どこも清潔だし、伝統を大切に守る文化の香り高い国だ」くらいから始まって、「日本人はお年寄りを敬うそうだから、きっとドイツのような高齢者問題はないだろう」とか、「日本と違って、ドイツ社会は自己中心的で思いやりがなくなった」、あるいは「日本人は美を大切に生きている」といった具合です。
日本でドイツについて言われていることと、皆さんが日常生活で見聞きしている現実のドイツとの落差を考えれば、こうした言葉に「違うんだよなあ」と思う理由がおわかりになるでしょう。何しろ、ドイツの鉄道は正確無比、公徳心のお手本のような国民性(路上にタバコを投げ捨てない)、音に敏感で夜はトイレの水を流すのにも気を遣う(夜中にスピーカーで石焼芋を売り歩くことは考えられない)、質実剛健・勤勉でよく働く、といったイメージを、いまだに信じ込んでいる人もいます。信じ込んでいるだけならともかく、平気でそれを書く人もいます。
これは、お互いの過去のイメージが生き残った結果に過ぎないとも思えますが、別の要素も働いています。自分の社会から「失われた」か「欠けている」と考えられるものを、異文化の中に求める心理です。この心理に直面したとき、訂正するのも憚られて、なんとも言いようのない「コソバイ」感じを抱くのでしょう。